初期の中国の数学

 私たちは、数学がどこで科学のようなものに発展したのか明確な知識は持ち合わせていない。メソポタミアがそうであると強く主張する人もいれば、エジプトだという人もいる。中国について、私たちはもっとも初期の文献について明確な知識はほとんど持っていない。文献が失われたのでないかという可能性が、その極端な主張に疑いを投げかけているだけである。中国の学者たちが、東洋で発達したものにふさわしい本文批評(text critic)を発達させるまでは、この不確かさは存在し続けるであろう。歴史時代は紀元前8世紀、あるいはもっとも早い時期としては、紀元前1122年、武勇の王、武王(Wu Wang)の統治で始まる。それ故、中国の始まりにおいては、中国の科学の古代性がしばしば主張されてはいるが、すべてが有効である認められると我々は考えてはならない。
 後の中国の原始的な天文学の歴史的著述について、すでに言及したように、ハーグのシュレーゲル教授の意見に基づくと、中国人は紀元前17000年の早い時期に星座を認めているという。旧石器時代の終わり頃である。あり得ない話のようであるが、その仮定を不可能とするものは何もない。その民族(中国人)は、その時までにはかなり発達していて、その詩的な幻想が、何千年にもわたって見続けてきた星の集まりに形を与えるようになったとしても不思議はない。シュレーゲル教授は、また、十二宮(が定まった)おおよその年代として、BC14700年としている。BC13000年が可能性が高いと主張する学者もいれば、BC4000年とする学者もいるが。これらの仮説のどれが有効かについては、懐疑的になるのは当然で一致することはないだろうが、シュレーゲル教授は、また、BC14600年頃に中国で天球の研究が発達した根拠があるとも論じている。
 このような主張は、他の中国人の学者には一般に疑問視されているが、中国人が初期の時代に天文学が記述され、何らかの知識を発達させていたことはきわめてありそうなことである。また、この発達が、時間や角の測定、かなり大きな数の使用という数学の知識を必要としたこともきわめてありそうなことである。合理的にうまく創られた伝承によれば、伏義(Fuh-hi)、有名な中国最初の皇帝だが、その可能な年代として、BC2852-2738年があげられている。彼の統治時代、広範な天文の観察が行われた。全般に、この時期に、中国人は彼らの十二宮を二十四の動物のものに変えていったと信じられている。

目次へ

黄帝の統治

 紀元前2704年、黄帝(Huang-ti)が統治をはじめた。彼の庇護の下、Li Shu(力牧?)は天文学について著述し、大撓(Ta-nao)は Chia tsu(干支?)すなわち60進法の体系を確立したと言われている。共に、古代の記録(恐らく変えられていただろうが)の写本によって支持されている。黄帝自身も天文学や算術について著述するほど数学に関心があったといわれ、彼の統治下に日蝕が観察され記録されている。伝承によれば、十進法の数の数え方もこの時代のものとされている。そのテーマについて何かよく知られた著作が書かれた可能性はかなりありそうである。帝堯の治世に二人の兄弟、和(Ho)と義(Hi)が天体の観察を行った可能性がある。二人は日蝕の予言に失敗したため、皇帝の不興を買ったと言われている。この出来事は、およそ1500年前のタレスの時代に匹敵するほど数学が発達していたことを示している。この話は、書経(Shu-king)(歴史の教典)の中で語られていて、皇帝自身あるいは2000年近く後の孔子の筆によるものとされる出来事である。この帝堯と後継者帝舜が、西アジアから来た Bak族によって確立された支配を東の方へ拡大していったと言われている。この部族は、スシアナ(Susiana)民族の文明の影響下にあった。そしてバビロンから文明を受け継いでいた。この理論が正しいことが証明されるなら、東洋と西洋の天文学と数学の初期のある形態が類似していることの説明は、一層容易になる。

目次へ

易経

 中国の五経の中で、古さの点で恐らく三番目のものが易経、すなわち「万物の変化の書」である。この中に両儀、すなわち二つの原理(男性:陽 ―;女性:陰 --)が現れ、この二つから四象(Sz' Siang)、四つの図(数)が形成された。

          ― -- ― --
          ― ― -- --
          3 2 1 0

 そして、八卦(Pa-kua)すなわち八つのトリグラム(三重の図)が、上述の二つの形を、同じ形の繰り返しも認めて、一度に三つ取って組合せて作られた。これらの八卦は、それぞれに様々な徳が割り当てられ、占いの目的できわめて初期の時代から現在に至るまで用いられている。恐らく易経を書いたのは文王(Won-wang(1182-1135BC))であろう。とにかく八卦を今この古典の中に見られる64の六線図形(ヘクサグラム)に発展させたのは彼だった。
 西洋の精神ではほとんど考えられないことだが、こうした象徴は何千年もの間続き、その意味を説明するのに現れた多くの書物や研究論文(モノグラフ)があり、中国のみならず、東洋のすべてで中国哲学の影響の下にあった何億もの人々すべてに今日でも知られている。



--


--
--
--


--
--

--

--
--
--
--
--
k'ien
テン
tui
蒸気
li
chon
sun
k'an
kon
k'un
7
6
5
4
3
2
1
0
 天、空 
  水  
  火  
  雷  
 風、木 
 雨水、月 
 丘(山) 
  土  
南東
北東
南西
西
北西

 八卦での解釈の一つを検証すると、普通東洋の著述家によるものだが、それは数学に関するピタゴラスの教えを示しており、私たちは先へ進むにつれて、西洋は東洋からその神秘主義の多くを得たと一層強く信ずるようになるものを見いだすだろう。
 中国人が二進法に基づく数詞と八卦を見なしていたという歴史的根拠は何もないのだけれど、―を1、--を0と考えると連続したトリグラムは、右から始まって私たちの(二進法の)数表記で 000,001,010,011,100,101,110,111と表されるような価値を持っていることは真実である。これらが二進法に基づいて書かれた数と考えると、それらが示す値は、0,1,2,3,4,5,6,7となる。
 八卦は、今日中国のあらゆる町や村の占易者によって使用されている方位図表に見られる。また、扇や花器、その他の多くの家庭用品にも見られる。チベットや他の極東地域で広く共通に用いられている様々な種類のお守り(魔除け)など。

目次へ

洛書と河図

 易経はまた、八卦は伏義の統治下、河の堤に現れた竜馬の足跡であり、実際にここに描かれているような魔方陣である洛書(訳注 - 図省略)は、帝禹(BC.2200年頃)が黄河に乗り出したとき現れた亀の背に描かれていたと述べられている。河図(訳注 - 図省略)もまた高い栄誉が与えられた神秘の象徴で、同じ作品(易経)に描かれている。
 このように易経は、数学の書としてではなく、私たち(現代)にまで伝わっている。しかし、これらの考えは、共に、その書が書かれたときすでに古代のものになっていたと考えるのが道理にはかなっている。

目次へ

周髀

 数学的であると称される最も古い中国の文献は、「周髀」あるいは「周髀算経」である。主として暦に関する文献であるが、影の測定(shadow reckoning)に関するいくつかの著述を含む古代数学に関する情報が含まれている。この文献の著者と成立年代は共に分かっていない。そして、最初に書かれた時から、かなりの修正が行われたと信ずる理由がいくつかある。秦王朝の始皇帝は、紀元前213年、すべての書物を焼きすべての学者を生き埋めにするよう命じたが、彼がはじめて、すべての古代の論書を過激に変更する機会を与えたように考えられるだろう。しかし、そうした徹底的な勅令は、恐らく実行されなかったであろうし、たとえあらゆる書物か失われたとしても、記憶で古代の古典を逐語的に繰り返すことのできる者が多くいただろう。それは、ボエティウスやビード(ベーダ)(Bede)、アルクィンまたその著作を私たちが知っていると主張しているギリシアの著述家に帰せられている著作とほぼ同じぐらい原始的な形をとどめている古典を持っているという可能性があるということである。いずれにしろ「周髀」の中に、私たちは、周公に死の年、BC1105年頃の数学に関するとても優れた記録、この書物が記録しているいくつかの対話のうちの一つに参加した人の記録を持っている可能性がある。この対話の一つは、王の周公と大臣の商高とのもので、数の神秘主義、測量法、そして天文学について述べている。周公の熱心さを語る話の中に、風呂から濡れた長い髪を手で抱え、役人たちに相談に駆けていくことが何度かあったという話がある。また、伝承によれば、彼は回し継手のような手首をしていて、彼の手は手首で完全に一回転することができたと述べられている。―数学に興味のある人にとっては、奇妙なフィクションであるが―「周髀」から、いくらか抜粋してみよう。この著作について何らかの考えを持つことができるだろう。

  数の術は、円と四角からできている。
  直線を折って、幅3、長さ4せよ。その時、直線の端と端の長さは5になる。
  あぁ、数の学の知は力強い。
  形は円いか角があるかである。数は奇数か偶数である。天は円の中を動き、それに付随する数は奇数である。地は方形に休らい、それに付随する数は偶数である。
  知を知る者は知者であるが、天を知る者は賢者である。知は影より来たり、影は グノモンより来る。

目次へ

九章算術

 中国の数学の著作の中で、古さの点で次に位置するのは、九章算術である。これは、数学に関する中国の古典の中で最大のものであり、何世紀にもわたって東洋では最も高い評価を受けてきた。著者と書かれた年代について、私たちは知らない。焚書(BC213年)後、まもなく、張蒼という名の数学者が現れ、古代の著作を集め、九章算術を編纂したように思える。それを証明する確かな証拠はないけれども、この著作は、元来、すでに述べた BC1105年に死んだ周公の命によって準備されたという伝承がある。また、BC27世紀の黄帝の統治の時代にまで遡るとずっと主張されてもいる。伝承による証言は、成立をとても早い時期においているので、少なくとも大部分は私たちが書いている時代、BC1000年以前に存在した可能性があるように思える。

目次へ

九章算術の内容

 この書物は、題名にあるとおり、九つの章からなっている。題名と章の並びは版によっていくらか異なっているが、次のは紀元2・3世紀の校訂版のもので、大体正しいものであろう。

  1.方田(耕地の面積を求める。)測量に関するもので、三角形、台形、円(1/2*c・1/2*dと1/4*cd)の面積を求める正しい公式と円の概算、3/4*ddと 1/12*ccが書かれている。ここではπは 3である。
  2.粟米(穀物の量を算出する。)割合と比に関すること。
  3.衰分(分け前を計算する。)パートナーシップと三数法(the Rule of the Three)に関すること。
  4.少広(長さを求める。)図形の辺の長さを求める。平方根、立方根も含む。
  5.商功(体積を求める。)体積に関すること。
  6.均輸(混合法(alligation))運動の問題(急使、ウサギと犬)と混合法に関するもの。
  7.盈不足(過不足算)仮定法(the Rule of False Position)とここで用いられる二つの概念についての「過剰」と「不足」の二つの用語について。
  8.方程(方程式)行列式の考えをいくらか含む連立一次方程式について。
  9.句股(直角三角形)ピタゴラスの三角形に関すること。

 これらの四つの文献は、数学の内容を含む中国の古典であり、おそらく、紀元前1000年以前に全体があるいは一部が書かれたであろう。それらは、他の古代国家で発見されたものと全く同じレベルにまで発達していることを示しており、中国が数学という古代科学の成立において先駆的な役割を果たしたことを示している。

目次へ