数学史

[インドと西洋との交流][こうした交流の証拠][6世紀][7世紀から10世紀]
インドと西洋との交流

 AD500年からAD1000年までの5世紀は、全般に、西洋からインドというよりむしろインドから西洋に数学が伝わるという影響が見られる。ヨーロッパは、知的に睡眠薬を飲まされて休眠状態にあった。一方、東洋のほとんどは、相変わらず迷信的ではあったが、好奇心に満ちあふれていた。このため、この時期の著作は、先ず、東洋で現れたと考えるのが相応しい。しかし、暗黒時代であっても、西洋は、東洋に後期のギリシア文化を中国や恐らくインドの知的中心地に、その足跡を残しながら影響を及ぼし続けた。
 この交流が交易(商業)である限りでは、計算技術に影響を及ぼした。一方、巡礼の旅や軍の活動は、結果として、天文学と抽象数学との双方の知識の交流をもたらした。さらに、聖職者(僧侶)たちは、その余暇を数学の研究に注ぎ、彼らはしばしば天文学者であり、専門の占星術師として、宮廷で自然の侍者、あるいは一般の官吏に必要な人々とみなされていた。軍隊が行くところ、数学の知識も付いてまわった。一つの国の占星家たちは、こうして他国の占星家の意見を求めた。巡歴する商人、巡礼、そして軍隊は、古代すべての時代、思想の交流の手段であった。ちょうど今日、書物や雑誌がそれに対応するメディアであるように。

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こうした交流の証拠

 この時代、私たちが持っている交流の多くの証拠の中で、単に典型的なものとして挙げられる。518年の仏教の巡礼者、恵生(Hui sing)、7世紀のある時には、サンスクリットの暦(1)が中国語に翻訳された。615年には、一人のアラブの(2)使節が中国を訪れた。618年には、ヒンドゥーの天文学者(3)が、新しい暦を考案するために、中国の天文局(Bureau of Astronomy)に雇われた。629年には、玄奘(Huan-tsang) (4)は、インドに赴き、645年に帰国した後、生涯をインドからもたらした657ものヒンドゥーの著作の翻訳に生涯を捧げた。636年には、中国の記録によれば、これらの記録がアロペン(A-lo-pen)と語っているローマの聖職者が、中国の首都にきている。そして、7世紀の終わりには、仏教徒の巡礼者が広東からジャワとスマトラに航海した。8世紀には、アラブの使節が、数回、特に、713年、726年、756年、また、それ以降に訪れている。719年には、一人の使節(5)が、ローマから中国の宮廷に送られた。713年と 825年との間、大排水量の外国船が広東を訪れ、その当時、そこに重要な税関が存在していたことが知られている。755年頃、地理学者、賈耽(Kia Tan)(730-805)は、広東からペルシアに至る航海路を書いている。(6)800年頃、バグダードが急速に数学の世界の中心になりつつあった時、中国人は、ア・ルン(A-lun)(ハルン・アル・ラシド(Harun al-Rashid))の使節の訪問を受けた。唐王朝(618-907)の記録には、アラビア人(Ta-shi)への言及が数多くあり、12世紀まで、中国人とこれらの人々との交流に、しばしば言及されている。マスディ(Masudi)(956年、カイロで没す)は、有名なアラビアの地理学者、歴史学者であり、インド、セイロンと中国を 915年に訪れ、彼の「黄金の牧草(Meadow of Gold)は、この中で、それらの国々のことを述べており、よく知られている。こうした証拠から、中国は、中国の著しい活動時期以前に、西洋の数学の状況を知っていた可能性があるのか、また、他方、西洋は、東洋の進歩について、何か知ることができたのかという問題に簡単な解答を出すことができる。その答えは、それぞれが、それぞれのことを知っていなければ、かなり奇妙なものになっただろうということである。

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6世紀

 6世紀は、かなり価値のあるいくつかの著作が現れたということで、中国の数学の歴史の中で重要な時代である。卓越した著述家の中で、もっとも初期の人は、恐らく、学識ある仏僧、甄鸞(Chon Luan)(7)であっただろう。彼は、535年に生きていたように思えるが、その世紀の後半に暦を考案している。(8)彼は、五経算術(Arithmetic in the five classics)(9)を書いているが、その中には、それ以前の著作の中に現れた標準型の様々な問題が含まれている。彼は、また、それ以前の論文のいくつかについても注釈を書いた。(10)
 甄鸞(Ch'on Luan)と同じ頃に、恐らく、張邱建(Ch'ang K'in-Kien)(575年頃)(11)も生きていただろう。彼の3書の算術(12)は、ほとんどすべて現存している。その著作は、主として、分数に関するもので、著者が約数の逆数を掛けるという現代の除法の規則を知っていたということは、全く明らかなように思える。また、算術的数列、比例算(三項法)(The Rule of Three)、計量や不定一次方程式も扱っている。
 甄鸞(Ch'on Luan)と同時代のもう一人の人は、今日現存する論文の著者(14)である算術家、夏侯陽(Hsia-hou Yang)(575年頃)(13)であった。この著作は、そうしたほとんどの場合にそうであったように、算術の過程の扱いだけでなく、測量術についての問題もいくつか含んでいる。算術の問題は、すべて、乗法、除法と割合とを含んでいる。
 この世紀には、Men?という名のほとんど知られていないが、πの値を 3.14としたと言われている一人の幾何学者が活動をしていた。

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7世紀から10世紀

 7世紀で最も優れた中国の数学者は、王孝通(Wang Hs'iao-T'ung)(15)であった。623年と 626年に生きていたことが知られている。彼は、暦学の専門家で、三次方程式について書いた最初の中国人の一人であった。彼の著作(16)は、そのほとんどが現存しており、測量術について20の問題が含まれ、これらの問題のいくつかに三次方程式が入っている。しかし、そうした方程式を解く方法は与えられていない。
 8世紀には、数学の重要な著作は何もない。727年、一行(I-hsing)は、新しい暦を考案し(18)、2世紀後(925年頃)、いくつか価値のある占星術の論文(17)が現れたが、そのいずれにも暦の著作に必要なもの以上の数学は全く含まれていない。西洋の暗黒時代は、東洋にも広がっていた。

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原注1

 中国語では、九執暦(Chiu-chi-li)と呼ばれる。翻訳者は、瞿曇悉達(Chu-tan Hsi-ta)であった。

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原注2

 すなわち、もしTa-shiという名が普通に「アラブ」を意味するととれば。

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原注3

 中国語では、瞿曇?(Chu-tan Chuan)。

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原注4

 もともとの名は、Chon I。Giles, Biog.Dict., No.801を見よ。

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原注5

 中国語では、Tu-huo-loという名で呼ばれた。

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原注6

 唐書(Tang shu)では。

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原注7

 Pe`re Vanhe'eによって Tsen Loanと、彼を7世紀初期においている Biernatzkiによって Tschin Lwanと表記されている。これらすべての名は、Mikamiの著作においては、自由に使われている。

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原注8

 晋(Chin)王朝の周王(Chou monarchy)(557-581)の武帝(Wu-ti)の統治下に。

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原注9

 五経算術(Wu-king Suan-shu).

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原注10

 たとえば、周髀(Chou-pei)と九章算術(Kiu-chang Suan-shu)では。

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原注11

 Biernatzki(p.12)は、その名を Tschang Kiu Kihnと音写し、年代を7世紀初期においている。

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原注12

 張邱建算経(Chang Kiu-kien Suan-king).

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原注13

 Biernatzkiは、その名を Hea Hau yangとしている。年代は確かではないが、彼は、恐らく、550年から600年頃の時代に生きていただろう。

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原注14

 夏侯陽算経(The Hsia-hou Yang Suan-king)(Arithmetic Classic of Hsia-hou Yang)

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原注15

 Wang Hiao-tongと Wang Heau-tungとも書かれる。

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原注16

 緝古算経(Chi-ku Suan-king).

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原注17

 The Kai-yuan Chan-king(開元占経).

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原注18

 大衍暦(Tai-yen li)。

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