ギリシア算術の誕生

 商業算術は、ギリシアで知られるようになるずっと以前から、様々な近隣の諸国で十分発達を遂げていた。フェニキアの海岸に沿って、また、そこを横切って東洋との交易ルートが通じていて、商人たちは、バビロンから霊感を得て、早くからかなり優れた商業算術を発展させ、時が経つにつれて、エジプト、小アジア、またエーゲ海諸島で、この算術の教師となっていた。クノッソスの古代の宮殿の最近の発掘では、初期の時代に、バビロンの商業算術は、西はクレタ島まで達し、将来研究が進めば、この島に関する多くの貴重な情報を明らかにしてくれるように思われる。実際、いわゆるクレタの初期ミノア期には、ギリシアはまだ森林であり、遊牧民だけの住む人口のまばらなところであった。というのは、好戦的なドーリア人が、私たちの(語っている)時代の 1000年ほど前に、自らをペロポネソス半島の盟主となし、ギリシア人の生活の全ての傾向を変えてしまったからである。トゥキュディデスは、この初期の時期のこの国を、絶えず民族の侵入が繰り返される劇場として描いている。当時「それぞれの人は、直接の必要に応じただけの土地を耕し、富を蓄積しようなどと言う考えは全くなかった。」貨幣の鋳造が知られるようになる前のこうした状況の下では、最も原始的な算術が要求されただけである。小さな数の数え方、粗雑な物々交換、これが初期のギリシア文明が作り上げたすべてであった。それよりずっと後の時代でさえ、私たちは、ギリシアには商業を行う傾向はほとんどなかったと心に描いている。この時代の都市には、一般に港はなかった。航海をすると言っても、交易の発展を伴うというより、戦争や私的なものに関わっていた。

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外部からの影響

 ギリシア人が算術に興味を示すようになったのは、他の民族と 親密な関係を持ち始めた時からであった。実際、一般に言われている考えとは反対に、ギリシア人のその数学は、常に広く外部の影響によっていた。ギリシアの学派で、この学問を発展させた人々のうち、その大陸内で生まれた人はほとんどいなかった。しかし、私たちが植民地化を通して、外の世界と接触するようになるギリシア初期の努力について語ろうとしても、私たちは、まだ、どのくらいまで半島のギリシアが、当時、植民をしていたのか、どのくらいまで、ギリシア自体に植民をしていたのか分からないからである。なぜなら、ギリシアの人々は、ヨーロッパの沿岸と同じぐらい多くアジア沿岸にも住んでいたから。

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ミレトス

 しかし、私たちはヘロドトス(BC484頃から425年頃)とストラボン(BC66年頃-AD24年頃)によって、イオニア同盟を形成している12の(都市)の中で一番大きな商業都市であるミレトスは、アテネの植民地であったと言われていることを知っている。このことは疑う余地があるのだけれど。小アジア沿岸の戦略的位置にあって、ミレトスは、次第に大きな植民地化の中心となっていった。BC7世紀には、黒海及び地中海沿岸に、90もの都市を建設した。エジプトは、商業の定住地として自由に行き来してさえいた。この事実は、ギリシア初期の科学に実りをもたらした。なぜなら、ギリシア数学の始まりはまさにミレトスであったから。また、疑いなく、彼らの商業算術が最初に大きく発展したのも、ここであった。BC7世紀、西洋で初めて貨幣が鋳造されたのは、ミレトスのちょうど隣にあるリディアであった。ミレトスはすぐにそれを認め、この新しい発明を採用し、実際、半世紀以上アテネを先んじていた。この動きの影響は、特に算術との関係で明らかである。貨幣の助けがなければ、お金は金属の棒やインゴットの重さを量らなければならず、小さな通貨は、実際には、貝や小さな装身具(trinket)の形のものを除けば存在していなかったので、非常に煩わしいに違いなかった。そこで、私たちは、ギリシア人の間での注目すべき商業算術の始まりの時と場所について、かなり正しい決定をすることができる。すなわち、BC7世紀頃、小アジア沿岸である。

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ロジスティック

 私たちがこれまで話してきた時代は、ギリシアの数の学問である算術そのものは、まだ発明されていなかった。計算の技術だけが、こうしたプラクティカルな人々に影響を及ぼしていた。この算術の一分野は「ロジスティック」という名で知られていて、その起源は先史時代に求められなければならない。ギリシアの伝承によれば、フェニキアに由来する。フェニキア人の交易に対する本能(才能)は、十分に知られており、多くの比較的最近の著述家たちは、この伝承は、事実根拠があると感じている。しかし、数の興味ある特性は、この時代以前には、全く認識されなかったと考えてはならない。いろいろは奇妙な関係は、何世紀もの間、オリエントで議論の的となっていたし、数の神秘主義の何らかの知識は、疑いなく、ロジスティックが研究の特別の対象として存在するずっと以前に、ギリシアの祭司階級によって獲得されていたから。
 ミレトスや後のコリントその他の港湾都市の交易商人によって、ロジスティックは重要であると見なされたに違いないが、一般のギリシア人は、一つの数を別の数でかけたりするような、今日私たちが算術と呼ぶような他の何らかの操作をすることはできなかったであろう。疑いなく、当時学校があった。というのは、ヘロドトス(BC450年頃)やディオドルス・シルクス(BC一世紀)は二人とも、学校が知られていたことを語っているからだが、ロジスティックというのは、交易のための技術、ちょうど、私たちが計算尺やタイプライターを使うのと同じものと見なされていた。しかし、少し後になると、非常に好まれるようになった。プラトンが、学問の理論的な部分より、これに言及しているからである。

 「1,2,3・・・」と数を数えることができなかったり、偶数と奇数の区別がつかなかったりする人は、神聖な人とは似てもにつかない人であろう・・・。エジプトのどの子供もアルファベットを学ぶときに教えられるのと同じくらい、すべての自由民はこの分野の知識を学ぶべきであると、私は心の中で思っている。エジプトには、算数のゲームが、子供たちの使用のために、実際に発明されていて、子供たちはそれを娯楽や楽しみとして学んでいる。

 更に、現代の教師たちが採用しているのと全く同じような、りんごなどの数の概念を表す物の使用を薦めている。
 ギリシアの商人の間で、広くロジスティックが用いられるようになったにもかかわらず、これについて唯一つの論文も残っていない。ギリシアのかけ算の表、これは、この時代の初め頃、そして、今話を進めている時代より幾分後の時代の蝋板に書かれたものだが、それが、今日大英博物館に保存されている。また、これは、足し算、引き算やかけ算の若干の例と算盤(アバカス)とともに、ギリシア人の実際の計算を直接伝えており、これが私たちに伝わっているすべてである。これらの例については、算盤や様々な計算法について考えるときに言及されるだろう。

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