数学史

[フィロラオス][エリスのヒッピアス][ヒッポクラテス][メトン、ファエイノス、エウクテモン][Exhaustionの方法][アンティフォンとExhaustionの方法][アルキュタス][キュレネのテオドルス][アテネのテアイテトス]

フィロラオス(1)

 著名なピタゴラス主義者であるフィロラオスは、クロトナ或いはタレントゥムで生まれ、プラトンによれば、ソクラテスと同時代の人物であった。ピタゴラスは、口伝で教義を伝授したが、優れた哲学者であったがリュシス(Lysis)とアルキプス(Archippus)というあまり知られていないピタゴラス主義者は、その学派の教義のいくつかを書物に著し、それを秘伝の秘宝として後世の人々に伝えた,とポルフュリオス(Porpyrius)は述べている。しかし、フィロラオスが、ピタゴラスの教えについて論文を書き公にした最初の人物であった。私たちに伝えられている断片から判断すると(2)、彼の関心は数学というより哲学にあった。グノモンを描写して数学の分野に触れてはいるが。

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エリスのヒッピアス(3)

 エリスのヒッピアスは、政治家としても哲学者としてもともに知られており、ソフィストに属していた。ソフィストというのは、あちこち旅をし、そのサービスに対しお金を取った教師達のことである。--それ以前の哲学者たちの考えとは全く反対のことをする人たちである。彼は、教えたり、公に人々の前で話をすることで富を蓄積した。プラトンは、彼のことを傲慢でほらを吹く虚栄に満ちた人物として語っている。彼は、広いが表面的な知識しか持っていなかったように思える。数学への彼の貢献は、何らかの角を三等分する簡単な工夫を発明したことに限られる。この工夫は、円積曲線(quadratrix)として知られる。後の時代に、ディノストラトス(Dinostratus)(BC350年頃)によって研究され記述されたので、一般に後者の名が付けられている。(4)

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ヒッポクラテス(5)

 ヒッポクラテスについては、様々な話が語られている。その中に、彼は商人としては成功せず、後にピタゴラス派の哲学者になり、特に数学に興味を持っていたと言われている。アリストテレスは、彼について幾何学については得意であるが、他の点では愚かで弱いと言っている。彼は、古代の著述家達から、幾何学の命題を学問的にアレンジした最初の人物、そして幾何学の分野でピタゴラスの秘密を出版した人として言及されている。円の面積を求めようとして、彼は、曲線で囲まれた図形の求積の最初の例(6)、則ち、ここに示されている二つの斜線の入った月形の面積の合計は、斜線の入った三角形の面積に等しいことの証明を発見した。この命題は、同様にどんな直角三角形にも二等辺三角形にも当てはまるが、ヒッポクラテスは、直角二等辺三角形の場合だけ知っていた。プロクロス(Proclus)(BC460年頃)は、還元法(reduction)、一つの命題をより単純と思える命題に転換し、後者を証明してから順序を逆にする方法を、彼に帰している。例えば、エラトステネス(BC250年頃)は、私たちに、立方体の体積を二倍にする問題は、二つの等比中項が与えられた二つの直線の間に見出せるなら解くことができることを示したと語っている。(7)

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メトン、ファエイノス、エウクテモン

 ピタゴラスとプラトンの間の時代、アテネでは数学的天文学に非常な関心があったことが、三人の天文学者、メトン、ファエイノス、エウクテモン(8)の著作の中に見出せる。しかし、彼らの貢献を区別することはできない。哲学者のテオフラストスは(9)、ファエイノスは、アテネでリュカベトス(Lycabettus)で、天文観察をし、この観察から、メトンが19周期を構築し、それ以来メトンの周期として知られていると語っている。天文学者のプトレマイオスは(10)、アテネや他の場所で観察をしたと語っている。彼は、メトンは、一年の長さを 365+1/4日+1/76日としたと付け加えている。これは、30分以上長すぎる。19年周期が本当にメトンによるものか、オイノピデスに既に知られていたのか、エジプト人から得られたものなのか、それとも他のソースによるものかは分かっていないし、これからも分からないように思える。

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エグゾースチョンの方法

 イアンブリコスは、ブリュソン(11)、或いはブリュソをピタゴラスが老年教えた者の一人として言及している。これが本当なら、ブリュソンは、BC520年頃に生まれたに違いない。しかし、彼は、BC420年頃が絶頂期だったと一般には信じられている。以前、彼は、エグゾースチョン(exhaustion)の方法として知られているもの、粗雑な積分法への接近であり、曲線図形(例えば円)と直線で囲まれた図形(例えば円に内接した正多角形)との間の面積は、後者の辺の数を増やしていくことで、おおよそ0にすることができるというものであるが、それに貢献したと考えられてきた。しかし、彼の名をその理論と結びつける、信頼できる古代の権威はない。(12)この方法は、後の著述家、有名なのはエウドク(ソ)スとアルキメデスであるが、彼らに有効に用いられ、拡張されて、立体の求積法を含むものとなった。

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アンティフォンとエグゾースチョンの方法

 アリストテレスは、アンティフォン(13)あるいはアンティフォという名のギリシアのソフィストに言及している。彼の円の求積の試みは、幾何学のこの分野(エグゾースチョンの方法)へと彼を導いた。アンティフォンは、正多角形を円に内接させ、辺の数を二倍二倍とし続けることで、最後には、辺は円と一致すると信じていたように思える。彼は、任意の多角形と面積が同じ四角形を作図することができたので、彼は、当時考えていたとおり、円に等しい正方形を作図することができた。すなわち、彼は「円を正方形にする」ことができ、こうして円の面積を求めることができた。ここには、エグゾースチョンの別の局面がある。多角形と円との間の面積は、辺の数を二倍、四倍とする過程を繰り返すことで、埋め尽くされる。これは、積分法に適用された微積分学(infinitesimal calculus)--真剣に考えられるようになるまで、2000年待たなければならなかった数学のタイプ--の発展の第一歩である。

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アルキュタス

 プラトンの時代、著名なピタゴラス派の哲学者、アルキュタス(14)は、数学者、将軍、政治家、博愛主義者、教育者として名声を勝ち得ていた。キケロ(BC106-43)は、彼のことを偉大な師の友として語っている。ホラティウス(BC65-8)は、アドリア海で難破し逝った彼に言及して、次のような言葉を残している。

   小さな埃のわずかな存在が、
   マティヌムの浜近くで、おお、アルキュタスよ、
   海と大地と無数の砂の測量者、汝を閉じこめた。
   (Te maris et terrae numeroque carentis harenae
    Mensorem cohibent, Archyta,
    Pulveris exiqui prope litus parva Matinum
    Munera                           (Carmen i,28)

 アルキュタスは、マグナ・グレキアに住んでいた。当時は、ギリシア本土より、遙かに静かであったが、ペロポネソス戦争によって、ギリシアにかき乱された。多くのピタゴラス派の人々が、クロトナやタレントゥムに帰ったのは、この戦争のためであり、その結果、再びイタリアのこの地に学問が栄えることになった。ウィトルウィウス(15)は、アルキュタスは、円柱の断面によって、立方体の体積を二倍にする問題を解いたと言っている。彼は、何か注目すべき仕方で、数学を機械学に適用した最初の人物であり、また、音楽や形而上学にさえ適用した。(16)
 エウデモス(Eudemus)(c.335BC)は、自らの幾何学の著作について語り、私たちに「独自の公理で学問を豊かにし、健全な体系化をおこなった」人たちの一人であったと言っている。別の陳述から、私たちは、彼は、次のような命題を知っていて、疑いなく証明したと推論している。

 1.直角三角形の直角の頂点から、斜辺に垂線を引くと、それぞれの辺は、斜辺とそれに隣接する線分との相乗平均である。
 2.垂線は、斜辺にできた二つの線分の相乗平均である。
 3.三角形の頂点から降ろした垂線が、対辺の二つの線分の相乗平均であるなら、その頂点の角は直角である。
 4.二本の弦が交わるとき、一つの弦の二つの線分が作る四角形は、他の弦の線分で作る四角形に(面積が)等しい。
 5.一つの円で、同じ弓形の中心角は等しい。
 6.二つの平面が、第三の平面と垂直であるなら、二つの平面の交線もその平面に垂直であるし、また、その平面が第三の平面と交わる直線とも垂直である。 (17)

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キュレネのテオドロス(Theodorus of Cyrene)(18)

 直観的な形の数学と区別して、学問的数学の道を準備するのに寄与した人々の中で、キュレネのテオドロスは、少なくとも簡単に言及しておく価値がある。彼は、ピタゴラス派の哲学者であった。プロクロス(c.460)は、テオドロスは、アナクサゴラスより少し若く、BC499年頃に生まれたと言っている。アプレイオス(c.150)とディオゲネス・ラエルティウス(2世紀)によれば、プラトンはキュレネに行って、テオドロスの下で幾何学を学んだ。恐らく、彼から不条理(irrationality)の理論を学んだだろう。それは、私たちも知っているように、ピタゴラス派の中では注目を引いていた。

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アテネのテアイテトス(Theaetetus)(19)

 彼は、テオドルスとソクラテスの弟子であった。そして、プラトンによって、非凡な才のある人として描かれている。(20)彼の著作は失われてしまったけれど、古代の歴史家の著作の中に言及されていて、彼が、初等幾何学のかなりの部分を発見し、立体について著述したことを示している。ユークリッドが「幾何学原論」を書くさいに使用した資料のいくつかは、彼とエウドクソスに負っていたように思える。
 テアイテトスで、ピタゴラスから始まったプラトンと彼の学派への道を準備した時代は終わったと言えるかも知れない。ピタゴラスは、有閑階級の人々に学問的研究を広めた。--あるいは、少なくとも、影響力ある学者グループを作り上げた。エレア学派のような、彼の学派が寄与したものを補足する学派の著作がなければ、世界は、プラトンを誕生させる準備はできていなかっただろう。ちょうど今、閉じようとしている時代が生の資料を供給し、プラトンは、これらの資料をうまく利用するための道具を提供したことを、私たちは知るだろう。

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原注1

 Φιλολαοs,Fl.c.425B.C.

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原注2

 A.Bockh,Philolaos des Pythagoreers Lehren, nebst den Bruchstucken seines Werkes(Berlin,1819);W.R.Newbold,"Philolaus," in Archiv fur Geshichite der Philosophie,XIX,176.

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原注3

 Ιππιαs,ペロポネソス半島西海岸にあるエリス生まれ。fl.c.425 B.C.

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原注4

 Allmanと Hankelは、プロクロスが quadratrixの発明者として言及しているのはヒッピアスであるとは信じていない。これらの著者が表明している疑いに対して、再考の余地がある。しかし、Cantor,Montuclaや他の歴史家は、証拠はエリスのヒッピアスに有利であると感じている。また、Gow,"Greek Math",p.162を見よ。"quadratrix"という名は、曲線は、円の方形化(求積)にも用いられるという事実による。これや他の曲線を幾何学の問題に適用することについては、Volume II, Chapter Vを見よ。

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原注5

 Ιπποκρατηs、キオス生まれ。fl.c.460 B.C.

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原注6

 W.Lietzmann,"Der pythagoreische Lehrsatz"'(Leipzig,1912) 更なる議論は、Volume II, Chapter Vを見よ。

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原注7

 則ち、a:x=x:y=y:2a ならば、xx=2a,xxxx=aayy,yy=2ax となり、xxxx=2aaax,また xxx=2aaaになる。F,Rudio, "Der Bericht des Simplicius uber die Quadraturen des Antiphon und des Hippokrates",Leipzig,1907 ギリシア語とドイツ語のテキストがついている。 P.Tannery,"Hippocrate de Chios et la quadrature des lunules," in the "Memoires de Bordeaux"(1878); "La Geometrie Grecque",p.117(Paris,1887); "Le fragment d'Eudeme sur la quadrature des lunules," Memoires scientifique,II,46,339(Paris,1912); Gow,"Greek Math".,p.164; M.Simon,"Archiv der Math".,VIII(3),269.

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原注8

 Μετων、Φαεινοs、Ευκτημων. Fl.c.432 B.C.

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原注9

 Θεοφραστοs. Fl.c.350 B.C.

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原注10

 c.85年生まれ;c.165年没。

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原注11

 Βρυσων

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原注12

 F.Rudio,Bibl.Math.,VII(3),378.

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原注13

 Αντιφων. Fl.c.430B.C.

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原注14

 Αρχυταs. BC428年頃、タレントゥムに生まれ。c.347没。彼の作品の優れた要約には、Allman, Greek Geom., p.102,を見よ。

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原注15

 彼の De Architectura,ix の Praefatio.

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原注16

 彼のものとされる断片のリストは、J.A.Fabricius, Bibliotheca Graeca,14 vols.,I,833.(Hamburg,1705-1728)を見よ。後の版もある。Hamburg,1790-1809. また、Gow,Greek Math.,p.157も見よ。

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原注17

 Allman, Greek Geom., p.114.

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原注18

 Θεοδωροs. Fl.c.425B.C. キュレネ(Κυρηνη)は、アフリカの北海岸にある都市であった。

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原注19

 Θεαιτητοs. Fl.c.375B.C. BC368年没。H.Vogt,Bibl.Math.,XIII(3),200.

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原注20

 Allman, Greek Geom., p.206.

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