次の2・3世紀は、ローマの軍事力が増大し、その結果、知的理念が抑圧された時代であった。美術、哲学、科学、政治学、倫理学、そして数学は、すべて低いレベルに沈んだ。しかし、文学は進歩を遂げた。ベルギリウスは、ホメロスを模範とし、キケロはデモステネスの足跡に従ったけれども、BC6世紀に、すでに、エトルリアの芸術は、その技法においても、また、ギリシア神話の伝統を用いたことでも、全くギリシア的であった。芸術だけなく、文学や科学においても同様に、ローマは、単に同じ線上に従っただけであった。数学においては、ローマはなんらオリジナリティを示さず、なんら高い理想も抱かなかった。学問は、王国のコインで正にもたらされるものとして価値があるのであって、それ以上のものではなかった。ローマは、女神ヌメラリア(Numeraria)を創造したが、ローマは、人間の創造力よりも、むしろ富の獲得の方を好んだ。お金は、その人間になんの価値もないときでさえ、すべてである。(1)例えば、アレクサンドリアのヘロンのような天才が、ギリシア・ローマ世界に生まれたときでも、彼の関心事は、たいていは常に、すでに発展した科学の応用であって、その境界を拡げようとするものではなかった。ローマ自体について言えば、どれほど多くの学者や文学者がイタリア以外の地で生まれたか、それが注目に値する。スペインからは、二人のセネカ、ルカヌス、マルティアリス(Martial)、クィンティリアヌス、そして恐らく、ヒュギヌス(Hyginus)が。フランスからは、フォヴォリヌスとドミティウス・アフェル。パレスティナからは、ヨセフス。エジプトからは、フィロン(Philo)。そして、ギリシアからは、プルタルコスとエピクテトゥスが出ている。(2)ピタゴラスとアルキメデスがイタリアに住んでいたとして、名を挙げられるとしても、彼らは、本質的にはギリシア人であり、アルキメデスの死後、厳密な学問科学は、消滅してしまったといえるだろう。キケロは、ラテン人のこの心の態度を嘆いていた。ギリシア人の間では、幾何学に高い評価名誉が与えられているが、ローマの側では、その評価が欠けていることを対照させながら。(3)
この時期、マルクス・テレンティウス・ウァッロ(BC116-28年)が絶頂期を迎える。彼のことを、クィンティリアヌスは、ローマ人の中で最も博識ある人と呼んでいる。聖アウグスティヌスは、余りに多くの書物を読んでいるので、彼には何かを書く時間があったのだろうかと思うし、余りに多くの書物を書いているので、彼の著作をすべて読む時間のある人が、誰かいるのだろうかと思うほどで、私たちにはほとんど信じられない、と言っている。こうした芸術文学の愛好家について、あまり学問的なことを期待することはできないだろうし、現に、現存する彼の著作は(4)、それほど大きな価値があるわけではない。彼は、「教本(Disciplinarum Libri)」の中で算術を扱っている。また、彼は、「測量術(Mensuralia)」あるいは「測量について(De Mensuris)」という書物も書いている。実用的な測量術に関するものであるが、私たちが知っている限り、彼の著作は、単なる編集物に過ぎない。(5)彼は、数少ないキリスト教以前の数学者の一人であり、彼のついて、同時代人による人物描写もある。彼のプロフィール(横顔)は、彼がポンペイの出納長であった時に鋳造されたコインに描かれている。
当時、数学の歴史に何らかの関心を示した人たちの中で、最も有名なのはゲミノス(6)である。彼は、ロードス島の生まれであるが、ローマで著述したかもしれない。彼は、数学を二つに分類したと言われている。一つは、純粋な数学で、算術や(古代の意味で)幾何学を含む。もう一つは、応用数学で、機械学、天文学、光学、測地学、正典学(canonics)とロジスティックスを含んでいる。紀元5世紀に生きたプロクロスは、私たちにこう語っている。彼は、スパイラル(渦線)、コンコイド、シッソイド疾走線を扱った幾何学を書いた。その著作のうち一つだけが現存する。ファエノメナ(Fhaenomena)(7)という天文学に関する論文である。プロクロスは、ゲミノスの著作に基づいて、多くの歴史に関する覚え書きを残しており、これらの覚え書きは、ほとんど、後者の「数学の分類」にあたる断片の中で発見されている。
数学史に関する情報を提供してくれるもう一つの資料が、これより少し後に活躍した一人のシチリア人によって書かれている。彼がBC8世紀頃に生きていたことは確かであり、ディオドロス(Diodo'rus)、一般にディオドルス・シクルス(Diodorus Siculus)と呼ばれているが、シチリア島のアギリウム(Agyrium)に生まれた。彼は、歴史に関する40冊の書物を書いた。文体はよくなく、その内容は十分分類されていないが、彼の著作は、古典時代、特にエジプトの学校で学ばれた数学の性質についてかなりの情報を私たちに提供してくれる。
断片的ではあるが、古代数学者の多くの知識を負っているもう一人の著述家は、地理学者のストラボン(Strabo)(8)である。彼の二つ目の書物は、数学的地理学を扱っており、エラトステネスによって用意された世界地図にある批評を加えている。
ゲミノスの少し後、ピタゴラス学派の哲学者、ニギディウス・フィグルス(Nigidius Figulus)(9)が生きていた。彼は当時非常に尊ばれていた。当時の人々は、彼は哲学者、政治家、数学者、そして天文学者(占星術家)として知られていたが、彼が貢献したものは後にはほとんど影響を及ぼさなかった。数学的天文学の分野で、「蛮族とギリシアの球体について(De Sphera Barbarica et Graecanica)を書いたが、断片しか私たちには残されていない。
恐らく、フィグルスと同時代の人(しかし、年代は確かでない)で、ディオニュソドロス(Dionysodorus)(10)という幾何学者がいた。彼は、小アジア、恐らくアミソス(Ami'sus)(11)に住んでいただろう。彼はアルキメデスが提出し、すでにディオクレス(Diocles)によって議論されていた問題--球体を平面で与えられた比率に切ること--を解いたことで知られている。(12)また、新しい型の円錐形の日時計も発明した。
ユリウス・カエサル(シーザー)(BC100-BC44年)の暦の改革(BC46年)の貢献にも触れておいた方がよいだろう。これは、アレクサンドリアのソシゲネス(Sosigenes)(13)という天文学者、それ以上のことはほとんど何も知られていないが、彼の助けで企てられた事業である。カエサル自身、天文学に十分精通していたし、そのテーマの詩や「天体について(De Astris)」という詩を書いたが、いずれも残っていない。彼はまた、広く(ローマ)帝国の測量も計画していた。
BC40年頃、ギリシアの天文学者、クレオメデス(Cleomedes)(14)は隆盛を極め、天体の周回循環の理論について論文を書いたように思える。(15)彼の算術と天体についての論文の写本が、まだ存在すると300年前には言われていたが(16)、それ以来失われている。
数学を広く実用の目的で用いたローマ人のうち、マルクス・ウィトルウィウス・ポリオ(Marcus Vitru'vius Pollio)ほど、一般にはウィトルウィウスとして知られていたが、優れた人はいないだろう。彼の建築についての著作は(17)、BC20年とBC14年の間に書かれたと考えられている。第9書で、彼は様々な型の日時計を扱っており、また、著作全体を通して、若いときに技師として訓練を受けたことを示している。また、光学の古代の学問である遠近法についてもかなりのことを知っている。
同じく、応用数学全体について言及している、ガデス(Gades)(ガディス(Gadiz))のルキウス・ユニウス・モデラトゥス・コルメラ(Lucius Junius Moderatus Columella(AD25年頃))は、農業について書き(18)、また、彼の論文は天文学や暦学、測量技術についてある程度の情報を含んでいる。
一般にプリニウスとして知られるガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus)の名は(19)、主として37巻の書である「自然史(Natural HIstory)」と結びつけられているが、彼は、論文の中で、ある程度数学を紛れ込ませていることを思い出さなければならない。第2巻には、簡単な天文学の解説が含まれ、特に、歴史的な情報があることから貴重である。ローマの数詞の実際の使用の私たちの知識は、この著作の中で、しばしば彼が言及していることから豊かにされている。
数学の応用に関するローマの著述家の中で、ウィトルウィウスの次に最も優れているのは、セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス(Sextus Julius Frontinus(40-106年頃))であった。将軍であり、水の供給(水道)の管理者で、戦争に関する著作と(20)と水道に関する著作(21)の著者であった。この時代の土木工事のある評価は、クラウディウス(帝)の水道のことを考えて形成されたかもしれない。それは、紀元1世紀に建造された。また、一般には、フロンティヌスによって書かれたと信じられている他のある書物も保存されている。それには、ローマ人によって普通に用いられていた土地の測量の原理が述べられている。(22)
測量の仕事に数学を使用した人々の中で、グロマティクス(Gromaticus=測量師)として知られるヒュギヌス(Hyginus)(23)は、最も優れた人の一人である。グロマティクスというのは、長さを測ったり、土地を区画するのに用いた道具、グロマ(groma)(24)を使う人々のことであった。ヒュギヌスは、そのことについて書いた人としてよく知られていた。現存する彼の著作の断片は、その学問に対する数学の貢献は何も示していないけれども。これより古い時代にも、ヒュギヌス(25)がいた。彼は天文学について何の価値もない書物(26)を書いたが、より優れた同名の人、測量家ヒュギヌスと、時々混同されることがある。
ローマの測量家、バルブス(Balbus)(100年頃)は、ヒュギヌス・グロマティコスと同時代人であろうと非常に思われるが、彼の貢献(27)は重要ではない。
この頃、トラヤヌス帝の治世(98-117年)に、数学者であり天文学者であるテオドシオス(28)が生きていたことは確かである。スイダス(Suidas)の証言によれば、彼は、フェニキア海岸のトリポリの生まれであった。彼はいくつかの著作を書いた。最も重要なものは、球体(sphere)についての論文である。(29)この著作は、ほんのわずかの価値しかなかったが、天文学に関する他のギリシア人の著作の多くとアラビア語に訳され、その簡潔さ故に、アラビアの学校でかなりの名声を得た。彼は、しばしば、BC50年頃に生きた人で、日時計について書いたビチュニアのテオドシウスと混同される。