数学史

[プラトン][プラトンの研究][プラトンの算術への関心][数の神秘主義][プラトンの幾何学][プラトンの直弟子たち][クニドスのエウドクソス][メナイクモス][デイノストラトス]
プラトン(1)

 カーライルの次の言葉は、プラトンにほど相応しく当てはまる人はいないだろう。「世界のどの時代においても、他のすべての出来事の親となるべき出来事、それは世界に一人の思想家が到来することではないだろうか!」なぜなら、世界の初期の歴史の中で、プラトンが生涯かけた仕事を始めたときほど、ギリシアが精神(魂)の人を渇望した時は、決してなかったから。彼が、まだ若いとき(BC404年)に、アテネはスパルタの力の前に屈した。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスが初めて、偉大な悲劇を生みだし、イクティノス、フェイディアスやカリクラテスの傑作で、アクロポリスの神殿が飾られるのを見、偉大なるペリクレスの治世のもとのアテネを知っていた数世紀--その世紀は過ぎ去り、それと共に、大衆たちの心を動かした都市の栄光も--軍隊の栄光、演劇の栄光、建築の栄光、そして彫刻の栄光も永遠に消え失せてしまった。新しい世紀は、新しいアテネ、現在は死んでしまっているが、未来への知的な野望に満ちたアテネを見ることになった。アテネ市民の 偉大な三人の名が、その未来を心に抱かせ、強い影響を及ぼすことになった。--プラトン、アリストテレス、デモステネスという名である。

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プラトンの研究

 これら三人の偉大な指導者の最初の人物について、キケロはこう語っている。

  プラトンについていうと、彼はピタゴラス派の人々と知己を得るためにイタリアへ来た。そして、そこで、中でも、アルキュタスとティマエオス(2)と知り合いになり、彼らからピタゴラス派のすべての教義を学んだ。(3)

 また、プラトンは、一つには疑いなく交易の目的で、しかし、主として知識を得る目的でエジプトを訪れたと言われている。彼が、幾何学を高く評価するようになったのは、ナイル川沿いの神官たちからだったかも知れないが、可能性としては、ピタゴラス派の人々を通しての方が高いだろう。いずれにせよ、彼の時代、プラトンは、彼の哲学の学校(アカデメイア)の入り口の上に「幾何学を知らざるもの、門戸を入るべからず。」(4)--記録された最も古い大学の入学条件--という言葉を掲げたり、神のことを偉大な幾何学者と語っていた(5)と言われている。

 プラトンは、ソクラテスの下で、また、しばしば幾何学者のエウクレイデス(ユークリッド)(c.300BC)と混乱させられる哲学者である、メガラ(6)のエウクレイデスの下で学んだ。彼は、広範囲にわたって旅をし、エジプトや南イタリアだけでなく、シチリアや恐らくアジアをも訪れただろう。こうして、彼は、これら様々な国々の数学者や哲学者たちと接触するようになり、ちょうど閉じたばかりの世紀を特徴づけていた素晴らしい行動の時代に代わる、素晴らしい思想の時代へと、情熱に満ちあふれてアテネに戻った。

 彼の哲学について話す必要はないだろう。なぜなら、それは、手短に説明できるようなものではないから。しかし、数学の分野では、プラトンの偉大な貢献は、分析の方法を含む、学問(科学)の原理を基礎づけたことにあった。

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プラトンの算術への関心

 数の研究では、彼は、古代すべての哲学者同様、ロジスティックよりもむしろ算術に興味を持っていた。彼は「国家(Republic)」の中で、学問は、軍事的にも哲学的にもいずれの役にも立つと言っている。
 なぜなら、戦争に携わる人は、数の技術を学ばなければならないから。そうでないと、軍隊の配置を整える方法がわからないから。(7)また、哲学者も、変転する海から起きあがり、真の存在を捉えなければならないので、算術家でなければならない・・・。算術には、抽象的な数について論理的に考えさせ、精神を向上させる非常に大きな効果があるから。

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数の神秘主義

 特にプラトンが興味を持ったのは、数の神秘主義であった。「国家」第三書の中で、ある神秘的な数について、曖昧な仕方で語っている。しかし、この数が何であるのか明らかにはしていない。彼は、それを「良くも悪しくも誕生させるための主人」と呼んでいる。後の著述家たちは、しばしば、プラトンの言っていることを正確に捉えようとした。一つの理論は、60の4乗、すなわち、12,960,000がプラトンの数というものである。この数字は、ヒンドゥー教やバビロニアの神秘主義で重要な役割を果たしてきた。ピタゴラスが、もし本当に、そこで学んだのなら、それをユーフラテス川のほとりで見いだし、クロトナへ持ち帰り、弟子たちに伝え、更に、プラトンとプラトンの信奉者たちに伝えた可能性もある。
 プラトンは、数の学問を高く評価していたけれども、(8)彼は、私たちに、彼のアカデメイアで、どのように教えられていたのか、そうしたことに関する情報は何も与えていない。私たちは、彼によって提出されたテーマについても、それがカヴァーしていた領域のことも、古代のロジスティックスについて私たちが知らないのと同様、知らない。(9)

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プラトンの幾何学

 先立つどの人よりも、プラトンは幾何学の学問的可能性を認めていた。このことに関しては、この著作の第二巻でより詳しく語られるであろう。彼は教えを通して、学問の基礎を固め、正確な定義と明確な仮定、そして論理的証明を行うことを主張した。唯物論者たちは、幾何学の中に職工や機械工に直接役立つものしか見なかったのだが、彼らに対するプラトンの反論は、プルタルコス(一世紀)によって「マルケルスの生涯(Life of Marcellus)」の中で明らかにされている。幾何学を機械学に適用して用いることを語りながら、「幾何学の優れた面を単に堕落させ無にするだけだ、そうしてまだ具体化されていない純粋な知の対象に背を向けているに過ぎない」として、それに対するプラトンの義憤と激しい非難とに言及している。プラトンがここに示されている見解を持っていたとしても驚くべき理由はない。世界の思想家たちは常にそれを持っていた。これまで誰も実用の目的の為だけに数学の理論を作り上げたわけではない。数学を応用するというのは、一般に後から考えられたことだった。(10)

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プラトンの直弟子たち

 プラトンの弟子の中に、甥のスペウシッポス(11)がいた。彼は、プラトンのシラクサへの三度目の旅に随伴し、アカデメイアの学頭としてプラトンの後を継いだ。(347-339BC)彼は、ピタゴラスの数について著述した。--3,4,5のような整数、それは直角三角形の斜辺と他の二辺とを表している。彼はまた、比についても著述した。私たちは、彼についていくらかの情報をテオログメナ(Theologumena)、これは、また、ニコマコス(c.100AD)による、失われた作品の題名でもあるが、という年代は不確かで、作者不詳の著作から得ている。この著作では、スペウシッポスは、プラトンの姉妹であるポトネ(Potone)の息子であり、ピタゴラス派の授業、特にフィロラオスの授業を「絶えず勤勉に学んでいた」と述べられている。その著作は、また、直線、多角形、平面及び立体数(solid number)といったテーマを、まれにみるエレガントさで取り扱った、とも述べている。(12)
 プラトンのマイナーな弟子たちの中で、プロクロス(c.480)とディオゲネス・ラエルティウス(2世紀)に言及されているタソス(Thasos)のレオダマス(Leod'amas)(13)には触れておかなければならない。彼は、分析的な証明法を使用したと言われている。また、マグナ・グレキアのメドマ(Medoma)あるいはメスマ(Mesma)の天文学者であり幾何学者であり、プラトンの指導の下、数学を研究したフィリッポス・メドマイオス(Philippus Medomaeus)(14)もいた。(15)連立一次方程式の解法を工夫したテュマリダス(Thymaridas)は、この時代頃に生きていたように思える。

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クニドスのエウドクソス(16)

 彼は、一時、プラトンの弟子であって、天文学、幾何学、薬学、法学において卓越した人物となった。(17)彼は、数学的天文学(spherics)の研究をギリシアに伝え、エジプトで与えられたものを新たに発見して、一年の長さを知らしめた。彼は、これまで知られている限り、星座を描写した最初のギリシア人であった。ストラボンは、エウドクソスの天文観測所が、彼の時代、すなわちキリスト教紀元の初め頃、まだクニドスに存在していたと主張している。セネカは、彼は、エジプトからギリシアへ惑星の運行の理論をもたらしたと言っている。アリストテレスは、彼は、星、太陽、月そして惑星のために分かれた天球を作ったと記録している。また、アルキメデスは、彼は太陽の直径は地球の9倍であることを発見し、角錐の面積は、同じ底面、同じ高さの角柱の 1/3の面積であり、円錐と円柱の面積も同様の関係であることを示したと言っている。円錐と円柱との関係については、恐らく、エグゾースチョンの方法を厳密な理論として発展させたのであろう。(18)ウィトルウィルスは、「蜘蛛の巣」(19)という新しい型の日時計を彼に帰しているが、それはアストロラーベであったかも知れない。恐らく、プロクロスによるものだろうが、あるメモから、彼はしばしば比についての著作を書いたとされ、それが、最後には、ユークリッドの第5書になったとされている。しかし、この言明には、歴史的に確かだと認められているわけではない。(20)私たちのエウドクソスと彼の著作についての主な知識は、アラトス(Aratus)(21)によって書かれた天文学の詩と、それについてのヒッパルコスの注解(22)から得ている。

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メナイクモス(23)

 彼は、エウドクソスの弟子で、プラトンの友人であり(24)、恐らく円錐曲線(conics)を最初に扱ったのは、彼であろうと私たちは考えている。アレクサンダー大王は、メナイクモスの弟子で、彼が幾何学を学ぶのにもっと簡単な方法はないかと問うと、メナイクモスは、それに答えて「おお、王様。国中には私道や公道がありますが、幾何学には唯一の方法しかありません。」(25)と言ったと言われている。プロクロス(c.460)が言っているように、彼が考えた円錐曲線は、恐らく、エラトステネス(C.230BC)の「メナイクモスの三曲線(triads)」であっただろう。彼は、母線に垂直な平面で円錐を切ることで、それを得たと言われている。--母線が直角をなす円錐から放物線を、鈍角の円錐からは双曲線を、そして、鋭角の円錐からは楕円を。彼の友人、マグネシア(Magnesia)のテウディオス(Theudius)は、幾何学の教科書を書いた。

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デイノストラトス

 デイノストラトス、あるいはディノストラトス(26)は、メナイクモスの兄弟であった。彼は、エリスのヒッピアスである可能性が非常に高いが、ヒッピアスと言われる人物によってすでに発見されていた曲線、quadratix(二次曲線?)の研究で、主に知られている。この曲線を使って、彼は円を四角にする(円の面積を求める)ことができた。(27)

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原注1

 Πλατων(Platon).BC430年頃、アテネに生まれる。349年頃没す。

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原注2

 歴史家でなく、ロクリス(Locri)生まれ。恐らく、彼の著作は現存していないだろう。彼に帰せられているものが一つあるが疑わしい。

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原注3

 Tusculan Disputations,I,17.

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原注4

 Μηδειs αγεωμετρητοs εισιτω μου την στεγην.

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原注5

 「神は永遠に幾何学化する。」'Αει θεοs γεωμετρει. これは、プラトンの著作の中にはないが、プルタルコスによって、プラトンのものとして述べられている。Plutarch,Convivalium Disputationum libri novem,viii,2,ed.Didot(Paris,1841).

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原注6

 ギリシアの一都市。

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原注7

 明らかに、Volume II, Chapter I に描かれている、平方数、heteromecic数、三角数に言及している。

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原注8

 法律(Law) V

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原注9

 P.Tannery,"L'education platonicienne:L'arithmetique,"in the Revue scientifique,XI(1881),287.

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原注10

 プラトンの時代の数学の一般的な主題については、B.Rothlauf,"Die Mathematik zu Platons Zeit und Seine Beziehungen zu ihr(Munich,1878); Heath,"History",I,284を見よ。

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原注11

 Σπευσιπποs.

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原注12

 Volume II,Chapter I.を見よ。

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原注13

 Λεωδαμαs. Fl.c.380BC.

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原注14

 Φιλιπποs ο Μεδμαιοs. c.375BC生まれ。

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原注15

 彼は、オプンティウス(Opuntius)としても知られている。H.Vogt,Bibl.Math.XIII(3),193,195.

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原注16

 Ευδοξοs. c.408BC生まれ。c.355没。Allman,"Greek Geom.,p.128; Gow,"Greek Math.,p.183; Heath,"History",I,322.を見よ。

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原注17

 Diogenes Laertius,VIII,86.

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原注18

 Allman,"Greek Geom.,pp.96,130.

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原注19

 Αραχνη. アストロラーベの一部で蜘蛛の巣に似ている。

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原注20

 この議論については、Allman,"Greek Geom".,p.136; Sir T.L.Heath,"The Thirteen Books of Euclid's Elements",3 vol.,II,112(Cambridge,1908)(その後、Heath,"Euclid"として言及されている。)を見よ。

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原注21

 Αρατοs. Fl.c.270BC. その詩は,ファイノメナ(Φαινομενα)といい、ある断片がヒッパルコスによって伝えられている。

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原注22

 Ιππαρχοs. Fl.c.150BC. J.B.J.Delambre,"Histoire de l'astronomie ancienne",I,106(Paris,1817). アラトスのこの詩は、1499年、ヴェネチアで初めて印刷された。

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原注23

 Μεναιχμοs. Fl.365-350BC. Bibl.Math.,XIII,(3),194.を見よ。

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原注24

 Allman,"Greek Geom".,p.153; Max C.P.Schmidt,"Die Fragmente des Mathematikers Menaechmus,"in Philologus,XLII(1884),p.77; Gow,"Greek Math".,p.185; Heath,"History",II,110.を見よ。

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原注25

 この話は、500年頃の後期ギリシアの著述家、ストバイオス(Stobaeus)による。それは、ユークリッドとプトレマイオス王との間でも語られている。

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原注26

 Δεινοστρατοs. Fl.c.350BC.

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原注27

 詳細は、Volume II, Chapter V.で考察される。また、Allman,"Greek Geom.,p.180; Gow,"Greek Math.,p.187も見よ。

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