ギリシア数学の創始者たち
ギリシア数学の発展には、三つの重要な段階があり、そのうち二つは、この章の年代的範囲(BC1000年からBC300年まで)内にあり、残りの一つは、この時代のすぐ後に続く時代であると、現在考えられている。その時代の第一は、ピタゴラスの影響が及んだ時代。第二は、プラトンとその学派に支配された時代。第三は、ギリシア化(ヘレニズム化)したエジプトで繁栄し、その影響がシチリア、エーゲ海諸島、パレスチナに及んだ時代である。私たちは、これから、これら重要な時代の最初の二つについて、数学を創り出した何人かの名と彼らがその画期的な労作を(1)企てるに至った影響の幾らかについて考えていくことにしよう。
タレス
天文学、幾何学、そして特に数の理論を統合したものとしての、数学全般に、何らかの学問的関心を抱いた最初のギリシア人は、タレス(2)であった。彼以前の時代は、初期の人々の天上の神秘についての普通の関心があっただけである。詩人のアルキロコス(3)が、タレスが生まれる以前のある時、日蝕が観測されたと証言しているように。しかし、タレスの時代までは、ギリシア文明の中では、数学という学問はおこらなかった。
私たちが見てきたように、当時、ミレトスは、交易と植民地化の中心であり、富と影響力のある都市であった。ヘロドトス(BC450年頃)は、タレスはフェニキアの出であったと語っているが、彼の母のクレオブリネ(Cleobuline)は、ギリシアの名であるし、父親の名エクサミウス(Examius)はカリアの人(Carian)である。タレスという彼自身の名は、恐らく普通の名前であったろう。実は、ニューヨークのメトロポリタン美術館には、現在、彼の時代のキプロスの花瓶があり、その花瓶には、その名--明らかに所有者の名が--刻まれている。(4)タレスの才能が一般にどれだけ認識されていたかを考えると、キプロスの花瓶が、彼のことを指している可能性がないではないが、これが、そうであるという更なる確かな証拠は何もない。
タレスに関する話
タレスは、若い頃商人で、中年になって政治家になり、晩年は、数学者、天文学者及び哲学者であった。商人としての冒険の中で、彼は、ギリシアの交易民族の中でも、最も抜け目のない人々と取り引きする時でさえ、並々ならぬ成功を収めたように思える。アリストテレス(BC340年頃)は、彼が、オリーブの豊作が見込まれるときに、ミレトスとキオスのオリーブ圧搾機すべてを、いかに自分の手中に収め、(オリーブの)季節が来ると、自分自身が賃貸者として、それらを転貸したかを語っている。プルタルコス(1世紀)もまた、次のような逸話(5)の中で、彼の才知を証言している。
話によると、ソロンがミレトスのタレスのところに行って、タレスが妻や子供を持つことに、全然気にかけないのを不思議に思った。このことに、タレスは、当分の間なんの返事もしなかった。しかし、数日後、見知らぬ人に、彼が十日前にアテネを去ったふりをさせ、ソロンが、何か新しい話があるか尋ねると、彼は(タレスに)言われたとおりに言った。「若者の葬式以外には何もありません。その葬式には町中の人が出席しました。なぜなら、彼は立派で有徳の市民のご令息であったからです。その市民の方は、その時、家にはいませんでした。長いこと旅をしているのです。」ソロンは、答えた。「なんと惨めな人だろう。ところで、彼の名前は何という?」その男は言った。「名前は聞きましたが、今は忘れてしまいました。ただ、彼の知恵と正義については、多くのことが語られています。[ソロンが、自分の名を言うように言われ、それが自分の息子であることを知ると]、タレスは、彼の手を取り、微笑んでいった。「ソロンよ。こういうことがあるから、私は結婚もしないし、子供を育てたりしないんだ。あなたの恒常心でもってしても、支えるには大きすぎる。しかし、その話のことは、気にしなくてよい。作り話だから。」
ソロン(BC639-BC559年頃)は、観察されているように、天文学に興味があって、アテネの暦(BC594)に「閏月」を導入した人であった。
当時、交易は名誉ある職業で、タレスは、交易の目的で、エジプトへ行ったように思える。初期の著述家たちは、彼は、また、クレタとアジアを訪れたとも語っている。彼は、こうした交易で利益を得た唯一の数学者ではなかった。なぜなら、彼について、次のように語っているから。「数学者のタレスとヒッポクラテスは、交易をしていたし、プラトンは、エジプトで油を売って旅の費用を支払っていた、と報告する者もいる。」こうしてタレスは、学ぶことの楽しみに耽り、イオニア学派を創始するのに必要な富を蓄積したのかも知れない。ギリシア七賢人の第一の者としてあげられるほどの名声を得、ギリシアの天文学、幾何学、そして算術の父と見なされたのは、この道楽を通してであった。
タレスの算術
タレスがエジプトから持ち帰った算術の性質について、私たちには、直接の知識はほとんどない。カルキス(Chalcis)のイアンブリコス(AD325年頃)は、彼がunitsの体系として数を定義したと私たちに語り、この定義とunityの定義は、エジプトから来たと付け加えている。これは、多くはないが、タレスが単なる実用以上のものに興味を抱いていたことを示すのに、十分である。彼は、恐らく、他に多くの数の関係を知っていただろう。なぜなら、 アーメス・パピルスには、数列(progressions)に関する著述が含まれているから。こうした知識は、タレスほどの非常に注意深い観察者からは、ほとんど逃れることができなかっただろう。しかし、タレスが私たちの注意を惹きつけるのは、事実の発見者としてよりも、むしろ、演繹的な幾何学を創始したこととピタゴラスの師としての彼の力量にある。
天文学への関心
タレスは天文学に多くの関心を抱いていた。ヘロドトス(I.74)は、私たちにタレスは日蝕の予言に成功したとさえ語っている。この日蝕は、BC585年5月28日に起こったものと考える権威者もいれば、それより25年後のものだという人もいる。タレスは、カルデアの記録の研究からこのテーマに関する情報を得たのかもしれない。しかし、これがタレスの情報のソースであったかどうか、私たちは判断できない。現在、私たちは紀元前7世紀の数多くの楔形文字の粘土板を持っていて、それにはそうした予測が記録されている。その一つは次のように読める。「我が主人たる王へ、私は今まさに日蝕が起ころうとしていると書いた。今、日蝕が起こった。これは王にとって平和の徴である。主人よ。」
タレスのような好奇心に満ちた心を持つ男は、旅先において、またミレトスの交易の中心地において、他の土地の学者達と接触するようになり、この種の情報を獲得したり、教えの中に利用したりする機会を決して逃さなかっただろう。疑いなく、学問的訓練を積むことで、タレスはカルデア人の天文学的概念を捨てたが、タレスの注意を引いた天文学に関することは何でも記憶に留めるようになったのだろう。
タレスの幾何学
幾何学では、平面図形の最も単純な命題のいくつかがタレスによるものとされている。最も信頼できる古代の著述家達によると、それは次のようなものである。
1.どんな円も直径によって二等分される。
2.二等辺三角形の底角は等しい。
3.二本の直線が交わるとき、対頂角は等しい。(6)
4.半円の(円周)角は直角である。(7)
5.相似な三角形の各辺の比は一定である。(8)
6.二つの角と一辺がそれぞれ等しい二つの三角形は合同である。(ユークリッド、I.26)(9)
タレスの幾何学の重要性
幾何学の命題として、これらは取るに足りないもののように思えるかも知れない。なぜなら、直観的に得られるものだから。しかし、まさにその単純さが、エウデムス(Eudemus BC335年頃)その他の初期の著述家達が言及したように、タレスがその証明を最初にした人物であったという事実を、私たちに信じさせている。この時までは、幾何学はほとんど平面や立体の測定に専ら限定されたものであった。タレスの偉大な貢献は、直線(点の軌跡)の幾何学を示唆し、テーマを抽象化したことにある。タレスにおいて、私たちは初めて、論理的証明を幾何学に適用するという考えと出会う。タレスが数学という学問の偉大な創始者の一人と見なされ、まさにそうであるのは、この理由からである。文明の歴史と同じように、数学の歴史においても、重要なことは、偉大な考えを説くことである。タレスがいなければピタゴラス--ピタゴラスのような人--は存在しなかっただろうし、ピタゴラスがいなければプラトン--プラトンのような人--は存在しなかっただろう。
タレスの哲学
哲学においては、タレスは「水が万物の根源である。すべては神々で満たされている。魂は運動を生ずるものである。物質は無限に分割できる。」などと主張したと言われている。しかし、これらの主張を信ずるに至るタレスの基盤は、あまり満足のいくものではない。ほとんどの同時代人と同じように、タレスは書かれた作品を残さなかった。
アナクシマンドロス
タレスの死以後、イオニア学派の指導権はアナクシマンドロス(10)に移った。アナクシマンドロスは、一般に、タレスの弟子であったと考えられている。アナクシマンドロスあるいは彼の同時代の人が、日時計とよく似た道具(11)、グノモン(ノーモン)の使用をギリシアに伝え、正午や至点(夏至、冬至)、分点(春分点、秋分点)を決めるのに使用した。これを別にすれば、アナクシマンドロスは、数学には全く興味を示さなかったように思える。水時計(clep'sydra)(12)、すでにアッシリア人には知られていたが、それがギリシアへの道を発見し、また、アナクシマンドロスのグノモンが一日の時間を決めるようになったのも、この時代の頃であったように思える。