数学史

[年代的地理的考察][アレクサンドリア学派]
年代的地理的考察

 BC300年からAD500年という年代をこの章のために恣意的に選んだ理由は、この年代が古代の最も偉大な学派、アレクサンドリア学派が影響を及ぼした大まかな時代であるからである。また、この年代の初め(BC300年)は、ほぼ、世界最大の幾何学のテキストの著者、エウクレイデス(ユークリッド)の時代であり、終わり(AD500年)は、ギボンが「カトーあるいはキケロが、自分たちの同国人として認めることができただろう最後のローマ人」として特徴づけたボエティウスの時代であるから。
 この時期にギリシア文明は過ぎ去り、ローマは勃興して衰退する。西洋古代の数学は、その最も高揚した状態から最も停滞した状態へと衰退した。それ故、私たちは、古代数学史の中で、少なくとも現実の著作の問題において最も意義のある時代にいる。また、すべての古代文明の中でも最も興味のある地中海にいる。

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アレクサンドリア学派

 古代最大の数学の中心地は、クロトナでもアテネでもなく、アレクサンドリアであった。そこは、ナイルデルタの古代都市、ラコティス(Rhacotis)のあったところで、アレクサンダー大王は、自らの名を冠するにふさわしい価値ある都市を建設した。大マケドニアの征服者が死ぬと(BC323年)、彼の支配した広大な領土は解体した。彼の有能な将軍、アンティゴノス(Antigonus)の死後、帝国は三つに分かれた。アレクサンダーの友人であり、相談者であり、恐らく彼の血縁でもあっただろうプトレマイオス・ソテル(Ptolemy Soter=Ptolemy the Preserver)(1)は、エジプトを所有するようになり、若いアンティゴノスは、マケドニアを我がものとした。一方、セレウコスは、自らの持ち分としてアジア地域を得た。プトレマイオスの慈愛に満ちた統治の下(BC323-283)、アレクサンドリアは、世界の商業の中心としてだけでなく、文学、学問、科学の活動の中心地となった。(2)ここに、世界最大の古代の図書館と古代初の国際的大学が設立された。ニューマン卿(Cardinal Newman)は、この二つの特徴について、詩的な感情を込めて「初めのもの(図書館)は、死せる天才を保存し、第二のものは(大学)は、生きる天才の贈り物を受けるところであった。」と語っている。ここで、古代世界の他のどこの学問の中心地よりも多くの偉大な数学者達が訓練された。エウクレイデス(ユークリッド)、アルキメデス、アポロニウス、エラトステネス、天文学者のプトレマイオス、ヘロン、メネラオス、パップス、テオン、ヒュパティア、ディオファントス、そして少なくとも間接的に、ニコマコスと言った名前が、アレクサンドリアと関連づけられている。しかし、今日、その有名な図書館や博物館の痕跡は、ほんのわずかも残されていないし、その正確な場所も単なる憶測にすぎない。

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原注1

 Πτολεμαιοs: Latin. Ptolemaeus.

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原注2

 アレクサンドリアの勃興の原因とその図書館の描写についての要約は、W.Kroll, Geschichte der klassischen Philologie, p.12(Leipzig, 1908)を見よ。今後は、Kroll, Geschichteとして言及(引用)する。

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