数学史

[東洋と西洋][中国][羅針盤(コンパス)][インド][シュルヴァスートラ][メソポタミア][バビロンとアッシリア]
東洋と西洋

 ギリシア数学の勃興、タレスやピタゴラス、そしてプラトンのような指導者の影響の下での著しい発展、またその独特の特徴は、ユークリッドの時代から17世紀の初め頃、キリスト教宣教団によって新しい知的絆が確立されるまで、東洋と西洋の数学は別のものと考える方が好ましく思えるほど異なっていた。しかし、BC1000年からBC300年までは、東洋ではほとんど何も新しいものは達成されなかったので、この章で少し述べておくのが好ましいだろう。世界のこの二つの大きな地域は、数学の大系の発展に、常にそれぞれがお互いに影響を及ぼしあっていたが、東洋は常に東洋であり、西洋は常に西洋であり続けた。それらは多くの共通点を持っている。特に、数学の天文学への応用という点において。しかし、論理的幾何学の発展は、その著しい発展すべてと共にヨーロッパ特有のものであり、一方、それほど厳密でないいくらか詩的な数学の局面は、一般にアジアの人々の心の関心を惹きつけた。古代人も、この違いを認識していた。クィンティリアヌス(36-96年頃)は、こう述べている。「古くから、アッティカとアジアの著述家の間にはよく知られた違いがあった。前者(アッティカ)の著述家は、簡潔で力強く、後者は大げさで空虚である。」(1)

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中国

 エジプトは、BC1000年以前に、価値ある数学の形を発達させ、その後停滞した。バビロニアも同様であり、中国もまた同じ道を辿ったのは興味ある事実である。世界のエネルギーは、ギリシアに集中したと言うことなのか。古い文明は燃焼し尽くしたのか。それとも、数学的な思考の独創性を進歩的活動ではなく、規範的な表現に従属させたことの、何か微妙な影響があったのか。その答えがどのようなものであれ、紀元前1000年と紀元前300年との間、中国は数学に関して、なんら偉大な古典を生み出さなかった。すでに述べた九章算術、あるいは後に述べる五曹算経(Wu-tsao Suang King)が、この時期に属しているので無ければ。中国が算術の発展に著しい貢献をしたのは、むしろBC7世紀に貨幣を導入したことであり、それは小アジアに現れたのと同じ頃で、商業算術に刺激を与えた。刀銭(Knife Money)や布銭(Spade Money)が、BC670年頃に現れ、貨幣は刀や布と共通の価値を表していた。後に円い貨幣が発行され、BC3世紀には標準的な形になった。この時期計算に用いられた方法については、私たちは何も知らないが、何かメカニカルな方法が、恐らく古代世界の他の地域同様、中国でも用いられていただろう。BC542年頃、中国人は、計算をするのに竹の棒を使っていたことが知られている。大きさも外見も新しい鉛筆に幾分似ている。BC375年頃には、その上に重さや金額(価値)の刻印された中国最古の貨幣が現れた。こうして、商業算術にとっての貨幣の素材は、かなりよく完成されていた。

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羅針盤

 BC4世紀には、南の方角を示す何らかの道具、恐らく羅針盤(コンパス)のようなものが存在していたように思える。後の文献では、指南車(chi-nan-ku)(south-pointing chariot)(2)のことに言及されているが、それが何であったのか分かっていない。(3)4世紀の文献では、それは黄帝(BC2704-2595)に帰せられており、また、Ki-li(BC1230-1185)また、その後継者(BC1185-1135)の治世に用いられたと言及されている。(4)

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インド

 すでに述べたように、イスラムの侵入(7世紀)以前には、信憑性のあるインドの記録はなく、私たちのほとんど唯一の資料は、ヴェーダ文学、仏教の聖典、英雄叙事詩、記念碑に残された碑文、そして、金属の土地譲渡証書である。これらの中で、後期ヴェーダ文学、英雄叙事詩、仏教の聖典だけが、BC1000年からBC300年までの時代の数学について知識を与えてくれる。ヴェーダの文献は、恐らく、BC800年頃までさかのぼるだろう。ヴェーダーンガス(Vedangas)(ヴェーダを支える四肢(手足))は、数世紀後に書かれたのだけれど。シュルヴァスートラの時代の年代は、分かっていない。様々な学者の意見を考慮して、大まかな年代を探ると、私たちは、シュルヴァスートラの儀典書を、私たちが今考えている時代にちょうど先立つ5世紀におくことができるだろう。その典書は、何か数学に関心があり、寺院の祭壇の長さの比率に間接的に触れている。また、ピタゴラスの数、すなわち xx+yy=zzの関係を満足させるような数について書かれており、ピタゴラスの定理そのものについてもほのめかしている。しかし、ヒンディー人が、ほんのわずかでも幾何学的証明の性質の考えを持っていたと信じる理由はまったくない。また、無理数の知識とグノモンの使用を理解していたことの証拠もある。(5)シュルヴァスートラは、また、一辺が1の正方形の対角線は、1+1/3+1/3*4+1/3*4*34、すなわち 1.4142156に等しいとも述べている。円の面積は、(1/8+1/8*29-1/8*29*6+1/8*29*6*8)(1/8+1/8*29-1/8*29*6+1/8*29*6*8)ddであると主張している。(6)

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シュルヴァスートラの数学

 シュルヴァスートラは、アパスタンバApastamba)、バウダーヤナ(Baudhayana)、カーティヤーヤナ(Katyayana)のような注釈者によって多かれ少なかれ変えられた。バウダーヤナ版の次のような記述は、そのスタイルを示している。(7)
 「正方形の対角線上に張られた綱は、元の正方形の2倍の大きさの面積を生み出す。」(8)
 「長方形の対角線は、長方形の二辺のそれぞれが生み出す面積双方をそれだけで生み出す。」(9)
 ヒンドゥーの聖なる書の一つであるラリタヴィスタラ(Lalitavistara)は、ブッダの算術の見事な腕前について語っている。(10)エドウィン・アーノルド卿は、彼の「アジアの光(Light of Asia)」の中で、韻文でその話を載せている。(11)
 これらすべての中に明確なものは何もないが、数学は、無味乾燥な交易のためだけに限定されていなかった。すべての思慮ある人々と同じように、より高い生活と関連していたことを示すには十分である。

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メソポタミア

 私たちが、話そうとする時代のちょうど前に、アラム人(12)がパレスチナのヘブライ人の領土の北を支配し繁栄していた。彼らの商業への関心は、39ページに示されているような、青銅の分銅によって証明されているように、アッシリアの古代の都市に広まっていた。BC1000年までに、彼らは、アルファベットの文字体系を発達させ、交易の証書は、それ以前バビロンのものが知られていたように、メソポタミア、ペルシア、そしてインドでも知られていた。その初期の時代を通して、税の記録はこの形式の応用算術がそれまでに存在していたことを示している。
 BC8世紀、アッシリア人は、メソポタミアと西方の広い領土を征服し、西アジアの支配的な強国となった。彼らは、初めて鉄の武器で武装した大軍隊を維持し、これによって広大な領土を服属させた。しかし、軍国主義は、結局は一つの弱点であることが証明され、彼らはカルデアの力に--すでに述べたセム系遊牧民族--屈服した。--彼らは、南からやって来てカルデア人として私たちには知られているが、彼らがメソポタミアを支配する強国となった。

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バビロニアとアッシリアの貢献

 こうした変化すべての中で、数学の歴史においては、二つの段階が特に言及に値する。(1)アラム人が商業算術をさらに高度なレベルへと引き上げた。(2)バビロニア人とカルデア人は、より初期の天文学の文献を拡張した。占星術という学問は、この頃までには、文明の強力な力として発達していて、天文学は、特に優れた学問として認められるようになっていた。天文学者のプトレマイオスは(150年頃)、BC721年のカルデアの月食の記録と、円を360度に分割していたことに言及している。十二宮の星座(zodiac)の認識とBC600年頃の惑星の軌道の研究は、応用数学という面で、カルデアの天文学者たちが一層の関心を抱いていたことの証拠である。
 占星術について言えば、--ケプラーが書いているように、彼女自らの母親を育んだ天文学の娘だが--いかに高い評価がなされていたかを示す様々な粘土板がこの時期にはある。それらは、全般に次ぎのような王への報告書である。「最近、二三度、私たちは火星を探しましたが、見ることはできませんでした。もし、私の主人である王様が、私に、この(火星の)見えないことが何かの予兆ではないのかとお尋ねになるのでしたら、私は、そうではないとお答えします。」(13)
 科学は、ネブカドネザル王の治世の時に最高点に達し、その治世は、BC561年に終わった。私たちは、BC523年やその他の年に年代づけられる惑星の一覧や(14)、また、同じ時期の閏日の不規則な挿入の記述や、BC383年とBC351年の間の閏年を正確に認識している(15)のは本当であるが、メソポタミアの数学は、実際にはカルデアの努力の衰退とともに存在しなくなった。

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原注1

 Institutes of Oratory, Bohn ed.,XII,x,16

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原注2

 Chiは「指さす」、nanは「南」、kuは「「車」の意味。

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原注3

 F.Hirth, Ancient History of China, p.129.

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原注4

 Ibid.,p.135.

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原注5

 L.von.Schoeder, "Pythagoras und die Inder", Leipzig,1884; また、"Indiens Literature und Cultur", Leipzig,1887; H.Vogt, "Haben die alten Inder den Pythagoreischen Lehrsatz und das Irrationale gekannt ?", Bibl.Math.,VII(3),6; A.Burk, "Das Apastamba-Sulba-Sutra", Zeitschrift der deutschen Morgenlandischen Gesellschaft, LV,543; LVI,327; M.Cantor, "Ueber die alteste Indishe Mathematik", Archiv der Math. und Physik, VIII(3),63; B.Levi, "Osservazioni e congetture sopra la geometria degli Indiani," Bibl.Math.,IX(3),97; Smith and Karpinski, "The Hindu-Arabic Numerals, p.13 and bibiliographical notes throughout (以後、Smith- Karpinskiとして言及する。).Boston,1911; G.R.Kaye, "Indian Mathematics," Calcutta,1915.

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原注6

 Thibaut in the "Journal of the Royal Asiatic Soc. of Bengal, XLV(1875), p.227; Dutt, "History of Civ. in Anc. India, I,271.

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原注7

 翻訳は、Dr.G.Thibautによる。彼の回顧録"On the Sulvasutras" Journ.Royal Asiat.Soc.Bengal,XLIV(1874); "The Baudhayana Sulvasutra," The Pandit,1875; "The Katyayana Sulvasutra," The Pandit,1882; G.Milhaud, "La geometrie d'Apastamba," Revue generale d.sci., XXI,512;を見よ。

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原注8

 すなわち、正方形の対角線を一辺とする正方形の面積は、元の正方形の面積の二倍になる。

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原注9

 すなわち、長方形の対角線を一辺とする正方形の面積は、長方形の二辺それぞれを一辺とする正方形の面積の和になる。

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原注10

 ブッダの生誕年は、しばしばBC543年とされるが、ビルマ、タイ、セイロン(スリランカ)では、普通それより80年前、すなわち BC623年とされる。

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原注11

 Smith-Karpinski, p.16に書かれてある。また、E.Arnold, "Indian Poetry," London, 6th ed.,1891の中の Mahabharataの翻訳も見よ。

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原注12

 あるいは、しばしばそう呼ばれるようにシリア人。

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原注13

 Bigourdan, "L'Astronomie," p.29; R.C.Thompson, "The Reports of the Magicians and Astrologers of Nineveh and Babylon in the British Museum, London,1900.

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原注14

 F.Hommel, "Die Babylonisch-Assyrischen Planetenlisten," in the Hilprecht Anniversary Volume, p.170.

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原注15

 上述の the Hilprechtの中にある、F.H.Weissbach, "Zum Babylonischen Kalender," p.282.

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