ペルガのアポロニウス(1)は、円錐曲線についての著作のために「偉大な幾何学者」として知られていた。彼は、アレクサンドリアで教育を受け、プトレマイオス4世(Philopator,BC222-205年統治)の下で没したので、彼がエラトステネスを知っていた可能性は極めて高い。彼は底として10の四乗を用いることで、アルキメデスの数体系を改良した。その数、一万(myriad)(2)は、東洋で長く用いられてきたもので、何世紀もの間、ヨーロッパだけでなく、東方でも、偉大なすべての数の体系の底であった。彼の主な著作は、円錐曲線に関するもので、それを彼は、楕円(ellipse)、放物線(parabola)、双曲線(hyperbola)と名付けている。(3)
この著作は(4)8書でできていて、初めの4書はギリシア語で、次の3書はアラビア語で私たちに伝わっているが、最後の1書は失われてしまった。第一書で、アポロニウスは、三つの円錐曲線が同一の円錐から、どのようにして得られるかを示している。彼は一種の座標系を用いている。直径は、いわゆるx軸のために用い、y軸として頂点からの垂線を用いている。第1−4書には、すでに知られていなかったものはほとんど含まれていないが、資料を新たに配置し直している。彼自らに先立つ人々が知っていた多くの命題をエウクレイデス(ユークリッド)が体系的に配置し直したように。第5−7書は、彼自身が発見したことが含まれているように思える。第5書は、曲線への垂線を取り扱っている。第6書では、円錐曲線の合同と相似とを。第7書では、直径とこれら直径に描かれた直線図形を扱っている。全体的に、彼の命題は、今日分析幾何学(analytic geometry)で扱っているもので、彼の方法は、総合的であり、円や直線図形に関しては、ユークリッドの方法に類似している。
アポロニウスは、幾何学について、他に様々な著作を書いた。平面軌跡(plane loci)についてのものも含めて。(5)プトレマイオスは、彼のことを天文学に貢献したものとして語っているが、彼は恐らく少し前に生きていた別のアポロニウスと混同しているのであろう。
アポロニウスの著作で、ギリシアの数学はその頂点に達した。導き手のユークリッドがいなければ、アポロニウスは、決して頂点に達することはできなかったであろう。この二人は、その後2000年の間、幾何学を支配した。
アポロニウスの死後、およそ2世紀の間、数学に関して偉大な著述家は現れなかった。ギリシア文明は衰退していった。戦争が、その晩鐘を響かせながら、算術はエラトステネスのわずかな試みのあと、しばらくの間、昏睡状態に陥ったように思えた。そして、初等幾何学では、ユークリッドとアポロニウスと共に死んだように思えた。
この時期、高次平面曲線(higher plane curves)の幾何学の誕生を示唆するようなものがいくつか見られる。ちょうど、ユークリッドやアポロニウスにすぐに先立つ数世紀が、この巨匠の出現を予言したように。しかし、ギリシアの文明は、束の間の約束を成就するだけの力を保持していなかった。ずっと北の方に住んで、新しい言語を話し、新しい記号と新しい方法を用いて、別の人々がその理論に光をもたらすまでには、何世代も来ては去って行かなければならなかった。
これらの曲線を扱った人たちの中で、最初の一人はペルセウス(6)であった。彼は、BC150年頃に生きた。彼は、ドーナツ形(7)の立体の断面について書いたが、彼の著作は、後の著述家に言及されていることから知られているだけである。
この時期のマイナーな幾何学者の中で、最もよく知られている一人が、ニコメデス(8)であった。彼は、BC180年頃活躍し、コンコイド(conchoid)と呼ばれる(むらさき貝の形をした)曲線を発見した。それを使うと、角の三等分が容易にできる。(9)
ニコメデスと恐らく同時代人であっただろうディオクレス(10)は、シッソイド疾走線(cissoid)(11)を発見した。それを使えば、立体の体積を二倍にすることができる。(12)彼は、またアルキメデスの問題を研究し、(13)球体を弓形の体積が決められた比率になるよう平面で切り取った。
同じ頃、BC180年頃、ゼノドロス(14)は、等周学(isoperimetry)(15)について書いたが、その著作のほとんどは失われている。
少し後、ポセイドニオス(16)は、ロードス島で教えていて、宇宙形状学者、また幾何学者として高い名声を獲得し、生徒としてキケロやポンペイウス(Pomey)を持つ栄誉を得ていた。彼の太陽までの距離と地球の周りの長さの測定を、クレオメデス(BC40年頃)の著作を通して私たちは知っているが、それは、エラトステネスのものと同様、正確というにはほど遠いものであった。しかし、彼の結果は、古代の地理学者たちによって一般には受け入れられていたように思える。
交通が、広くより自由に行われるようになるにつれて、ギリシアの地域で、その偉業が次第に多くの注意を引きつけるようになったエジプトやカルデアの神官天文学者の影響で、BC2世紀は、星の研究の発展で注目に値する。この世紀、二人の名が著しく目立っている。観察者としての著作のためだけでなく、数学的な才能のために。
この天文学者の最初の者は、アレクサンドリアのヒュプシクレス(17)であった。彼は、エウクレイデス(ユークリッド)の「幾何学原論」の正多面体の七つの命題を含む、いわゆる、第14書を書いた人かも知れない。彼は、また、多角数(polygonal numbers)(18)、数列、そしてある不定方程式に興味を持っていた。しかし、彼の第一の関心は天文学であった。彼の時代頃に、ギリシア人たちの間で、円を360度に分割することや、60進法の分数(sexagesimal fraction)が、限定的に科学で用いられ始めた。これは、バビロニア人たちがすでに考え出していたものである。
この頃、主として、ロードス島で仕事をしていたヒッパルコス(19)は、天文学について、有名な著作を書いている。この著作のために、彼は、球面上で角や距離を測定する必要があった。そして、そこから一種の球面三角法を発展させた。平面三角法は、まだ未発達の段階でしかなく、私たちが知っている限り、関数表はなかったが。ヒッパルコスは、弦(chords)すなわち、角の半分のダブル・サイン(double sines)の表を作成し、このように、明らかに三角法の学問を始めていた。彼とともに、また、アガタルコス(BC470年頃)がすでに実用化していた幾何学の一分野、実体画法(stereographic)投影法(projection)の理論も始まった。ヒッパルコスは、それを赤道の平面上に天球を投影させた図を描く目的に使用した。彼は、850の恒星のカタログを残した。その数は、プトレマイオス(150年頃)が、1022に増やしてから、現代に至るまで、実質的にそれほど増えていない。(20)