数学史

[中国][マイナーな中国の著述家と出来事][五曹算経][劉徽][200年から500年までの中国のマイナーな著述家][最も初期の時代の日本][インド][メソポタミア文明の衰退]
中国

 BC3000年からAD500年までの時期は、中国で数学活動の盛んな時期の一つであり、そして、わずかではあるが、日本が数への関心を示した注目に値する痕跡が残されている時期であった。(1)この時期の初め、中国の数学の歴史の中で、最大の関心を惹く出来事は、すべての書物を焼却した事件(焚書)であった。(2)すでに、第2章でも述べたように、秦(Ch'in(Ts'in))王朝(BC221)の創始者、始皇帝(Shi Huang-ti)の命によるものであり、(3)彼は、新しい学問の創始者として後世の人の目に留まることを願った。書物を焼却しなかった際の罰は、焼印を押されて、万里の長城での4年間の労役であった。記録によれば、460人の学者が、この忌まわしい法に反対したため、他のものへの見せしめに生き埋めにされたという。古代の古典のどれだけが生き残り、どれだけのものが記憶によって書き写すという手段で、忠実に(もとの形を)伝えることができたのか、私たちは知らないが、恐らく、中国の学者たちは、時の経過とともに、この点を明らかにしようと、本文批判(texual criticism)の方法を用いるようになったのだろう。
 この頃、恐らく焚書のすぐ後、張蒼(Ch'ang Ts'ang)(BC250-152年頃)という学識者がいた。彼は、政府の高官で、同名の初期の作品の断片に基づいて、新しい「九章算術(K'iu-chang Suan-shu)」を書いた。(4)(BC176年)九章はすでに与えられていた。(p.32)
 張蒼(Ch'ang Ts'ang)は、円の弓形の面積を 1/2(c+a)としている。cは、弦であり、aは弓形の高さである。彼の問題の中に、木の幹の高さを求める問題がある。その上部は、10フィートの高さであったが、倒されて底面(base)から3フィートの地面に至る。円の弓形の面積の規則は、後にヒンドゥーのマハーヴィー(Mahavira)(c.850年)の著作の中に見出され、木についての問題は、アーリヤバタ(Aryabhata)(510年頃)の時代以降の様々なヒンドゥーの数学的著作の中に見出される。

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マイナーな中国の著述家と出来事

 焚書に続く時代は、こうして生み出された必要性から予想されるように、かなり知的な活動の時代であった。この点では、しかし、全く異なった理由からであるが、それは、プラトンによって学問が刺激与えられた時代に続く世紀のようであった。Ch'eng Kiang Chen(Chun Shuenとしても知られる)は、BC200年に没した人だが、ペルーのキープ(Quipu=結縄)のような結び目をつけた縄について著述している。恐らく、会計簿記をつけるためだっただろう。
 また、中国の歴史に常に存在した、暦の調整は、学者たちの関心を集めていた。それで、BC104年頃、皇帝は、公の天文学を復興し、新しい暦が考案された。(5)また、商業算術をまとったものとして、この頃(BC135年)貨幣の鋳造が政府の優先課題となったことも注目に値する。(6)この時期の中国の歴史書は、また、Oxus川周辺地域との交流を行おうとする皇帝の努力についても語っている。(7)こうした努力すべては、東洋と西洋との数学的知識の伝播という未解決の問題と関ってくる。有名な中国の将軍、張騫(Ch'ang K'ien)は、BC2世紀に、Jaxartesと Oxusの国々に行き、BC100年頃、西はバイカル湖まで使節が送られた。(8)こうした東洋と西洋との交流は数世紀維持された。例えば、紀元1世紀(AD1-20年頃)のアラム語の写本、最も初期のぼろ布パルプ製の紙(rag paper)の標本だが、それが中国の国境で発見されている。(9)中国とインドとの交流があったことは、BC218年、すでに、そうした関係が記録されていたり、シンードゥ(Sin-du)という名が、BC120年頃の中国の歴史書に現れている事実から明らかである。また、この時期、中国は、西洋に知られていたことも十分立証されている。天文学者プトレマイオス(150年頃)は、ティン(Thin=秦)という名の国について語っているし、166年には、マルクス・アウレリウスが(中国の)皇帝の宮廷に使節団を送っている。
 こうした思想の絶えざる交流は、暦がしばしば変更されたり、円と関連する幾何学的図形の研究の原因の一つであったろう。AD25年頃、劉向(Liu Hsiao)という名の有名な哲学者、天文学者が生きていた。彼は、漢王朝の宮廷に属していた。(10)彼は、当時の「円の求積(circle squarers)」の最も優れた人の一人であった。彼の息子、劉音欠(音へんに欠)(Lin Hsing)は、(11)新しい暦を工夫した。(12)このようにして、彼の時代は、父の時代より優れたものになった。数年後(AD75年頃)、班固(Pan Ku)は、竹の棒、原始的な算盤の形をしたものの使用について述べた書物を書いた。(13)この頃に、皇帝安帝(An-ti)の下の主要な占星家であり大臣であった張衡(Ch'ang Hong)(78-139)は、アーミラリ天球(渾天儀)を作成し、天文学と幾何学とについて著述した。彼は、πの値として√10をあげている。これは、√10を近似値として用いた最も初期の例の一つである。(14)恐らく、彼と同じ時代、確かではないけれども、周髀(Chou-pei) の注釈を書いた趙君卿(Ch'ang ch'un-ch'in)がいた。190年頃、暦学の多くの専門家の一人である蔡ゆう(巛に邑)(Ts'ai Yung)(15)が活躍した。しかし、彼の著作は失われている。彼は、政治的理由で死刑の判決を受けたが、その死の判決は、髪を引き抜くという刑に減刑された。彼の宴会好きの性格のため、彼は酔竜(Drunken Dragon)という名で呼ばれた。

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五曹算経

 恐らく、キリスト教紀元の初め頃、年代は、非常に不確かなので、(16)私たちは数世紀の範囲内でさえ、年代を定めることはできないのだが、最も有名なものの一つではあるが、最も価値の少ない数学に関する中国の古典、五曹算経が書かれた。(17)著者は孫子(Sun-tzi)(18)であったように思えるが、これさえ、私たちには不確かである。著作は曖昧に書かれていて、九章ほど記述は正確ではない。一つの問題で、その性格を示すに十分であろう。

 「東側が35歩、西側が45歩、南側が25歩で、北側が15歩の四角形の畑がある。畑の面積を求めよ。」

 データが十分でないので、解答は明らかに不可能である。しかし、著者は、二つの対辺の合計の積の 1/4になるとしている。(19)こうした近似は、初期の時代、東洋全体を見ても一般的ではない。

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劉徽

 3世紀、最もよく知られた中国の数学者は、劉徽(Liu Hui)であった。(20)263年、彼は「海島算経(Sea Island Arithmetic Classic)(21)を書いた。恐らく、それに含まれる最初の問題から、名が取られたのであろう。この問題は、次のような言葉で始まる。「海に一つの島があって、それを測量しなければならない。この著作は、高さや距離の測定に関するものであり、その規則は、代数公式の巧妙な操作法に、幾分なりとも精通していることを示しているように思える。
 劉徽は、また、九章の注釈も書いた。この仕事を遂行することで、「海島」の資料を蓄積したように思える。

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200年から500年までのマイナーな中国の著述家

 3世紀のマイナーな著述家として、易経(22)の神秘主義に関する指導的権威である王充(Wang Pi)、π=142/45と主張した天文学者、王蕃(Wang Fan)、「数術記遺(Omissions noted in the Art of Numbers)」(23)を書いた徐岳(Siu Yo)(250年頃)、3世紀の灌漑技術者李冰(Li Ping)(24)、恐らくいわゆる「Chih's value of π」すなわちπ=3+1/8を提示した Liu Chih(?)(289年頃)(25)、そして上述の徐岳(Siu Yo)の著作について注釈を書いた甄鸞(Hsu Yueh)があげられる。
 5世紀は、数学への何か明確な貢献というよりも、中国と他の地域との交流の証拠を私たちが持っているということで、一層面白い。数学者の名前は、少ししか知られていないが(26)、仏教の布教者たちと巡礼者たちがインドから訪れたということは意義深い。この訪問の結果、ブラーフマンの算術と様々な天文学的著作の翻訳がなされた。それは、この分野での中国の学者たちの活動を刺激した。こうした思想の交流は、新しいものではなかった。なぜなら、仏教は、少なくとも、65年にはインドから中国に伝えられていたから。399年には、中国の仏教徒、法顕(Fa-hien)は、インドに赴き、414年に帰国してからは、生涯をヒンドゥーの著作の翻訳に捧げた。宗教は天文学と、天文学は数学と緊密に関連していたので、こうした宗教思想の交流の影響は、中国の学問(科学)を刺激したに違いない。さらに、450年頃以降、中国の年代記(史書)の中では、 Po-ssi(ペルシア)の人々に数多く言及しており、それ以後、両国間には、多くの使節が行き交った。
 この時期の数学者の中で、私たちに名が伝わっているのは、皮延宗(P'i Yen-tsung)(400-450年頃)である。彼は、それ以後失われているπの注目すべき値を計算したと言われている。また、機械学の専門家である祖沖之(Tsu Ch'ung-chih)(430-501)もいる。彼は、「指南車(south-pointing vehicle)」の知識を復活させ、詳細はすべて失われているが、モーターボートを建造した。彼は、22/7は、πの「不正確な値(約率)」だとし、355/113が「正確な値(密率)」だとしているし、また、πは現代の私たちの小数で、3.1415926と 3.1415927との間にあることを示した。450年頃、何承天(Ho' Ch'eng-t'ien)によって新しい暦が考案された。同じ頃に、Wu(?)という幾何学者は、πの値として、3.1432+と同値であることを示した。これらの詳細は、この長い時期、中国の科学的関心の性質を示している以外には、ほとんど意味はない。

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最も初期の時代の日本

  AD500年以前は文学においても科学においても、日本は全く進歩していなかったように思える。中国の表意文字[漢字]が、朝鮮を通って、284年に日本に伝わったという伝承がある。また、早い時期、「神代文字」すなわち「神の御世の文字」についての言及もある。数値を割り当てたカバラ[秘教]の一種の体系であったろう。しかし、そのことについて、明確なことは全く何もわかっていない。また、BC660年に日本人は十の何乗にも及ぶ数体系を持っていたという伝承もある。この体系では、「よろず[万]」という特別な名称が、10000を表すのに使われた。それは、すでに言及したギリシアの myriad(μυριαs,-αδοs)に対応しており、初期の西洋と東洋との交流を示すわずかな証拠であるかも知れない。(27)
 その他の初期の時代の日本の数学については、度量法の体系があったこと、何らかの知的な地位にある人たちの間に、他のすべての古代の民族と同じように、暦法があったことだけが知られている。

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インド

 この時期、インドの注目すべき貢献といえば、恐らくヒンドゥーの数体系だろうが、それについては、後で議論することになるだろう。(28)インドの数学の歴史で、次に重要なことは、そして、年代的には数詞の文書に先立つ出来事だが、それはアレクサンダー大王の軍隊のこの国への侵入(BC327年)であり、インドの宮廷に駐在するギリシア使節の派遣であった。この出来事が、学問科学、特にヒンドゥーの天文学にどれほどの影響を及ぼしたかは、現在言うことは難しい。しかし、後のヒンドゥーの著述家たちが、jamitra(ギリシア語のδιαμετροs)、kendra(κεντρον)、dramma(δραχμη)といったギリシア語を採用して用いたことは、注目に値する。(29)
 キリスト教紀元が始まるちょうど前に、北方から多くの侵入があり、ギリシアの学問が広がることを深刻に妨げた。そして、AD4世紀には、インドの古代の学問で、明らかにギリシアの天文学を置き換えようとした少なくとも一つの著作が現れた。
 今日まで知られているインドで生み出された天文学に関する最初の重要な著作は、スーリヤ・シッダーンタ(Surya Siddhannta)(30)--恐らく5世紀初め頃書かれたものだろうが、私たちは、後の時代の写本でしか知られていない--である。シュルヴァスートラ(Sulvasutras)の儀式の数学公式は、今や星の数学に席を譲った。この変化は、恐らく、アレクサンダーの時代以後も、インドに定住した古代ギリシア人の子孫によって、ずっと評価されていたギリシアの学者の著作の影響によるものだっただろう。後に述べることになる、ヴァラーハミヒラ(Varahamihira)は、5つのシッダーンタのことを語っているが、スーリヤ・シッダーンタを第一においている。5つの中に、恐らく、同じ時代頃のものと思われるパウリサ・シッダーンタ(Paulisa Siddhanta)がある。これには、初期ヒンドゥーの三角法、現代の数式で書き表せば、次のような規則になる優れた要約が含まれている。
  sin30=1/2, π=√10, sin60=√1-1/4
 sushiki
 また、この著作には、明らかにプトレマイオスの弦の表(table of chords)に由来すると思われる正弦表も含まれている。
 ヒンドゥーには、信頼できる年代学も、インドの学問科学へのギリシア文明の影響についての入念な研究もないため、この時期のインドの数学の業績について、満足のいく評価を与えることは困難である。

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メソポタミアの衰退

 いまから考察しようとしている時代以前、およそ2500年の間、メソポタミアは、高度な文明を維持してきた。アッシリア、シュメール、バビロニア、カルデアは、世界の商業機構、学問科学、法律、美術に大きな貢献をしてきた。数学、薬学、宗教、彫刻、建築、文学、そして行政の各学問は、すべてその二つの川の沿岸や、その周辺の土地に住む人々の天才によっている。
 しかし、BC6世紀が終わるとともに、この地域固有の文明にとって、壊滅的な変化が起こった。BC539年のペルシアによる征服と、それに続くパルティア、ギリシア人、ローマ人の侵入、そのどれもがメソポタミアの領土の一部あるいはすべてを征服したが、それらは、メソポタミアの古代の栄光をほとんど何も残さなかった。トラヤヌス帝は、アレクサンダー大王の制服を再び繰り返そうとして、AD2世紀の初め、バビロンを訪れたが、「そうした名声に値するものは何一つ見えず、ただ、ガラクタと石の山の廃墟とを見ただけだった。」これが、ギリシアが勃興する前に存在した他のどこよりも世界に大きな影響を、恐らく及ぼした文明の衰退を象徴するものであった。
 占星術は、今日、アジアの広い地域でそうであるように、多くの一般の人々にその力を保持し続けた。これは、BC2世紀の銘板に示されており、その中で、惑星の位置に関する予言について、王に報告がなされている。迷信が宮廷に影響を及ぼすのなら、一般の人々には、普通はるかに大きな影響を及ぼしただろう。
 この地域のすべての記録の中で、唯一つの名が、この時期の数学史において、また、姉妹学問科学との関連において、言及に値する唯一の名として目立っている。BC250年頃、カルデアのベロスス(恐らく、バール・オセアス(Bar Oseas)すなわちオセアスの息子)が、コス島に学校を創設し、日時計や恐らくその他の器具を使って、ギリシアに天文学と彼らの民族の占星術の信仰を導入した。(31)

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原注1

 Smith and Mikami, "History of Japanese Mathematics", chap.i (Chicago,1914); これ以後、Smith-Mikamiとして言及する。

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原注2

 例外として、医学、農業、易学の書物があげられる。

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原注3

 始皇帝、「最初の皇帝」は、BC259年に生まれ、BC210年あるいは211年に没している。

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原注4

 K.L.Biernatzki,"Die Arithmetik der Chinesen," Crelle's Journal,LII,II; A.Wylie,"Chinese Researches", Part III (Shanghai, 1897). これらの著作家は、BC100年頃に年代付けられるが、張蒼(Ch'ang Ts'ang)は、百歳以上で、BC152年に没し、BC176年に著作を書いたように思える。Mikami,"China",p.9を見よ。

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原注5

 J.B.Biot,"Etudes sur l'astronomie Indienne et sur l'astronomie Chinoise",p.299. Paris, 1862.

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原注6

 H.B.Morse,"Currency in China,"from the Journal of the North-China Branch of the Royal Asiatic Society, XXXVIII; riprint,p.2.

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原注7

 武帝(Wu-ti)(140-87 B.C.)。西洋と中国との関係について全般的なテーマについては、S.W.Wiiliams,"A History of China,"p.58 (New York, 1897); F.Hirth,"The Story of Chang K'ien," Journal of the Amer. Oriental Soc.,XXXVII, 89,185,186; T.W.Kingsmill,"The Intercourse of China with Central and Western Asia in the 2d Century B.C.," Journal of the China Branch of the Royal Asiat. Soc., XIV (N.S.),1; Hirth and Rockhill,"Chau Ju-Kua: His Work on the Chinese and Arab Trade in the twelfth and thirteenth centuries (Petrograd, 1911), その序文は、最も初期の時代から13世紀にいたる問題全体が考察されている。

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原注8

 E.Bretschneider,"Mediaeval Researches, I,32. London, 1910.

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原注9

 M.A.Stein,"Ruins of the Desert of Cathay,"II,114. London, 1912.

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原注10

 この王朝は、BC206年からAD25年まで続いた。

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原注11

 Biot(p.305)は、その名を、Licou-hinと音訳している。

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原注12

 三統(San-t'ung)暦、66年に考案された。

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原注13

 漢書(Han Shu)。班固は、92年に没している。

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原注14

 初期の中国のテキストの(年代が)不確かであることから、こうした説明は、いくらか疑いの余地がある。

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原注15

 133年に生まれ、192年に没する。

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原注16

 Mikami,loc.cit.,p.37には、前漢(BC206年頃に始まる)あるいは、後漢(AD25-220年)であると言っている。

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原注17

 Arithmetic Classic in Five Books.(五書からなる算術の古典)

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原注18

 Sun Tsze, Sun Tsu, Suentse, Sun Wu tsze, Sun Tsu Yeh Ch'i-sunなどとも表記される。その著作は、孫子算経(Sun-tzi Suan-king)として知られものもある。Pere Vanheeは、年代を恐らく紀元一世紀としているが、Biernatzki (p.21)は、Sun tsiは、BC220年頃に生きていたかもしれないと言っている。

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原注19

 Mikami,China、p.38.

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原注20

 また、Lew Hui, Lew Hwuy, Lieou Hoeiとも表記される。

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原注21

 海島算経(Hai-tau Suan-king) Wylieは、この著作名は、8世紀の版に最初に現れたと言っている。

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原注22

 p.25を見よ。

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原注23

 Shu-shu-ki-yi、あるいは、Chou-chou-ki-yi。この書には、多くの注釈がある。A.Vissie`re,"Recherches sur l'origine de l'abaque Chinois...."p.22 (Paris,1892)を見よ。

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原注24

 H.K.Richardson,"Asia",XIX,441.

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原注25

 同じ名のもう一人の数学者(1311-1375)がいる。彼は、新しい公の暦を考案した。

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原注26

 例えば、三等数(San-tong-shu)を書いた Tun Ch'uan、や算術家の Wang Jong。

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原注27

 これについての議論や文献目録は、Smith-Mikami,p.4を見よ。

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原注28

 Volume II, Chapter II を見よ。

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原注29

 G.R.Kaye,"Indian Mathematics",p.26 (Calcutta.1915)(今後は、Kaye,"indian Math.)として言及。; H.T.Colebrooke,"Algebra with Arithmetic and Mensuration, from the Sanscrit, p.lxxx (London,1817)(以後、考察している作品の部分に応じて、また、ここでのように、現代の綴りで、Colebrooke,"Aryabhata, あるいは、Brahmagupta, あるいは、Bhaskara, として言及。

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原注30

 E.Burgess,"The Surya Siddhanta,"in the Journ. of the Am. Oriental Sec., VI (New Haven, 1860); G.R.Kaye,"Ancient Hindu Spherical Astronomy,"Journ. and Proc. of the Asiatic Soc. of Bengal, Vol. XV; Bapu Deva Sastri and L. Wilkinson,"The Syria Siddhanta and the Siddhanta Siromani (Calcutta, 1861). Alberuni, the Arab writer on India (c.1000), は、その著作のことを、"the Siddhanta of the sun, composed by Lata."として語っている。

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原注31

 A.Wittstein,"Bemerkung zu einer Stelle im Almagest," Zeitschrift fuer Math., XXXII (Hl.Abt.)(Leipzig, 1887),201.

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