数学史

[ヘロン][メネラオス][ニコマコス][ニコマコスの著作][スミュルナのテオン][チュレのマリノス]
ヘロン

 アレクサンドリアのヘロン、あるいはヘロ(He'ro)は(1)、私たちが今話題にしている時代の初め頃、他のどの著述家よりも完全に数学の応用分野を代表している。彼は、エジプト人であったように思える。彼のスタイルは、ギリシア人の様式ではない。彼は、一般にヘロンの泉(Heron's Fountain)として知られる空気圧を利用した装置や蒸気エンジンの簡単な形、その他様々な機械を発明し、数多くの活動で多くの才能を発揮した、彼は、気力学(pneumatics)、屈折光学(dioptrics)、そして機械学について著作したが、数学の観点から見ると、測量術(法)に関する著作が一番おもしろい。ここで、彼は、土地の測量を扱っている。恐らくエジプト人によって用いられていた方法を要約しているのであろう。多くのギリシアの学者たちの場合と同じように、彼の著作のいくつかは失われてしまった。彼の三角形の面積を求める公式、heronは、よく知られている。それは、測地学(geodesy)(2)の中に出てくる。それは、韻律論(metrics)(3)の中に含まれているが、証明は屈折光学(dioptrics)(4)の中で与えられている。(恐らく、後で書き加えられたもの)彼の幾何学には、私たちが C=(n/4)*{cot(180/n)}という公式で表現される三角法の規則が初めて明確に使用されているのが見いだされる。nは、面積A、辺 sの正多角形の辺の数であり、C=A/ssである。n=3,4,....12の場合の cを計算している。しかし、その方法は分かっていない。彼は、私たちが axx+bx=cという形で書く方程式を解くことができた。そこで、今日私たちが知っているように、一般二次方程式は、ギリシア人の数学者によって、十分マスターされていた。
 この頃、アンティノポリスのセレノス(Serenus)(5)が生きていた。彼は、33の命題を含む円柱の切断面(Section of Cylinder)について、また、69の命題のある円錐の切断面についての論文の著者であった。後者は、極大(maxima)と極小(minima)について、かなりの著述を含んでいる。彼は、また、光線の調和の光束(束線形)(a harmonic pencil of rays)についての原理も採用した。

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メネラオス

 ギリシア数学の衰退期に、何らかの天才の証を示した人の一人、メネラオス(6)は最も優れたものの一人であった。彼は、アレクサンドリアの生まれで、球体(sphere)について、特に、球面三角形の幾何学的特性に関しての論文(7)を書いた。彼は、98年にローマで天文観測をしたことで知られている。球体についての論文の他に、彼はまた、弦の計算(calculation of chord)について六つの書を書いている。彼の最も重要な公理の一つは、もし三角形を形作る三本の直線が、横断線(transversal)で切断されるなら、共通の端点(extremity)をもたない3つの線分の長さの積は、他の3つの(線分の長さの)積に等しい、というものである。これは、「三本の線分」の代わりに、「二重にされた三本の線分の弦」と置き換えた球面三角形に関する同様の命題への補助定理(lemma)として現れる。この命題は、6つの線分を含むために、中世においては、しばしば、regula sex quantitatumとして知られる。彼は、また、同一点に集中する4つの直線を切断している横断線によってできる直線の線分の調和的でない比率の、不変の特性も知っていた。--その発見は、以前は、およそ2世紀後に活躍したパッポス(8)に帰せられていた特性である。

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ニコマコス

 算術についてのギリシアの著述家の中でも、最もよく知られているのは、最も偉大な算術家というわけではないが、ゲラサのニコマコス(9)であった。彼の生誕の地は、恐らく、エルサレムの北東56マイルほどに位置する町、現代のイェラシュ(Jerash)であろう。彼は、ティベリウス(14--37年統治)の治世下に生きていたトラシュルス(Thrasyllus)(10)について言及しているが、ハドリアヌス帝(117-138年統治)の治世下に生きたスミュルナ(Smyrna)のテオンの著作については何も語っていないので、また、彼の著作は、アントニウス・ピウス帝の時代(138-161年統治)に生きたアプレイオス(Appuleius)によって、ギリシア語からラテン語に翻訳されているので、私たちは、彼は、起源1世紀の終わり頃に生きていたと主張してもよいだろう。
 ニコマコスは、音楽についての論文と算術に関する二つの書でなる著作とを書いた。(11)私たちに伝わっているその算術は、失われて久しいより大きな著作の要約にすぎないかもしれない。そうした著作のいくつかは、ボエティウスに知られていたように思える。そして、その分野(算術)に関するボエティウス自身の論文を編集するのに用いられたように思える。

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ニコマコスの著作

 ニコマコスは、当時アレクサンドリアで盛んであった哲学者の一宗派で、ピタゴラスの教えを復活させようとしていた、ネオ・ピタゴラス主義に属していた。それで、ニコマコスが、ゲラサからアレクサンドリアへピタゴラスの教義を学びに旅をしたことは、大いにあり得る話である。(12)とにかく、彼がした算術に関するうんざりするほど扱った話の中に、かなりの量のピタゴラスの数の理論がある。時代は、知的衰退の時代であった。彼が、一級の著述家によって書き留められなかった分野での古代の教えを要約することをしなかったなら、私たちは、決して彼のことを耳にすることはなかっただろう。(13)彼の算術は(14)、科学としての学問的扱いという言うよりは、むしろ、哲学への導入(手引き)であった。それ以上に優れたものがなかったので、わずかに残されていた哲学の学校でテキストとして採用され、ボエティウスが、その影響を永続させようと多くのことをした。(15)フィロパトリス(Philopatris)(16)、恐らく、10世紀頃(18)になってルキアノス(Lucianus)(17)の本当の著作の中に挿入された偽の対話であろうが、その中で、「ゲラサのニコマコスのように計算する」ある男のことが語られている。(19)その言葉自体は、ばかげたものであるが、そのように意図されることは、きわめてありそうなことである。なぜなら、ニコマコスが何か巧みに計算をすることができたという証拠は何一つないのだから。彼の関心は、むしろ数の理論にあり、それは、私たちが見てきたように、ロジスティックとは全く異なるものであったから。
 ニコマコスは、エラトステネスのふるいに言及し、しばしば、ピタゴラスの教義を引用している。彼は、多角数(figurate numbers)の扱いを拡張し、著作の中で、ギリシアの九九の表の初期の形のものを載せている。詳細な九九の表は、バビロニアの粘土板で発見されているが、p.58で言及した古代の蝋板のものを除けば、それより初期のギリシアの例は知られていない。中世の呼び名、メンサ・ピュタゴリカ(mensa Pythagorica=ピタゴラスの表)は、第II巻で述べられる九九の表のある形は、ネオ・ピタゴラス主義者に由来したものであるという意味かもしれない。
 ニコマコスのもう一つの著作、テオログメナ(Theologumena)(20)は失われてしまった。現存するその名の著作は、後に編集されたものであった。

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スミュルナのテオン(21)

 後に言及するアレクサンドリアのテオンと区別してこう呼ばれる。彼は、ハドリアヌス帝の時代(AD117-138年統治)に生きた。算術と天文学に興味があり、エクスポジチオ(Expositio)というラテン語の翻訳の作品(22)の著者で一般に知られている。この著作は、プラトンを読むのに必要な数学を説いているが、そのうちの2書、算術に関するものと天文学に関するものが現存する。そして、これらが彼の書いたすべてである可能性が高い。前者(算術に関するもの)は、ニコマコスの著作に似ているが、それほど体系的ではない。(23)

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チュレのマリノス

 チュレのマリノス(Marinus of Tyre)(24)は、ギリシアの科学者で、AD150年頃生きていた。彼は、古代の数学的地理学の創始者と呼ばれるにふさわしい。ヒッパルコス(BC150年頃)より、明らかに大成功を収め、二つの座標、すなわち経線と緯線に言及することで地位を確かなものとした。彼の地図は、少し後に、天文学者プトレマイオスが認めることになる基準を定めた。しかし、地図そのものは、私たちに伝わっていない。彼は、至福の島々(Fortunae Insulae)(25)を通る本初子午線(prime meridian)を確立し、この子午線は、プトレマイオスによって採用された。後に、その子午線は、より明確にカナリア諸島の一つ、フェッロ(Ferro)(26)を通る位置にされ、この位置は、現代まで認められた。

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原注1

 Ηρων. A.D.50年頃。この年代は、Wilhelm Schmidt,"Heronis Alexandrini Opera quae supersunt omnia",Leipzig, 1899-1914.の詳細な研究に基づくものである。彼は、ヘロンを紀元1世紀においている。以前は、プトレマイオス・フィラデルフォス(Ptolemies Philadelphus)とエウエルゲテス(Euergetes)(BC283-222)の時代に生きていたと考えられていたり、また、BC100年頃に活躍していたと主張されていた。また、R.Meier,"De Heronis aetate",Leipzig,1905; Abhandlungen,VIII,195; T.H.Martin,"Recherche sur la vie et les ouvrages d'Heron d'Alexandrie"in Me'moire pre'sente's par divers savants a' L'Acade'mie des Inscriptions,IV(1)(Paris,1854); F.Hultsch,"Heronis Alexandrini geometricorum et stereometricorum reliquiae",Berlin,1864.も見よ。Heath,"History,II,298では、現時点では、資料は、3世紀に好意的であるが、いずれにしても、年代はきわめて不確かなものであると述べている。

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原注2

 Ιεωδαισια.

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原注3

 Μετρικα.

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原注4

 Περι διοπτραs. 中世の公式については、G.Enestroem,Bibl.Math.,V(3),311.を見よ。

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原注5

 .Antin'oe, Αντινοεια, ナイル川東岸にある都市。彼は、しばしばアンティッサのセレヌス(serenus of Antissa)と呼ばれる。Cantor,"Geschichite",I,chap.20.を見よ。セレヌスの年代は、全く不確かである。彼の Opuscula(Leipzig,1895)を編集した、J.L.ハイベルク(Heiberg)は、彼を4世紀におこうとする傾向がある。

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原注6

 Μενελαοs. 紀元100年頃活躍。Heath,"History",II,260.

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原注7

 ラテン語のタイトルは、こちらの方が一番よく知られているが、Sphaericorum Libri IIIである。Maurolycus(1558)、Mersenne(1644)、その他の著述家による版がある。

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原注8

 Abhandlungen,XIV,96,99を見よ。

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原注9

 Νικομαχοs Ι'ερασηνοs, あるいは、Ι'ερασινοs. 100年頃活躍。Heath,"History",I,97.

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原注10

 恐らく、ロードス島のトラシルス(Thrasyllus of Rhodes)。36年頃没す。

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原注11

 これは、1538年、パリで最初に印刷された。最良版は、Hocheの版(Leipzig,1866.)である。

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原注12

 しかし、他の知的中心地が勃興するに及んで、アレクサンドリアは、その威光を失い始めていた。Kroll,"Geschichte",p.32を見よ。

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原注13

 P.Tannery,"Revue philosophique",XI,289を見よ。

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原注14

 Introductionis Arithmeticae Libri duo; ギリシア語では、Αριθμητικηs εισαγωγηs βιβλια β. ラテン語とギリシア語の様々な版がある。英語でのその作品の要約は、G.Johnson,"The Arithmetical Philosophy of Nicomachus of Gerasa (Lancaster, Pennsylvania,1916); Heath,"History",I,97,and II,238.を見よ。

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原注15

 少なくとも、1317のパラフレーズは、ヘブライ語でも知られている。M.Steinschneider,"Die Mathematik, bei den Juden",Bibl.Math.,XI(2),79.を見よ。

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原注16

 Φιλοπατριs.

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原注17

 Λουκιανοs. 紀元2世紀のギリシアの滑稽な作家。

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原注18

 議論については、M.C.P.Schmidt,"Chrestomathie,"III,19.を見よ。

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原注19

 Και γαρ αριθμεειs ωs Νικομαχοs ο Γερασηνοs.

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原注20

 Θεολογουμενα αριθμητικε.

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原注21

 Θεον. Fl.c.125. Heath,"History",II,238.

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原注22

 Των κατα το μαθηματικον χρησιμων ειs την του Πλατωνοs αναγνωσιν (βιβλια). 最良のギリシアの編集者は、E.Hiller,"Theonis Smyrnaci Philosophi Platonici Expositio..."(Leipzig, 1878)である。J.Dupuis (Paris,1892)によるフランス語訳がある。

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原注23

 彼の天文学については、T.H.Martin,"Theonis Smyrnaci Platonici Liber de Astronomia"(Paris,1849); J.R.Biot, review in the "Journal des Savants"(April,1850)を見よ。

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原注24

 Μαρινοs.

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原注25

 Αι των Μακαρων νησοι. 至福の島々(Islands of the Blessed)、恐らく、カナリア諸島、マデイラ諸島、アゾレス諸島を含んでいただろう。ミルトンが「至福の島々(thrice happy isles)」と呼んだところ、ヘシオドスとピンダロスがエリュシオン(Elysium=至福の地、極楽)をおいたところはここであった。

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原注26

 古代の Pluvialia。プトレマイオスのΠλουιταλα。

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