ヨークのアルクィン
数学史上、次に偉大なヨーロッパの学者はアルクィン(Al'cuin)(735-804年)であった。ベーダ(Bede)の死の年に生まれ、ベーダほどの学者ではなく活動家ではあったが、教会においてだけでなく国家においても優れた才能を見せた。彼はイタリアで学び(1)、ヨークで教鞭をとり(2)、そしてシャルルマーニュによって彼の野心的な国民の教育プロジェクトを支えるよう招聘され(3)、ツールの聖マルティヌス(St.Martin)修道院長となった。彼は算術、幾何学、天文学について著述し(4)、彼の名は1000年の間、教科書の著者たちに影響を及ぼし続けたあるパズル問題の大全集と結びつけられている。(5)これらの数学の楽しみの書と彼がどれほど関係があるかは不確実で、その繋がりにはかなりの疑問が、ライデンのある写本の最近の研究からは投げかけられている。(6)この写本は、11世紀前半に年代付けられシャバネ(Chabanais)の古代の館のアデマール(Ademar)あるいはアイマール(Aymar)という名の修道士によって書かれたかインスピレーションが与えられたと考えられている。彼は、988年に生まれ、1030年に聖地へ赴く途上没した人物である。彼は歴史家また論客としてかなりの名声を得ており(7)、学問的な配慮なしに大量の資料を集めていたように思える。これらの問題は、イソップの寓話集、恐らくBC7世紀、サモス島でイソップによって始められたのだろうが、3世紀頃バブリウス(Babrius)によって書き換えられ、中世にはさらに一層改悪されたその寓話集の中世版の一部である可能性が高いものだった。アルクィンのものとされる問題は、ここに見いだされ、恐らく、他の何百もの人たちがそうであったように、アデマールにも興味を抱かせた寓話の中世版から、アルクィンがそれらを集めたのではないかとの疑念が生ずるが、それを否定する十分な根拠はまったくないように思える。アルクィンの文学が、これがそうであるという直接の根拠は全くないけれども(8)、一連のパズル問題を彼が書いたことを示しているのは確かである。当時の単調で面白みのない教育から解放するのに十分楽しい書物を編纂するというのは、彼の考えの中にずっとあっただろうから。(9)例えば、その全集の中に、すでに古代からあったが、
"De cursu canis ac fuga leporis" を
"De cursu cbnks bc fugb lepprks"(10)
にするというような暗号のタイトルで一層謎めいたものにされたウサギと犬の問題を見いだすことができる。
10世紀から11世紀の小君主たちの絶えざる個人的戦争は、フランスを数学や他の知的発展の分野を貧しいものにした。そして、それ故に、この2世紀は注目すべきものをほとんど生み出さなかった。
アルクィンの死後、カンタベリーの聖アウグスティヌス(オーガスタン)(604年あるいは 613年)(11)と共に、ブリテン島で始まった輝かしい時代は、それが始まったのと同様突然幕を閉じた。デーン人の侵略が、知的発展を促した安全という感覚に終わりをもたらし、アルフレッド(848-900年)が王位についた時(871年)には、こう嘆くだけであった。「教えを求めて人々がこの島に来るという時代があったが、今では、私たちはそれを求めても海外に求めなければならない。」しかし、アルフレッドの孫のアセルスタン(Aethelstan)(12)が王位につくと、彼は学問の育成に非常な関心を示し、14世紀に書かれた詩には、この強力な支配者の統治の時代に、ユークリッド(エウクレイデス)がイングランドに伝えられたという言及がなされている。
Thys grete clerkys name wes clept Euclyde,
Hys name hyt spradde ful wondur wide ...
The clerk Euclyde on thys wyse hyt fonde,
Thys crafte of gemetry yn Egypte londe;
Yn Egypte he tawzhte hyt ful wyde,
Yn dyvers londe on every syde ...
Thys craft com ynto Englond as y zow zay
Yn tyme of good kynge Adelstonus day.(13)
(この偉大な学者はユークリッド(エウクレイデス)と呼ばれた
彼の名は、世界中に広まり・・・
このようにユークリッドは基礎付けた
エジプトの土地のこの幾何の学問を
エジプトで彼は広く教えた
至る所様々な土地で・・・
この学問は(y zow zay(?))としてイングランドに伝えられた
よき王アセルスタンの治世に
--訳者試訳--)
恐らくアルクィンと同じ時代頃、一人のユダヤの数学者、ヤコブ・ベン・ニシム(Jacob ben Nissim)が、セフェル・イェジラ(Sefer Jezira)(14)という題名の著作を書いている。それは数学に関する様々な著作のように数に関する資料を含んでいる。
アルクィンの最も有名な弟子が「ゲルマニア第一の指導者」(Primus praeceptor Germaniae)、フルダ(Fulda)の修道院の大修道院長であり(822年)、マインツの大司教であったマグネンティウス・フラバヌス・マウルス(Magnentius Hrabanus Maurus)(15)であった。彼は若い頃、広く旅をし(16)ベーダ(Beda)の著作に基づいて暦に関する価値ある論文を書き、当時の数学のほとんどを含む学問であった天文学について称賛に値する知識があったことを示している。(17)
彼と同時代人の一人であるウァラフリート・シュトラブス(Walafried Strabus)(c.806-849)(18)は、コンスタンスの近くのライヘナウ(Reichenau)で数学を教えたことが知られているが、数学についての著作を何も残さなかった。
アルクィンの二番目の弟子で、フランスで教会が恵み深い影響を及ぼしたその証人でもあるのが、オセールのレミギウス(Remigius of Auxerre)(19)であった。彼はベネディクト会の修道士で、ランス(Rheims)で学校のために多くのことをし、パリには学校を創設した。その学校から大学が発展したと考えている者もいる。(20)彼はカペッラ(Cappela)の算術の注釈を書いたが(21)、それは数学になんら重要な貢献をしたものではなく、無駄な論争と空虚な詭弁の時代に典型的なものにすぎない。
ザクセンのガンデルスハイム(Gandersheim)のベネディクト会修道院の学識ある尼僧ロスヴィータ(Hrotsvitha)(22)の物語によって、この時期の不毛な数学の分野にある程度の光が投げかけられている。彼女はいくつか戯曲を書き、その中で彼女にはギリシア語とギリシアの算術あるいはボエティウスの算術かのいずれかの知識が有ることを示している。戯曲「サピエンティア(知)(Sapientia)」の中で、皇帝ハドリアヌスはサピエンティア(知)の三人の娘、すなわち Fides(信仰)、Spes(希望)と Caritas(愛)の年齢を尋ねる。その時サピエンティアは、「the age of Charity is a defective evenly even number; that of Hope a defective evenly odd one; and that of Faith an oddly even redundant one.」と言う。ハドリアヌス帝が「これらの娘の単なる年齢を答えるのに、なんと難しく複雑な問題を出すのか」と言うと、サピエンティアは、「ここにおいて、創造主の偉大なる智慧と宇宙の創造者の驚くべき知とを讃えるべきである。」と答える。(23)ロスヴィータは、偶然に、6以外の完全数、すなわち、28と 496と 8128のことを語っているのである。(24)
10世紀にクリュニーのオド(Odo of Cluny)(879-942年頃)によって算盤(アバカス)についての論文がまた書かれたようだ。12世紀の著述家の著作であるかも知れないが。(25)しかし、この時代は全般に不毛な時代であった。他にもう一人だけ名をあげるに値する著述家がいる。オルレアン生まれのフリュリのアッボ(Abbo of Fleury)(945-1003年)である。彼はイースター(復活祭)の日時の計算(26)、天文学、ボエティウスの算術について書いている。しかし、彼が記憶に留められるに値する主な理由は、彼がジェルベール(Gerbert)という、その生涯と著作は次の章で考察されるが、当時最も学識ある学者の師であったという事実による。
教会の学者の他の例は、ベルンウァード(Bernward)の場合に見られる。彼は、993年ヒルデスハイム(Hildeshiem)の司教となり(27)、主にボエティウスの数の理論に関する著作を書いている。この著作の写本は恐らくオリジナルだと思うが、ヒルデスハイムに今日でも存在する。
Sapientia. Placetne vobis. O filiae, ut hunc stultum arithmetica fatigem disputatione?
Fides. Placet mater, ...
Sapientia. O Imperator, si aetatem inquiris parvularum, Caritas imminutum pariter parem mensurnorum [=annorum] complevit numerum; Spes autem aeque imminutum, sed pariter imparem; Fides vero superfluum impariter parem.