アーメス・パピルス

 紀元前1650年頃、エジプトにアフモセ(A'h-mose)という名の書記(scribe)が住んでいた。現代の著述家たちには、一般にアーメスと呼ばれているが、彼は数学についての著作を書いた。というより、古い論文を書写した。彼はこう書いている。「この書は、上下エジプトの王、ハウセルレ('A-user-Re)の名の下、33年、洪水の季節の第四の月に書写され、上下エジプトの王、ネマヘトレ(Ne-ma'et-Re)の時代に作られた古い著作に似せて、生命を吹き込まれた。この書を書写したのは初期のアフモセである。」もう一つ同じ時代の写本が大英博物館にあり、多くの分数の線(lines of fraction)が含まれている。それは、1927年に出版された。現物のアーメス写本は、現代まで伝わっており、19世紀中頃、イギリスのエジプト学者、A.ヘンリー・リンドによって購入された。(ここから、リンド・パピルスという名が由来する。)後に、大英博物館が入手することになる。これは、現存するパピルスに書かれた数学の最古の写本の一つである。
 アーメス写本は、教科書というより、むしろ、実用的な手引き書である。これは、x+1*x/7=19といった、一次方程式の問題を含んでいる。また、広く単位分数を扱っている。かなり測量に関するものも含まれていて、初歩的な級数の問題もある。内容から判断して、この著作は、少なくとも、2-3人の著述家による(作品の)要約であろうと思われる。

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商業算術の証拠

 BC1500年頃、ハトシェプスト女王(Hatshepsut)によって、現在、デル・アル・バーリ(Der al-Bahri)として知られる神殿が建てられた。これは、テーベからそれほど遠くなく、1904年に発見され、現代の学者たちに知られた。この神殿の壁には、プント(Punt)の地、恐らく、アフリカのソマリアの海岸に面したところだろうが、そこから貢ぎ物を受け取っている絵が描かれている。これに言及して「合計、百万、十万、一万、千、何百となるまで、数を数えた。」と書かれている。これは、貨幣が発明される以前に、どの程度数字が商業に用いられたかを示している。テーベのレクフミーレ(Rekhmire)の墓には、同じ時代の銘文があって、エジプトの収税表が書かれている。これには、最大の数が千であって、1/2が使用されている唯一の分数であるという事実に興味を覚える。

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最古の日時計

 この時期、あるいは、それより少し後といっても BC1500年頃だが、最古の日時計の残存物が年代づけられる。エジプトのものは、今、ベルリン博物館にあり、すでに、私たちが彼らの知っていた他の数学的天文学的知識から推定しているように、エジプト人は、原始的な日時計で時間を刻む優れた体系を発展させていたことを示している。この時計では、影は、正午までは、時間とともに短くなり、正午から夜にかけては、長くなる。正午まで6時間、午後に6時間をとってあり、この分割法から、後にヨーロッパで採用された12時間制が生まれた。こうした時計には様々な形のものがあり、ギリシア人に用いられ、後の日時計のもとになった。上に示した時計(図省略)は、エジプトの偉大なる将軍、トゥトモセ三世(ThutmoseIII)の名が付されている。彼は、まさに、エジプトのナポレオンと呼ばれている人物である。

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実用上の問題

 セティ一世(Seti I)(BC1350年頃)の時代までに、商業算術はアーメスの時代に必要とされたより、大きな数が必要となっていた。このことは、現在ルーヴル美術館にあるローリン・パピルス写本(Rollin papyrus manuscript)の中の問題から見て取れる。その写本の一つのテキストの一行一行は、次のようになっている。

   1601   392,325
   パンは合わせて 107,893、364,371ten
   パンは 6121塊、1800thes つまり 21,600ten
   合わせて 385,871
   残り 6354
   トウモロコシの量 1601袋、パンにして 112,090、392,306ten
   倉庫のパンは 114,064、385,971ten

 ここでは、各々 1601袋の穀物の計算が、二つなされている。産出額は二つの場合でそれぞれ異なっている。重さは、thes あるいは tenで計算され、12tenが 1thesであり、1tenは、およそ 316gになっている。第一の場合、焼いていないパンの塊は、3.63ten、つまり、1.15kg、2+1/2ポンドで、それを焼くと、3.37ten、1.06kg、2+1/3ポンドになる。しかし、最初の場合、また、6121塊の重さを、21,600tenとしており、それを焼くと一塊りが 3.52tenの割合となり、明らかに大きさが異なっている。第二の場合は、パンは一塊り 3.55tenとなり、恐らく焼いていないであろう。そして、分配するときは、一塊り 3.38tenになっている。最初の計算は次のように示すことができる。

   107893塊の重さ  364,371ten
   6121塊の重さ    21,600ten
   重さの小計    385,971ten
   残り        6,354ten
   合計       392,325ten

 問題自体は、これほど初期の時代に、大きな数が、実際に用いられたことを示している以外には、ほとんど意味はない。

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ラムセス二世の土地分割

 セティの比較的短い統治が終わると、ギリシア人には、セソストリス(Sesostris)として知られている、ラムセス二世(BC1347年頃)が王位につく。彼の統治時代には、土地の再分割が人々の間で行われ、測量に多くの関心が向けられたに違いない。
 ヘロドトス(BC484-425)は、祭司たちから得た情報に触れ、次のように述べている。

  彼らはこう言っている。セソストリスもまた、住民たちにエジプトの土地を分配した。すべての人に大きさの等しい四角い区画の土地を割り当て、土地を持つ者たちは、毎年支払うように要求される賃料で主な収入を得ていた。川が、割り当てられた土地の幾らかを洗い流してしまうと、その人は王の前に出て、起こった出来事を述べた。すると、王は、調査に人を派遣し、測量し、正確な被害の程度(失われた土地)を決定した。その後、失われた土地の大きさに応じて、賃料は要求された。こうした実用上から、幾何学は、先ずエジプトで知られるようになり、そこからギリシアに伝わったと、私は考えている。しかし、日時計とグノモン、また、一日を十二に分割するのは、バビロニア人からギリシア人が受け継いだものであった。

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ハリス・パピルス

 ラムセス四世は、BC1167年頃、王位につくとすぐに、彼の父、ラムセス三世(1198-1167BC)の偉業を称える著しい文書の準備をした。それには、神々への彼の膨大な贈り物(捧げ物)の一覧を含んでいた。その一覧には、神殿によって所有された古代エジプトの富の程度が示されており、その時代の数詞が分かるという価値がある。この文書はハリス・パピルスとして知られるもので、現在まで現存し、古代世界から我々にまで伝えられた実用的な計算書の最もよい例となっている。
 エジプトの生活で、著しい役割を果たしてきた測量術は、ラムセス六世の統治下(1150年頃)ヌビアのイブリン(Ibrim)のペンノ(Penno)の墓の碑文に見られる。その中に、国境と五つの地域が与えられている。

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エジプトとクレタとの関係の証拠

 このように、BC1000年以前から、エジプトは天文学の知識を十分発展させ、優れた暦を工夫していたし、また、広く計算を用いることを必要とする商業システム、水準測量など精巧に築き上げられた測量術、今日私たちが一種の代数と考えているかなりの知識、そして、特に、穀物を倉庫に保存したり、パンを作るときに穀物などの産物に用いる度量衡の何らかの知識も持っていたと、私たちは見ている。
 最近の発掘では、エジプトの発展のこの時期、クレタの文明が高度に発展していたことが知られるようになった。また、初期の時代、この二つの国の間に友好関係があった証拠もある。しかし、これらについて、私たちの知識は、余りに限られたものであるので、数学の歴史に何か実を結ぶものがあったかどうか決定することができない。クレタの碑文の解読には、学者たちの更なる努力が期待されている。

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