エラトステネスは、エウクレイデス(ユークリッド)の数年後に生きた。そしてアレクサンドリアの最も偉大な学者の一人であった。(2)崇拝者たちは、彼の業績を誇張して、彼を「第二のプラトン」(3)と呼んだ。彼のあだ名「ベータ」というのは、ギリシア文字のβが2を意味するので、古代で二番目に賢い人という意味であるとずっと考えているものもいる。また、大学の彼の部屋には、数字の2が掲げられていたので、この名で呼ばれたというものもいる。しかし、彼の崇拝者たちが、彼をギリシアの賢人の中で第二の人であるとランク付けしようとしまいと、私たちは、彼のことを正当に、古代で最初の優れた地理学者であると呼ぶことができる。彼はアテネで教育され、BC240年頃から後、アレクサンドリアで教え、大学の司書であって、ある程度の詩人でもあった。算術での貢献は、エラトステネスのふるい(4)、自然数の中から素数だけを残し、合成数(composite numbers)をふるい落とす方法であった。これは、すべての奇数を書き、そこから一つずつ、それぞれの数の連続した倍数を消していくやり方である。3,5,7,9X,11,13,15X,17,19,21X,23,25X,27X,29,31,33X,35X,37,39Xのように。(5)素数は、その当時から研究されているが、素数をすべて調べる一般式は、まだ見つかっていない。例えば、フォーム xx+1の素数は無限にあるのか。2=x-yには、無限に素数の解答があるのか。素数は、nnと(n+1)(n+1)の間に常に見いだせるのかどうか、私たちはまだ知らない。
ギリシアの天文学者の数学の偉業の中で、エラトステネスによる地球の周囲と直径の測定より面白いものはない。これは、測地学(geodesy)という学問の価値ある第一歩であった。(6)アレクサンドリアでは、太陽が正午に7度12分南にあったとき、シュエネ(Syene)(7)では、ちょうど正確に天頂(zenith)にあることを知って、エラトステネスは、地球表面上では、アレクサンドリアは、シュエネの7度12分北にあると考えた。距離は5000スタディアであることが知られていたし、また、7度12分は、360度の 1/50であることから、エラトステネスは、地球の周りは、50x5000スタディア、すなわち 250000スタディアであると判断した。彼は、この結果をもっと便利な数、1度が700スタディアとして割り切れるように、252,000スタディアに変えた。こうして、彼は、直径を、私たち(現在)の測量体系では、7,580マイルに等しいものであると計算した。それは、私たちが知っている極を通る直径より50マイル少ないだけである。(8)
また、エラトステネスは、回帰線の間の距離は、円周の 11/83であると述べている。そうして、黄道傾角(obliquity of the ecliptic)(9)を23度51分20秒にしている。プルタルコスは、彼は、太陽は地球から 804,000,000スタディア、月は 780,000スタディア離れていることを発見したと語っている。--当時用いられていた器具のことを考えると、著しく近い値である。地理学の知識は、それまでの250年の間に増大したことは、彼の地図をヘカタイオス(BC517年)の地図(10)と比較して見れば分かるだろう。
手紙の一つでは、エラトステネスは、立体の体積を二倍にする(duplication)問題をも論じている。
アルキメデス(11)は、エラトステネスの友人であった。プルタルコスの証言を受け入れるならば、ヒエロ王と縁戚関係にあった。ライプニッツは、彼の天才ぶりを称賛して、次のように語っている。彼の著作とアポロニウスの著作を知ったものは、現代で最も偉大な学者たちを見いだしても、それほど驚くに足りない。(12)これらの言葉は、的を得たものである。というのは、アルキメデスは、2000年以上も、ニュートンやその同時代人の考えのいくつかを先取りしていたし、機械学への応用において、古代では彼に並ぶべきものはいなかったから。イタリアの数学史家の一人は、(13)、彼は「人間と言うより、神に賦与された才能」を持っていたと、うれしい言葉を用いているし、プリニウスは、彼を「幾何学の神」と呼んでいる。この言葉は、プリニウスを訳したフランス人の一人は、巧みにも「幾何学のホメロス」と表現している。
アルキメデスは、シラクサの港を包囲していた船に、集光器(反射鏡)を用いて火を付けたと言われている。彼が、少なくとも船を兵士たちの使いものにならないようにしたという考えに、不可能なことは何もない。(14)地図(地図省略)をみて、(外港である)小さい方の港であること、当時、船は今日のプレジャー・ヨットとほとんど変わりない大きさの船であったという事実、また、船はすべて磯近くに停泊していたという事実を考えると、その仕事は、初め想像したほど偉大な事業ではなかったことが示させるだろう。海から陸地の方に風が吹いていれば、櫂でどんなに漕いだとしても(逃れることは)困難であっただろう。
マルケルス(Marcellus)の生涯の中で、プルタルコスは、アルキメデスの機械学における天才ぶりを示す、次の出来事を記している。
アルキメデスは・・・支点が与えられれば、どんな重さのものも動かすことができると語った。そしてこう自慢さえした。「もう一つ地球があれば、そこへ行ってこの地球を取り除くことができる。」と。ヒエロ王は、これには驚いた。・・・[アルキメデスは]そこで、荷船をじっと見据えた。・・・それは、大きな労力と多くの人を使わなければドックから引き出すことはできなかった。そこで、その船に多くの乗客を乗せ、積み荷を一杯に積んで、彼自らは、遠くの方に座りさしたる努力もせずに、手に滑車のヘッドを持ち、綱を徐々に引くことによって、船が海上にいるかのように、なめらかに平らにまっすぐ船を引いた。
アルキメデスは、ギリシアの数体系の欠点をみていた。そこで、彼は、「砂の計算法」(15)に入念に計算の図式を示し、数を8つづつに、すなわち10の8乗ずつに配置した。この表の中に、彼は、本質的に (aのm乗) * (bのn乗) = (aのm+n乗)、私たちの現在の対数による演算の基礎となる法則を認めている。
アルキメデスの多くの活動の中に、総和、いかなる種類であれ、高度な級数を体系的に扱った最初の例があった。円錐曲線(conics)の交叉によって、彼は、私たちが今日という形で書く三次方程式を解くことができた。また、彼は、放物線の求積(16)、すなわち弓形(放物線と弦との間)の面積を得ることができた時に、それが外接する平行四辺形の 2/3であることを示した。円の測定においては、3+(1/7)<π<3+(10/71)であることを示した。測量法に関する著作では、アルキメデスは、球と円柱、円錐とメナエクモスにすでに知られていた円柱と円錐に関する法則を含めている。彼は、また、楕円体(ellipsoid)と回転体の放物面(paraboloid)の研究をした。円と円い立体の測定に関する論文では、彼は、メナエクモスその他の人々によって発展させられたエグゾースチョン(exhaustion)の方法が役立てられている。比重と平面・立体の重心の研究では、彼はパイオニアであり、流体静力学(hydrostatics)の研究では、ギリシア時代、彼に匹敵する者はいなかった。その上に、彼は、友人のコノン(Conon)によって導かれた、らせん形(spirals)の研究で知られている。全般に、彼は、すべての歴史上、最も偉大な数学者、物理学者の一人として際だった存在である。
1906年、すでにアルキメデスの著作を編集していたハイベルク教授は、コンスタンチノープルで、機械学に由来するある幾何学的解法についての写本を発見した。(17)これは、機械学の原理に幾何学の真実が由来しているとき、アルキメデスによってとられた方法を述べているという事実によって、特に面白い。彼は、心の中でどのように考えていたか、そのいくつかを次の文から得られるだろう。
私が、球(の体積)は、底面がその球の最大の円で高さが半径である円錐の4倍であると感じ取った後、球の表面積は、その最大円の4倍であるという考えが浮かんだ。私は、円(の面積)が、底辺が円周で、高さが半径に等しい三角形の面積にちょうど等しいように、球(の体積)は、底面が球の表面積と同じで、高さがその球の半径に等しい円錐に等しいだろうという考えから、研究を進めた。(18)
マルケルスの治世下(BC212年)の、シラクサ包囲戦での、アルキメデスの死について、プルタルコスは、次のような興味深い記録を残しています。
アルキメデスの死より、マルケルスを苦しめたものはなかった。アルキメデスは、その時、運命がそうさせたのか、熱心に図を書いてある問題に取り組んでいた。目も心も、その問題を思索する事に集中していたので、ローマ人が町に入ってきたことにも、町が占領されたことにも気づかなかった。このように研究と思索に耽っているときに、予期せず一人の兵士が彼に近づいて、マルケルスのところに行くように命じた。アルキメデスが問題を解き終えるまでしばらく待ってくれるよう丁寧に断ると、その兵士は怒って刀を抜き、アルキメデスを突き刺した。こう書いている人もいる。ローマの兵士が刀を抜いて駆け寄り、殺すぞと脅した。一方、アルキメデスは・・・問題を未完成にしないよう続けさせてくれるよう熱心に兵士に懇願した。しかし、兵士は彼の懇願には心動かされず、アルキメデスを殺害した。また、こう言っている人もいる。アルキメデスはマルケルスのところへ、太陽の大きさが測れるよう、いくつかの数学の道具、目盛り板や球や角度測定器などを運んでいた。・・・すると、何人かの兵士が・・・彼が黄金を船に運んでいるのだと思い、アルキメデスを殺害した。彼の死が、マルケルスに大いなる苦悩をもたらしたことは確かである。彼は、後に、アルキメデスを殺した兵士を殺人者とみなした。そして、アルキメデスの血縁のものを探しだし、彼らを引き立て、この上なく大いなる名誉を与えた。
キケロは、『トゥスクルム論叢(Tusculan Disputation, V,23)』の中で、彼自身がアルキメデスの墓を発見したと述べている。「シラクサの人々がそれについて何にも知らず、そのようなものが残っていることを否定さえした時に。」キケロはそのことを次のように述べている。
私は、アルキメデスの墓碑に彫られていると知らされていた詩句を思い出していた。その詩句には、墓の上に円柱と球が置かれていたと述べられている。私は、あらゆる墓碑を注意深く調べた。・・・私は、円柱状のものがいばらの上に出ているのを認めた。それには、球と円柱が刻まれていた。・・・それを認めることができ、台座の正面に近づいてみると、詩句の後半は、ほとんど半ば消え失せていたが、その詩句を発見した。このように、ギリシアで最も高貴な都市の一つであり、また同様、学識で極めて有名であった都市は、もしアルピヌム(Arpinum)生まれのその人によって発見されていなければ、その最も偉大な天才の墓碑のことを何も知らなかっただろう。(19)
私たちに伝わっているアルキメデスの著作の中で、数学の歴史において、主に関心があるのは、放物線の求積、球と円柱、円の測定、らせん形(spirals)、円錐曲線体(conoids)、そして楕円体(spheroids)と記数に関するものである。また、アルキメデスは天文学にも興味を持っていたように思える。(20)このテーマについての彼の著作は何も現存しないけれども。