アレクサンドリアのディオファントス(Diophantus)(1)は、ギリシア文明の中でも、最も偉大な数学者の一人であった。時には、他の様々な年代が推定されたけれども、彼は、BC3世紀中頃に活躍したというのは、今日では、かなり確かなことのように思える。プセルス(Psellus)(11世紀)は、ディオファントスとアナトリオス(2)は、エジプトの計算法について著述をし、極めて学識の高いアナトリオスは、その教えの最も本質的な部分を収集し、・・・自らの著作をディオファントスに献じたと言っている。それで、アナトリオスがディオファントスの下で学んだということは大いにあり得る話である。アナトリオスは、BC280年頃にラオディケア(Laodicea)の司教になっているので、彼がこの著作を、その年以前のある時期に書いたということは疑い得ない。ディオファントスは、彼より年上であったように思えるので、恐らく、BC250-275年頃に活躍していただろう。(3)
彼の生涯について知られていることと言えば、恐らく5世紀のものと思われるギリシアのアンソロジーの中にある、奇妙な一つの問題に書かれていることだけである。その問題というのは、彼の少年時代は、彼の生涯の1/6で、1/12年後にひげを生やし、1/7年後に結婚し、その5年後に息子が生まれた。息子は、父の年齢の半分まで生き、父は息子の4年後に死んだ、というものである。その問題は、一つの点が曖昧であるが、一般にディオファントスは、33才で結婚し、84才で死んだという意味だと考えられている。
ディオファントスは、三つの著作を書いた。1)算術(Arithmetica)、もともとは13書あったが、そのうち6書だけが現存する。(4) 2)小論「多角数について(De polygonis numeris)」(5) その一部が現存する。3)ポリスムス(porisms=不定設題)というタイトルの下の多くの命題。これらの中で、最も重要な著作は「算術(アリスメティカ)」である。この著作は、題名が示しているように計算法とは区別される数の理論に関するもので、今日では代数に属する多くのものを含んでいる。一次方程式は、限定されたもので、未知数は正の数になるように枠が設けられている。限定された(determinate)二次方程式を解くのに、ディオファントスは、解が二つとも正の数になるときでも、一方の平方根だけしか採用しなかった。三次方程式は、ただ一つの特別な場合についてだけ解いている。しかし、そうした方程式の更なる著述が、失われた著作の中にあったかも知れないとも考えられている。彼の不定方程式は、一般に、Ax+C=yyと Bx+C=yyの型のものである。連立二次方程式論は、特殊な場合についてのみ述べている。(6)
ディオファントスは、彼の時代まで知られていたものより優れた代数の記号体系(symbolism)を導入した。全般に、彼は代数の発展において数世紀先んじていた。他の著述家の著作の中に、こうした発展が見られるように。そして、彼の著作はアラビア人には知られていたが、16世紀にヨーロッパで発見されるまで、正当には評価されなかった。彼は、学問科学の歴史の中で、十分に納得のいく説明のされない偉大な天才として際立っている。私たちは、どんな師が彼に霊感を与えたのか知らないし、彼がどんな書物を読んでいたのかも知らない。そして、私たちは、知力の劣った世紀に、彼がどうして巨人のように出現したのかも説明できない。恐らく、セネカの「いかなる時代も、偉大な天才には閉じられていない。」(7)という言葉が、唯一の期待される説明であろう。
この時代からそれほど遠くない時期に、新(ネオ)プラトン主義者、ポルフュリオス(Porphyrius)(8)、もともとはマルコス(Marcus)(9)として知られ、ティルスの人で、一般にはポルフュリュとして語られる人物が活躍していた。彼は、ピタゴラスの生涯について(10)、プトレマイオスの音楽についての著作を書いた。彼は、アテネとローマに住んだ。しばらくシチリアで過ごしたこともある。主として、哲学的著作、キリスト教への反駁で知られている。彼の墓、あるいは、彼の墓であると伝承され指定されているものを、今日でもコンスタンティノープルで見いだすことができる。
アナトリオスとポルフュリオスの弟子の一人が、算術についての著作を含むいくつかの著作を書いたイアンブリコス(Iam'blichus)(11)であった。彼は、ニコマコスについての注釈(12)を書いた。また、私たちは、ニコマコスやピタゴラス(13)、その他のギリシアの著述家に関するかなりの情報を彼に負っている。3つの整数、3n, 3n+1, 3n+2の合計に等しい数を取り、その数のそれぞれの桁の数を足し算する。その結果のそれぞれの数の桁の数を更に足し算するというように繰り返していくと、最終的にその合計は6になるという公理は、彼によるものである。
AD340年頃、シチリア人であるユリウス・フィルミクス・マテルヌス(Julius Fir'micus Maternus)は、「数学に関する8書(Eight Books on Mathematics)」(14)というタイトルの書物を書いた。しかし、これは、専ら、バビロニア人とエジプト人の教えによる占星術の裁き(占い)に関するものである。こうした著作は、それらが、時折学問科学を愛好する傾向を示すことを除けば、数学の歴史の中では、ほとんど居場所はない。
また、他に、一般に、学問の衰退したこの時期、数学に関心を示しているケースが、個々に存在する。例えば、ヒュパティアの弟子で、詩人であり雄弁家でもあったキュレネのシュネシオス(Synesius of Cyrene)によるアストロラーベの作成のように。彼は、410年にプトレマイス(Ptolemais)の司教になっている。
390年頃、若いテオン(Theon the Younger)、学識あるヒュパティアの父として知られるアレクサンドリアのテオンは、エウクレイデス(ユークリッド)の「幾何学原論」とプトレマイオスの偉大な著作を編集・校訂し、様々な学問的論文を書いた。そして、60進法の分数(60分数=sexagesimal fraction)の助けを借りて、平方根を見つける方法を示した。彼の版のエウクレイデス(ユークリッド)の写本は、「幾何学原論」の正確なテキストを決定する上で、現代の著述家たちの役にずっと立ってきた。
少し後に(450年頃)シリアのラリッサ(Larissa)のドムニノス(Domninus)(15)が、算術、哲学、光学について著述している。彼は、ニコマコスの帰納的方法より、むしろエウクレイデス(ユークリッド)の幾何学的・演繹的方法に従った。そうすることで、彼は、今では失われてしまったが、数の理論のある重要な著作に近づくことができたように思える。
アレクサンドリアのパッポス(Pappus)(16)は、ギリシア後期の幾何学者で、年代は確かではないが、恐らく3世紀に活躍しただろう。それほど慎重ではない著述家のスイダス(10世紀頃)は、テオドシウスの治世下に彼を置いているが、それより2世紀も前に生きていたと信じているものもいる。彼の偉大な著作のうち、数学大全(Mathematical Collection)(17)は、本来8書からなっていたが、後半の6書だけしか、私たちには伝わっていない。第3書は、比例、内接する立体、立方体の体積を二倍にする問題を扱っている。第4書は、スパイラル、クアドラトリクス(quadratrix)などの他の高次平面曲線を、第5書は、極大(maximum)と 等周図形(isoperimetric figures)を、第6書は、球を、第7書は、ギリシア人の解析法をその歴史を、そして第8書は、機械学を扱っている。二つの有名な定理に、彼の名が付けられている。一つは、軸の回りに平面図形を回転させることで生ずる立体(回転体)についてのもの、後にグルディン(Guldin)の定理として知られているもの、もう一つは、ピタゴラスの定理を一般化したものである。彼は、また、点の累乗の理論(the doctrine of the involution of points)と鉛筆を横に切る場合の複比(anharmonic ratios)の不変性についても知っていた。後者はすでにメネラオスに知られていた。
アレクサンドリアのヒュパティア(18)は、数学において、何らかの注目すべき地位にあった最初の女性である。このためと、彼女の殉教(死)のため、歴史上非常に高い地位を占めている。彼女は、テオンの娘であり弟子であった。彼女の学識は、伝承によれば、アレクサンドリアの新プラトン学派を統轄するよう求められるほどであった。しかし、彼女の場合、スイダス(10世紀頃)が、新プラトン主義者のガザのイシドルスと結婚したと叙述している話のような歴史にまつわる話の多くは、フィクションであるように思える。一方で、彼女が敵対する学派の学徒たちと町で議論していて殺害されたというのは確かなように思える。スイダスは、彼女はディオファントス、恐らく代数学者の天文表についての注釈とアポロニウスの円錐曲線についての注釈を書いたと言っているが、彼女の著作はすべて失われてしまった。(19)
プロクロスは、哲学の分野でプラトンの後継者(21)とみなされていたので、「継承者(Successor)」(20)とあだ名されていたが、彼は、アレクサンドリアで学び、アテネで教えていた。彼は、多作の著述家であり、彼の著作には、プトレマイオスの難解な部分を分かりやすく言い換えたものや天文学についての著作、ユークリッドの第一書の注釈、また、占星術についての短い論文などが含まれている。また、高次平面曲線の研究をした証拠もある。彼の著作は、ギリシアの幾何学の歴史についての貴重な情報源である。彼の生涯についての情報は、パレスティナ(古くはシケム)のフラヴィア・ネアポリスのマリノス(22)に負っている。マリノスは、AD485年に彼の後を継いでいる。(23)このマリノスは、ユダヤ人学者である確立がきわめて高いが(24)、また、ユークリッドのDataの概説(序論)を書いている。
この頃に、アクィタニア(Aquitania)のウィクトリウス(Victorius)(25)は、復活祭の日を決めることに関する書物、コンプティ(Computi)の最初のものの一つである復活祭(過ぎ越しの祭り)規範(Canon Paschalis)を書いた。彼は、キリストの死後、最初の満月の時に私たちの時代が始まることを示唆している。彼は、また、カルキュルス(Calculus)、すなわち実用的な算術を書いた。この中で、彼は、分数と大きな数の掛け算の表にかなりの注意を向けている。
カペッラ(Capella)という名は、年代的な理由から、この章に含まれるかもしれないが、彼の著作の6世紀の著述家との関係から、第V章で考察することにする。