初期エジプト数学

 他の様々な国の数学の古さについて、どんな言説がもっともらしくなされようとも、エジプトの科学についてはるかに有効であると正当に言えるであろう。文明は、一般に大河に沿って発達してきた。ナイル川は世界最大のとも言える交易の大動脈であり、その肥沃な谷は、世界最大の庭園の一つである。エジプトは(地理的に)十分守られた国であり、文明は、メソポタミアやフェニキア、インドや中国などの地より、外敵に妨げられず発展を遂げる機会に、はるかに恵まれていた。更に、壁に彫られたものに示されているように、エジプトの美術は、紀元前4000年期にはシュメールのものよりはるかに発達していた。エジプトの科学は、他の土地の科学より進んでいたと感じられる理由がいくつもある。
 人類の歴史の中で、最も古い時代のものとされる出来事は、BC4241年、エジプトがそれぞれ30日ある12の月に、五日の祝日を加えた暦を導入したことである。この暦は、ローマ時代からグレゴリオ13世による改革(1582年)に至るまでヨーロッパで用いられていたものより優れたものであり、いくつかの点では、今日用いられている暦より優れているが、そのような暦を作り上げたということは、天文学のみならず計算法も高度に発展していたことを示している。他のどの国においても、数学が真に発展していた記録は、そこまで古く遡ることはない。それは、最も初期の石工たちより1000年以上も昔、如何なる民族も、私たちがアルファベットとして理解しているものの考えさえ抱いていなかった時代にまで遡る。こうした出来事は、注目に値する算術がすでにできあがっていたこと、また、神殿の天文学者たちによる、長い一連の科学的観察があったことの物言わぬが、確かな証拠である。更に、私たち自身の暦は、古代エジプトの暦を単に適用したに過ぎないとも言えるかも知れない。100年ごとに閏年は、百の位以上の数字が、4で割り切れるときだけ閏年にするという偉大な改革はなされたが。

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紀元前3000年期のエジプト

 第二王朝の終わり頃、BC3000年が近づくと、私たちは実用的な技術が急激に発展する時期になることを発見する。この時期、直接の情報が得られる写本は持っていないが、技術が達成されたことを示す面白い事実をいくつか認めることができる。ブレスティド(Breasted)教授は、BC3000年期の文明の発展を次のように特徴づけている。

 「このBC3000年以前には、石を切り刻む石工の最初の例は、ほとんど見いだされないだろう。BC3000年以後、ギザの大ピラミッドが建造された。驚異的、加速度的な速度で発展を遂げ、BC3000年直前の最も古い例からBC2900年直後のギザのピラミッドにまで通り過ぎていく。曾祖父の時代、BC3000年より一世代ぐらい前に、最初の石工たちが初めて壁を築き、BC2900年直後の時代には、ギザの大ピラミッドを建立した。
 これらの初期の建築家たちの感情を想像するのは難しい・・・。予備的な計画の段階から歩を進めて砂漠の表面に起伏があるのに気づいたとき、その起伏のために角から角へ対角線上を見ることができず、斜辺を測ることで垂直に正確に立てるエジプトの有名な方法を直接用いることができなかったから。
 エジプトの技術者たちは、地表面の起伏上に直線を引くこと、あるいは、ナイル川の湾曲に沿って水平面を描くことを早くから知っていた。あらゆる緯度のいろいろなナイル川の水準を記録しようと努力する中で、エジプトの技術者は、大ピラミッドで出会ったより、はるかに過酷な測量上難しい問題と直面した。ナイル川の水位計(nilometer)を作る研究の中で、零ポイント、常に最下位の水位よりずっと下であるが、それがすべて一つの水平面上にあるという事実を明らかにした。この水平面は、南から北へと川の水面が傾斜しているように傾斜している。ファラオの技術者たちは、海から最初の大滝(Cataract)までのおよそ700マイルの間、川の無数の湾曲に沿って、同じ傾斜水平面上に線を引くことができた。」

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初期の技術者の正確さ

 ペトリー(Petrie)は、大ピラミッドの各辺の長さは、最大 0.63インチ、全長の 1/14000以下の誤差しかなく、四隅の角の誤差は 12秒、すなわち、直角の 1/27000しかないことを発見した。これら初期の測量士たちの精度は、これほどのものであった。

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大ピラミッドについての考察

 大ピラミッドについて、この書では簡単な記述しかできない。数学、恐らく何らかの数学的神秘主義がピラミッドの構造を設計するときに重要な役割を果たしたものと、すべての学者は認めているが、支配していた原理が何であったのか、正確なことは分かっていない。四つの正三角形がピラミッドの表面を覆っていたとずっと言われてきたが、この理論は、測量によって得られたものではない。底面の一辺が母線の長さより長くなっているから。
 二つ目の理論は、一辺と高さの半分との比の値がおおよそπである、すなわち、四つの辺の長さと高さとの比の値は2πであるという主張である。なるほど、πの値をおおよそ3.14となり、これはピラミッド建造者たちには知られていたかもしれないが、単なる偶然に過ぎないだろう。何かの建造物、何かの物の長さがこの比率になっているものを探せば、それを見いだすのは困難なことではない。とは言っても、その構造の比の中には、恐らく、この種の神秘主義は存在するだろう。
 三つ目の理論は、主部屋につながる通路の傾斜角が、ピラミッドの緯度、およそ北緯30度であるが、それと一致している、すなわち、通路そのものが、当時、北極星のあったところを指し示していると言う主張である。しかし、その仮定を好意的に捉え、あらゆる合理的な説明をするにしても、角度の違いは大きく、十分説明することはできない。
 また、ピラミッドの傾斜角が一定であるとも主張されている。なるほど、ギザの三つのピラミッドは、ほんの少しの違いしかない。およそ、51度51分、52度20分、そして51度であるが、他のものは、45度から74度10分ほどまで傾斜角には幅がある。
 最近の測量は、非常に正確になされているので、更に研究が進めば、近い将来建築家たちを駆り立てていた数学的原理がどんな物であったか明らかにされる可能性はあるだろう。当面の間は、チャールズ・ピアッツィ・スミス(Charles Piazzi Smyth)のような人の、科学的というより、興味本位の考察には耳を貸さない方がよいだろう。

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壁画のレリーフの証言

ピラミッドを建造した時代の壁画のレリーフには、恐らく、穀物の形であったろうが、また、王の官吏による受領証の発行と言う形で、税の収入を説明している。この初期の時代における、初等数学の具体的な応用例は、シュメールを除けば、他のどんな地域においても見いだされていない。

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アメネムハット三世、モエリスの統治

 BC1850年頃、第12王朝に、すべての王の中で最もエネルギッシュな王の一人であるアメネムハット三世(AmenemhatIII)が王位についた。彼の統治下に、灌漑システムが広く完備された。これには水準測量などの測量技術の知識が必要で、メソポタミアを除けば、恐らく世界の他のどの地域にも、これ以前の時代には決して発達してはいなかったであろう。この当時、BC1825年頃だが、現存する最古の詳細な数学の写本、少し後で言及するアーメス論文だが、このオリジナルが書かれたと信じられている。この推測が正しければ、メソポタミアでもそうであったようだが、単位分数(unit fraction)がすでにエジプトでは知られていたことになる。そして、かなり便利な記号体系を用いた簡単な方程式や、等差級数、幾何級数、また求積測量に必要な定理のようなものが、ナイル渓谷の数学者たちエリートにはすでによく知られていたことになるだろう。

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封建時代の数学

 アメネムハット三世は、いわゆるエジプトの封建時代に--数世紀続き、BC1800年頃に終わる--生きていた。この時代には、現存ずる最古の天文器具がある。子午線を得る目的の観測に使われたフォーク型の棒である。この作業をするには、計算力と作図に必要な幾何学の何らかの能力が前提されており、こうした能力があったことは、更に、アーメスの論文によっても証明されている。これ以前に書かれた別の論文があり、その中に、すでに述べた、それぞれ三十日ある十二の月と五日の余分な日にある暦に触れられているのを見いだす。
 封建時代の終わり頃、エジプトが統治していたアジアには、郵便制度が存在した。そのことは、それを利用する人の便宜のために、その地域には、何か支払いのための手段があったことを示している。同時に、民から税を徴収するために、国税調査(census list)が行われ、灌漑事業のための測量がなされた。また、ナイロメータ(Nilometer:ナイル川の水位計)は、水位の上昇の始まりと終わりを予言するのに役立った。これらすべてには、すでに述べたように、かなりの測量術と計算が必要であり、エジプトの歴史の中で、この時期に数学への関心が高まっていた証拠となっている。
 中王朝(BC2160-1788)の時期、商業算術は、勘定書、請求書や収税表に必要なものであった。この時期から、私たちはパピルスの巻物の様々な断片を持っている。それらは、封建領主たちの図書館の遺構で発見された。これまで知られているパピルスの巻物の最古の図書館である。これらの遺構の中、カーフン(Kahun)で発見され、現在、ロンドンとベルリンにあるパピルスの断片には、上で述べたような商業活動の証拠が見出せる。

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