初期バビロニア数学
私たちの目的にとって、カルデアとバビロニアとは同意語であって、共に、チグリス・ユーフラテス川のデルタ地帯から、北の方、アッシリア、起伏に富んだ元来古代都市アッシュールを取り囲む森に覆われた地域にまで広がる土地のことである。実際、現在のところ、南方草原地帯から流浪して、アッシリア、ニネベ周辺地域、小アジア、フェニキア海岸沿いに定住した、これらすべてのセム系民族を一つの大きなグループと考えるのが都合がよい。また、セム系民族ではないが、世界の主要な交易路の一つである、ペルシア湾の先端部のシュメールの地に住んでいた民族、シュメール人も含めた方が都合のよいことが分かるだろう。これらの民族は山岳地帯から東に移動してきて、早くから数体系を発展させていた。紀元前2800年頃に、すでにある碑文を通して、彼らに用いられた数詞にことが私たちには知られている。沖積層でできた低地に住んでいたため、碑を建てるための石材がなかったことから、原始のシュメール人たちは、自分たちの記録を保存するのにレンガを使用することにした。粘土板の表面に、彼らは円いあるいはとがった棒を押しつけて、円や半円、楔形の文字を作った。これらの記録は、19世紀前半まで現代世界には謎であったが、古代メソポタミアの豊富な文献への鍵をグローテフェント(Grotefend(1802))が示唆し、ローリンソン(Rawlinson(1847))が解読に成功した。粘土板は、文字が刻まれた後、火で焼かれたり日干しにされたりしたが、その数千枚が様々な博物館で研究のため、現在役立っている。シュメール人のこれらの記録は、紀元前3000年近くも前に、商人たちが、勘定書、領収書、受領書、会計書や度量衡の体系などを知っていたという情報を私たちに与えてくれる。世界の他のどこの地域にも、これらシュメールの粘土板によって明らかにされたほど早い時代に、商業算術の明らかな証拠を持っている地域はない。ここでは、また、科学的な暦法に近づいていた証拠も見いだしている。もっとも、エジプトで同様の証拠が見つけられたのよりは後の時代であるが。そして、おそらく、ここで初めて、数を数えるのに一種の60進法が用いられていたことを発見するだろう。
初期の暦
しかし、数学の知識のいくらかは、これらシュメールの粘土板に記録されたものより、ずっと以前から知られていたに違いない。古代バビロニアの一年は、春分点に始まり、最初の月は牡牛座にちなんで名付けられた。それで、暦は、太陽が春分点で牡牛座のなかにあったときに確立されたに違いないが、そうした時期はおよそBC4700年頃に始まっている。いかなるものであれ、暦は数学の大系と何らかの計算法を前提としているので、私たちは、バビロニアには、紀元前4000ー5000年に何らかの算術が存在したと安心していうことができよう。実際、暦に関する限り、BC5700年頃には、もっと古くなる可能性もあるが、春分点で一年の始まりを祝っていたと言うことができる。
初期バビロニア
初期バビロニアとして一般に知られているものは、およそBC3100年からBC2100年頃まで続き、最初の偉大な統治者サルゴン(Sargon)は、BC2750年頃に繁栄を誇った。彼の優れた経歴は、シュメールのちょうど北の地域、アッカドで始まる。それは、一部には、特にアッカドの人々、一般にバビロニアの人々が、商業の方法、天文学、暦法、度量衡及び高度に発達したシュメールの数詞を採用していた地域に隣接していた地域の人々であったことによる。私たちはサルゴンの統治下に日蝕があったという記録を見いだしているので、数体系はかなり発達していたに違いない。また、サルゴンのために、占星術に関する初めての大論文が編集され、そのオリジナルの断片を私たちは持っている。
解読されたBC2400年頃の粘土板のなかに、ウル第三王朝の諸王の統治下にまで遡る、一種の草稿や改稿として用いられたもの、シャルズ(shars)での土地の測量、タラント(グル(gur)による重さやカ(ka)による液量の測定、利息計算、分数1/2、1/3、5/6の使用、ガ(ga)(kaと同じでない)で液体固体の双方の測定などを記録した様々な標本がある。
私たちが語っている時代をはっきりと念頭に入れておくために、サルゴン(BC2750年)の治世だけでなく、ハムラビ王あるいはハムラピ王(BC2100年)の優れた統治時代のことにも言及しておかなければならないだろう。この時代に、私たちが知っている限り世界で最初の大法典が編纂され、暦が改革されている。ハムラビ王の時代の他に興味のある遺物のなかに、最古のものとして知られた学校寄宿舎の遺跡がある。フランスの考古学者によって発見されたもので、その建物のなかには多くの粘土板があり、それには生徒たちが授業の内容を記している。バビロニア算術の私たちの知識の一部は、これら粘土板によっている。
40ページで詳細に述べることになる、考古学者たちの全般にわたる結論は、これら初期のバビロニア人たちは、(千年に及ぶ活動を通じて)計算、測量、商業活動などについてかなりの知識を有していたということになる。数体系は、まだ十分に完成しておらず、それによるハンディがあったとしても。
初期アッシリア
BC3000年頃、セム系遊牧民族がアッシュールに定住し、やがて彼らもシュメールの暦と南部の人々によって発展させられた商業上の数学を採用するようになった。
ずっと後、BC1200年以降になって、アラム人すなわちシリア人たちは、アッシリアの西の地域に様々な王国を築いた。彼らは偉大な商人であり、交易で用いられたシュメールの数字、バビロニアとアッシリアを通じてゆっくりと北に広まっていったが、今や、新しい地域にその場所を見いだした。私たちはこの時代のブロンズの重し(weight)を持っている。それは、すべての数字、分数、測定、計算の基本公式が、人々の日常生活において、かなりの役割を果たしていたことを示している。
初期カルデア
カルディ(Kaldi)と呼ばれる砂漠の民が、現在議論している時期よりずっと後目立つようになり、古代シュメールの中で足場を築き、遂にアッシリアを征服し(BC606年)、バビロニアの地にカルデア帝国を築いた。彼らの帝国は、BC539年までしか続かなかったが、科学の分野では大きな発展を遂げた。特に占星術は広く発展し、赤道は恐らく360度に分割され、十二宮が明確な形になっただろう。数学は商業と天文学の侍女として栄えた。こうして、バビロニアはカルデアとなり、カルデアは科学と芸術の保護者となった。
初期楔形文字の粘土板
バビロニア算術の初期の重要な知識は、ユーフラテス川に面した古代のラルサム(Larsam)、すなわちラルサであるセンケレー(Senkereh)で、1854年、イギリスの地質学者 W.K.ロフトゥス(Loftus)によって発見された二つの粘土板に由来する。これらの粘土板には、1から60までの数の平方と1から32までの数の立方が含まれていた。年代は不確かなものであるが、証拠品はハムラビ王の時代(BC2100年頃)頃のものではないかと思われる。
センケレーの粘土板の発見以来、現代のヌッファル(Nuffar)、バビロンの南に位置する古代都市ニップールで、およそ50,000枚の粘土板が発掘され、その中に数学に関するものがたくさん含まれていた。それらは、明らかに、BC2150年かそれより少し早い時期に、また、BC1990年頃再び、エラム人によって破壊されたと思われる大図書館からのものである。それは、これまで光りの下にもたらされた古代数学資料の中で、最大の分量を誇っている。円筒には乗除の表、平方や平方根の表、幾何級数、それに2,3の計算法や測量法に関するものなどが含まれている。ノイゲバウアー(Neugebauer)の粘土板に関する多くの研究(1935)は、シュメール人とバビロニア人は、特殊な一次方程式、二次方程式、三次方程式、四次方程式を解くことができ、また、負の数の知識もいくらかあったことを示している。
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バビロニアの幾何学
ニップールその他の場所で発見された粘土板は、私たちにバビロニアの幾何学について、いくらかの知識を与えてくれる。これらから、BC1500年頃には、バビロニア人たちは、三角形及び正方形の面積、直角三角形や不等辺四角形の面積を求めることができていたように思える。円の面積、平行六面体、円柱の体積も可能であったように思える。彼らが (a+b)(a+b)の展開の公式を知っていたと信ずるに足る証拠もある。これらが、幾何の図形や平方数の研究を発達させて推論していたものかどうかは、私たちには分からないけれども。また、彼らがアバカス(そろばんのようなもの--訳注)を知っていたと信ずる理由もいくらかある。なぜなら、彼らのサインの一つ(SID)は、そうした道具の絵文字に由来するかもしれないから。
60進法
バビロニア算術の特異性の一つは、常に60と言う数字を使うことである。--その使用は、最後には60分割の分数への発展を示し、今日でも、角度、時間、分、更に小さな単位に分割するときに用いられている。一般に、バビロニア人たちは星を観察することに興味を持っていて、早い時期から、一年の循環が360日で成り立っていると信ずるようになっていたと考えられている。また、円に内接する正六角形の一辺が、円の半径と等しいことも知っていたと考えられている。この知識は、360を6つの等しい部分に分割できるということを示しており、こうして60は、一種の神秘的な数と見なされたのであろう。実際、これが60という数を用いることになった起源であるかも知れないが、他の民族では、40や20、15さえも、幾らか同様の仕方で用いられていることを、明確な理由は全くないが、見いだしているので、こうした習慣は、心の中に特別な理由があるのでなく、指導者やあるいは宗派によって始められた民族の観念から発展してきたものかも知れない。一層可能性のあるものとしては、60は2,3,4,5,6,10,12,15,20,30という整数の約数を持っているために選ばれたのかもしれないことである。そうしておけば、その分数の扱いはとても簡単になる。
60を分母とする分数の問題は、第二巻で論じられているが、ここでは1920年に初めて著述された重要な粘土板について簡単に触れておこう。BC200年頃のもので、分母として360か60のいずれかを用いるバビロニア人の習慣について描写している。単位分数及び分子が分母より1小さい分数を除いて、例えば、60/360は10/60、すなわち 1/6(SUSSU)、240/360は40/60、すなわち2/3(SINIPU)、300/360は50/60、すなわち5/6(PARAB)のことを表しているのかも知れない。