初期ヒンドゥーの数学
私たちが中国の数学から、インド、バビロニア、エジプトの数学へと考察の対象を移そうとすると、私たちは、全く異なったタイプの人々、というよりむしろ二つの異なったタイプの人々の精神的産物と出会う。人類の民族には二つの大きな支流があり、一つは西洋世界に影響を及ぼした民族の系列であり、もう一つはインドやメソポタミア、そこに隣接する地域の人々であった。この支流の最初のものは、北方草原地帯(Northern Grassland)から流浪してきたように思えるのだが、インド・ヨーロッパ語族として知られている民族を構成している。西洋では、その構成員はケルト人、ローマ人、ギリシア人であり、小アジアにもいくつか代表的なグループがある。東洋では、これと同じ系列が、メディア人、ペルシア人、ヒンディ人の中に見られる。東の支流は「アーリア人」として相応しい名が与えられ、そこから私たちはペルシアのことを表す「イラン」という名を得ている。これらの人々は全般に想像力が高度に富み、数学の文献は数の理論、幾何学、天文学という分野で発達していた。
第二の大きな支流は、アラビアの南方草原地帯(Southern Grassland)に最初に定住したと考えられ、セム系民族として知られる民族によって代表される。これには、アッシリア、バビロニア、フェニキア及びフェニキアの植民地の人々が含まれる。彼らは、東洋から西洋への交易路に住んでいた。彼らの数学の文献は、主として計算の分野で発達していた。--商業の分野だけでなく、天文学の分野での数に関する広範な文献へとつながる分野である。
中国の初期の数学の業績が、年代も重要性においても不確実であると言っても、ヒンドゥーの初期の(数学)の発展は、それよりはるかに不確実である。私たちには、これらの民族のはるか遠い過去の満足のいく記録がないばかりか、ヒンドゥーの学者自身が、非常識と認識されるような主張をしているのに出会うことがまれではない。例えば、Meerutのスワーミ・プレスの「スーリヤ・シッダーンタ」の初版には、この著作は「およそ 2,165,000年前に編集された。」と書いてあるが、それは、人類が存在したと考えられているよりおよそ四倍も古い時代である。さらに一層ばかげているのは、マヌの法典は、6x71x4,320,000年前に遡るというものであり、古代カルデア人が、彼らの天体観測は 720,000年以上前に始まったという主張が控えめな表現に思われるほどである。実際のところ、この有名な天文学に関する文献「スリヤ・シッダーンタ」は、おそらく、私たちの世紀で言えば、4・5世紀頃に書かれたものであろう。初期の自国の学者たちは、自分たちのカースト以外の者にはほとんど同情を示さなかったので、全体的な文献には全く欠けており、科学的な発展を全体の観点から試みたのは、他の地域(インド以外)の人々の文献だけである。しかし、インドでは、初等教育機関がとても早くから存在し、認められた学習すべき72の学科の中で、少なくとも初等教育の段階では、算術と読み書きが最も重要であると見なされていたと信ずるに十分な証拠がある。
信憑性のある記録の欠如
信憑性のある記録に関しては、インドには、イスラムが最初に侵入した紀元 664年頃以前に書かれたものは何もない。それ以前の歴史について、私たちが知っていることは、二つの偉大な叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマヤーナ」、コインや若干の碑銘から収集できるわずかなものである。「マハーバーラタ」は、古代の英雄たちによって獲得された数詞の技について語っており、碑銘は二千年前ヒンディ人たちによって用いられたいくつかの記数法を教えてくれる。しかし、そのどちらにも、私たちの時代(紀元)前1000年に至る時代の知識は何もない。インドの聖なる書である「ヴェーダ」は、この時期、何らかの注目が、同時代の中国、メソポタミア、エジプトの場合と同様、天文学に向けられていたことを示している。
それ故、この時期のヒンディー人の数学について、私たちに言えることは、その時期文明の発達した他の民族の場合とちょうど同じように、最も初期の時代のインドも、天文学と計算法に注意が向けられていたことを示す証拠が古代の文献から得られるということだけである。