ピタゴラス

 古代数学史の興味ある人物すべての中でも、ピタゴラス(1)は、最も興味のある人物である。一つには、彼の生涯を取り巻く謎のため、また彼自身の神秘主義のため、彼が設立した教団のため、そして、彼の疑う余地のない才能のため。

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ピタゴラスの幼少年時代

 この後すぐに話すことになるユークリッド(エウクレイデス)とヘロン同様、ピタゴラスについても、生まれた場所と日時はともに知られていない。ギリシアの編年体系を使うと、第50回オリンピアードと第52回オリンピアードとの間、すなわち、私たちの暦では、BC580年と BC568年との間に生まれたように思える。サモスの人と言われているが、私たちは、サモス島で生まれた確証は得ていない。なぜなら、中世後期の著述家、スイダス(Suidas)(1000年頃)が、ピタゴラスはイタリア生まれ、子供の時にサモス島に移住したと書いているから。(2)しかし、権威の重みは、サモス島生まれに好意的で、彼の時代より後に鋳造されたその島の多くのコインには、彼の名と姿が刻まれている。このことは、彼が単にそこで幼年時代を過ごしただけというわけではほとんどないだろう。(3)様々な話が彼の出自について語られているが、彼の父親が印章の彫刻師であったのか商人であったのか、私たちは全く確証は得ていない。とにかく、彼は、ギリシアが2世紀に及ぶ商業活動を享受した後、BC6世紀にアテネで始まり、BC5世紀の終わりに、その都市(アテネ)のために幕を閉じた、あの黄金時代の黎明期に生きた。

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ピタゴラスの時代

 しかし、ピタゴラスがどの土地で、何年にどんな両親の下で生まれたとしても、ピタゴラスは、激動の時代に生き、彼自身、その文明の偉大な作り手の一人であった。サモスは、ちょうど、ギリシアの芸術と文化の中心になっていくところであった。ポリクラテスがちょうど王位に就き、アナクレオンがサモスの宮廷で有名な抒情詩を書き始めていた。それ故、ピタゴラスは、生まれながら力ある若者なら、ほとんど必ず刺激を受け、高い知的生活へと駆り立てられる時代背景の中で育った。更に、当時は、人類の偉大な精神を生み出す時代でもあった。ブッダは、インドで彼の教えをちょうど広め始めていた。中国では、孔子と老子が哲学的宗派を創設しようとしていた。ピタゴラスは、その極東との個人的な接触があろうとなかろうと、世界が偉大な精神運動の期の熟した時代に生きていた。
 算術と幾何学が、この時代こうした著しい第一歩を踏み出したという事実は、決して小さくない程度、エジプトのパピルスがギリシアに伝えられたことによる。この出来事は、BC650年頃に起こった。(4)そして、15世紀の印刷術の発明でさえ、タレスのちょうど前の時代、地中海の北岸に書く資料(パピルス)が導入されたことほど、思想に確かな革新の影響は及ぼさなかっただろう。

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ピタゴラスの研究と旅

 私たちがピタゴラスの生涯について知っていることは、とても限られている。初期の著述家達は、競い合って、ピタゴラスの旅や奇跡的力、教えに関する作り話を発明した。ピタゴラスは、タレスを見いだし、彼の弟子になったように思える。伝承によれば、ピタゴラスは、師によって、イダ山でゼウスの秘密を秘伝された。そして、更に光りを求めようとするなら、エジプトにそれを求めなければならないと言われた。今や、私たちは、かなりの期間、はっきりとしたピタゴラスの知識を失っている。紀元後150年頃のローマの著述家のアプレイオス(Appuleius)(5)は、彼はペルシアのカンビセス(大王)(6)に捕らえられ、マギ(Magi)たちから学び、ゾロアスターその人の足下に座したとさえ主張している。しかし、一部の話は本当であるはずがない。なぜなら、ゾロアスターは、恐らく、ピタゴラスが生まれる頃、あるいは、それよりずっと以前に死んでいただろうから。年代はとても不確かであるが、ピタゴラスの一世紀後の著述家イソクラテスと、三世紀頃生きた、アレクサンドリア図書館の司書、カッリマコス(Callim'achus)は、ともに、ピタゴラスはエジプトで数年過ごしたと主張している。プリニウスは、私たちの時代(紀元)の一世紀に著述したが、ピタゴラスは、プサンメティコス(Psammetichus)(7)の時代、エジプトにいたと言っている。また、ストラボンは、キリスト教時代の初め頃だが、ピタゴラスはバビロンで学んだと述べている。東の方、インドまで行ったと主張するものまでいる。しかし、これらの主張のどれにも、明確な証拠はない。

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東方との接触

 様々な著述家の相反する主張にもかかわらず、ピタゴラスの哲学に由来する証拠は、東方との接触のあったことを示している。東方の神秘が、ピタゴラスの教えすべての中に現れている。(8)彼の数の神秘主義は、それ以前にバビロンで発見されたものと全くよく似ているし、実際、彼の哲学全体が、彼が生まれたギリシアのものというより、はるかにインドのものの香りがする。私たちにとって最もよい証拠としては、ピタゴラスの名の付けられた有名な幾何学の定理は、すでに述べたように、インド、中国そしてエジプト(?)で、彼の時代以前に知られていた。これに関してピタゴラスのために主張しうるのは、彼がその真理の一般的証明を最も早くしたことであろう。

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クロトナ学派

 ピタゴラスが何年かの放浪の後、再び姿を現したとき、彼は学校のために好ましい場所として、結局、イタリアの南東海岸の町クロトナを見いだし、そこに定住した。そこは、当時のイタリアのギリシア人たちから、マグナ・グレキア(9)と呼ばれていた地域である。この町は、豊かな海港の都市で、ピタゴラスは富裕な一族の若者達に教えを説いた。占いの力のあるふりをし、常に神秘主義に彩られ、著しい個人的な人を惹きつける魅力で、ピタゴラスは、自らの周りにおよそ300人の高貴で豊かなマグナ・グレキアの若者達を集めて教団を設立した。それは、それ以来、ヨーロッパやアメリカのすべての秘密結社のモデルになっている。彼は、弟子達を二つのグループ、傍聴者(hearer)と数学者とに分けた。後者(数学者)は、見習い期間を、前者のグループの一員として過ごした。

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ピタゴラスの口伝の教え

 ピタゴラスは、自らの教義を一度として何らかの論に具体化したことはなかった。タレスのように、また、彼が恐らく学んだであろう東洋の師たちのように、彼は、口で言葉によって自らの理論を伝えた。これを、ピタゴラスは、教団の選ばれた者たちを通して行った。こうして、それを授かるに値する運命の人々すべてに自由に自らの教義を知らしめた。知識を伝えるこの方法は、神秘主義の精神によるものではなく、単に、書き留めておくにふさわしい物が全くなかったからに過ぎない。羊皮紙はまだ発明されていなかった。蝋板は、短い手紙のためだけに用いることができた。バビロンの粘土の円筒も、同じ限界があった。そして、エジプトのもろいパピルスは、マグナ・グレキアでは、恐らく幾分まれな物であっただろう。ピタゴラスは、そこで、当時の習慣に従い、口伝によって自らの哲学を広めた。古代(ギリシア)人たちが、ホメロスの歌を後の世代に伝えたのとちょうど同じように。プラトンの時代でさえ、アテネのどこにも、価値ある写本を買うことのできる書店はなかったし、ユークリッド(エウクレイデス)がアレクサンドリアで教えていたときもそうであった。アウグスティヌスの時代になるまで、知識の伝達を確かで容易なものにする書物の商いは確立していなかった。また、15世紀以降になるまで、ヨーロッパでは、印刷は知られていなかった。
 ピタゴラスの教義について、私たちは、主としてロードス島のエウデモス(Eudemus)(BC335年頃)に負っている。彼の著作は失われたけれども、後の著述家によって抜粋引用されたものが保存されていることから、私たちに知られている。また、クロトナのフィロラオス(Philolaus)の著作の一節から、プラトンの友人であるタレントゥムのアルキュタスの言及から、また後の著述家達の著作の数多くの節節から、私たちは、ピタゴラスの教義について知っている。

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ピタゴラスの哲学

 ピタゴラスは、自らの哲学を、数は様々な性質をもつ物質の原因であると仮定することで基礎づけた。こうして、真の重要性とは全く釣り合いを失って、ロジスティックと区別されたものとしての算術を称賛することになった。これは、また、彼に数の神秘的特性を長々と論じさせ、知恵の四つの在り方--算術、音楽、幾何学、そして天文学、これらは中世の自由七学科(quadrivium)を形成した--の一つとして算術を考えさせた。アリストテレス(BC384-322)は、私たちにこう語っている。「ピタゴラスは、徳を数と関連づけた。」と。プルタルコスは、「ピタゴラスは、土は正六面体から生じ、火は正四面体から、空気は八面体から、水は二十面体から、また、天球は十二面体から生じたというように、自然の元素はすべて、数と形とに関連づけられると信じていた。」と語っている。フィロラオスは、彼が、5は色の原因であり、6は寒さ、7は健康、8は愛の原因であると主張したとき、恐らく、師の教えを表明していただろう。
 中国人は、五は風を表し、二は土を表すという。この考えは、ピタゴラスの体系の中でも主張されている。(10)ここでも、再び、この学派の神秘主義と極東では普通にみられることとの類似性から、ピタゴラスは、東洋の賢者達と関係があったに違いないことを信じさせる。東洋の香りがするのは、また、中世後期のギリシア人の編集者であるスイダス(Suidas)による、ピュタグス(Pythagus)と呼ばれる儀式についての描写である。その中では、鏡の顔に血で何かが書かれ、満月の時にその言葉が月の円の中で反射して読まれるという。しかし、こうした記述には、古代の権威付けはない。(11)
 シェークスピアは、魂の移入というヒントゥーの信仰が、ピタゴラスによって受容されたと、次のように言及している。

   おまえを見ていると、おれの信心までぐらつきだし、
   人間のからだのなかに動物の魂が宿るという
   ピタゴラスの説を、つい信用したくもなってくる。
                     (小田島雄志訳)
   ( Thou almost mak'st me waver in my faith,
    To hold opinion with Pythagoras
    That souls of animals in fuse themselves
   Into the trunks of men.)(Merchant of Venice)

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単一性と無限

 様々な初期の著述家達から、私たちは、ピタゴラスは単一性(unity)が数の本質であり、万物の起源、神的なものであると主張していると判断している。つまり、彼は、有限と無限の考えを持っていた。また、後者(無限)の考えから、時間、空間、運動の考えに至る。ディオゲネス・ラエルティオス(紀元2世紀)は、ピタゴラスは、数に興味を持っていた、そして、何より自らが用いた数学の分野は算術であったと言っている。(12)アリストクセノス(13)は、この学問(算術)を、他の何にもまして高く評価していたと言っている。

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ピタゴラスの幾何学

 幾何学の分野では、エウデモス(BC335年頃)が、私たちに、「ピタゴラスは、非物質的で知的な観点から自らの公理(theorem)を探求した。」また、「不合理な量(無理数)の理論と現実の図形に構築する方法とを発見した。」と教えてくれる。(14)125年頃、南フランスに住んでいた哲学者ファヴォリヌス(Favori'nus)は、彼は数学の著作の中に定義を取り入れ、こうした用い方をした最初の試みであると主張している。(15)特に、彼は点を「位置を持った単一性(unity)」と定義した。(16)ピタゴラスあるいはピタゴラス学派の人々は、点の周りの平面空間は、六つの正三角形、四つの正方形、あるいは三つの正六角形で満たされるということを知っていた。--それは、この時代よりはるか以前から、モザイク状に敷き詰められた舗道を観察した結果推論されていたものだが、疑いなくピタゴラスが証明できた事実である。ピタゴラスは、恐らく三角形の内角に関する命題(三角形の内角の和は180度:訳注)を証明し、与えられた多角形と面積が同じで、別の多角形に相似な多角形を作れただろう。また、五つの正多面体も作ることができただろう。こうして、恐らく、直角三角形の斜辺を一辺とする正方形の公理(ピタゴラスの定理)を証明しただろう。ピタゴラスは、地球は宇宙の中で、球形であると教えていたように思える。とにかく、この理論は、後の様々な哲学者によって受け入れられた。(17)

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原注1

  BC.572年頃、サモス(?)生まれ。BC501年頃、タレントゥム(?)死亡。W.Schulz,"Pythagoras und Heraklit",Leipzig,1905; A.Ed.Chaignet,"Pythagore et la philosophie pythagoricienne, contenant les fragments de Philolaus et d'Archytas",Paris,1873; W.Bauer,"Der altere Pythagoreismus",Bern,1897; W.W.Rouse Ball,"Pythagoras",in the Math. Gazelle,London,January,1915; G.J.Allman,"Greek Geometry from Tales to Euclid",Dublin,1889(以後は、Allman,"Greek Geom."として言及);F.Cramer,"Dissertatio de Pythagora,Prog.,Sund,1833; W.Lietzmann,"Der pythagireische Lehrsatz",Leipzig,1912; Armand Delatte,"Etudes sur la litterature pythagoricienne",in the Bibliotheque de l'Ecole des hautes Etudes,Vol.217(Paris,1915).ピタゴラスの初期(古代)の歴史の中で、一番よく知られているのは、イアンブリコス(c.325)のものである。1598年、Franekerで初めて印刷された。Ludolph Kuster(Amsterdam,1707)と A Nauck(Petrograd,1884)による版の方が優れている。

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原注2

 M.Barbieri,"Notizie istoriche dei Mattematici e Filosofi di Regno di Napoli,cap.ii(Naples,1778),彼は、サモスは、現在の南イタリアの都市、クレパコーレ(Crepacore)であると考えた。

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原注3

 これらのコインの一つが挿し絵に描かれている。また、時代は疑わしいが、いくつか宝玉があり、それらはピタゴラスを描いていると言われている。C.W.King,"Antique Gems and Rings",I,212 と II,plate XXXVIII,No.1(London,1872).

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原注4

 BC660年のすぐ後、c.640-610とされることもあれば、c.671-617とされることもあるが、プサンメティコス(Psammet'icus;Psammiticus)一世の治世.

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原注5

 普通、古代のテキストでは、こう綴られるが、Apuleiusと綴ることもある。

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原注6

 BC529-522の間統治した。

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原注7

 すなわち、プサンメティコス(Psammetichus)三世。彼の統治は、BC526-525。その時、ピタゴラスは、およそ46歳であった。

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原注8

 E.W.Hopkins,"The Religions of India",p.559(Boston,1902); L. von Schroeder,"Indiens Literatur und Cultur",pp.718 seq.; Reden und Aufsatze,p.168(Leipzig,1913); Pythagoras und die Inder(Leipzig,1884).

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原注9

 Η μεγαλη Ελλαs, Magna Graecia.

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原注10

 J.Hager, An Explanation of the Elementary Characters of the Chinese, p.xv. London,1801.

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原注11

 J.C.Bulengerus, De Lvdis privatis ac domesticis veterum, p.31. Lyons,1627.

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原注12

 Diogenes Laertius, VIII,i,11,p.207 ed. Cobet. ギリシアの数学に関係する様々な言及が、Allman, Greek Geom.の中に見いだされるだろう。

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原注13

 Αριστοξενοs、哲学者。BC350年頃、タレントゥム生まれ。

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原注14

 例えば、五つの正多面体については、Proclus(c.412-485),ed.Friedlein,p.65

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原注15

 Diogenes Laertius, VIII,i,25,p.207 ed. Cobet.

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原注16

 Proclus,ed.Friedlein,p.95

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原注17

 ピタゴラスの定理についての疑問については、G.Junge, Bibl.Math., VIII(3),62,と H.Vogt, ibid.,IX(3),19.を見よ。天文学の疑問については、P.Duhem, Le Systeme du Monde(Paris,1913-1917)を見よ。

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