知識の源

 紀元前1000年までの期間というのは、恣意的に選ばれたものであり、第一章で述べられた先史時代と重なり合い、世界の一部の地域では次第に歴史時代に入っていくのであるが、他の地域では、この段階には達していない。それで、第一章で述べられるのがふさわしいような様々な事実が、この章で語られることになるだろう。しかし、完全には排除できないが、今や一般的に、数学の話の中で、人類の進化の上で推測から成り立っているものがより少なくなった、そうした時代に入っていこうとしている。
 私たちの知識の源は、もはや単なる伝承ではなく、また原始的な民族の研究からの推論も、私たちの言説にはそれほど重要な基盤となっていない。その源は、全体として、人間活動の遺物、詳しくは、実際に何世紀も年代をさかのぼることのできる銘文や写本、あるいはこうした証拠品のコピーという形のものである。

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考えられる国々

 私たちの特別な考察を正当化するための四つの国があり、その国々は、キリスト教の時代になる千年以上前から、膨大な歴史資料を豊富に残している。これらの国々は、政治的にではなく地理的に考えられたものだが、エジプト、メソポタミア、中国、そしてインドである。それぞれの国が、ぞれ自体、程度の高い古代性を主張し、それぞれの国が数学の発展の上でパイオニアであったことを主張して、民族誌学的にいくらかの統一を保っている。ある点では、それぞれの国の主張は合理的な基盤を持っている。少なくともかなりの地域で、それぞれ健康的な気候を保っていた。北から氷河の数回の下降の間に暖かい時期をはさんで--一般に氷河時代と呼ばれていることを特徴づけている下降である。--そこで、それぞれ初期の文明を発達させることができた。それぞれ、一つないしそれ以上の重要な川に沿って繁栄した。その川は、航行のため、国内に水を供給しただけでなく、歴史時代の初期の世紀の間にすでに明らかになっていた灌漑工事に、数学が粗雑な形であるにしろ適用されるための機会を与えた。氷河が後退した後、それぞれから、時の経過とともに、人間たちは北部のより爽快な気候の土地へ流入し、それとともに、初期の数学の知識の痕跡も移っていった。それはすでに神殿の中で発達し始めていた。また、好ましい土地を求めてさまよう原始的な行商人たちの間で確立された習慣の後も移動している。

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古代の数学

   人類が何万年もの間地球上に存在していたことを示す証拠はあるのだけれど、私たちの時代にまで残っているはっきりとした最も古い遺跡は旧石器時代のものである。それは、第三氷河期の後の間氷期に始まったものと思われる。私たちの時代から五万年以上さかのぼることになり、更に五万年から七万五千年にまでさかのぼることになるかも知れない。この時期の遺跡の中に、私たちは物々交換をしたり、数を数える必要があったことを示唆するような道具を見いだす。それらは、人間の知性に何らかの数字を書くという考えがひらめく何千年も前の時期になるのだけれど。これらの道具や火をおこすといった重要な手段の発見があったということは、十分高い知性を持ち、何か数という概念を持っていた確かな証拠であると私たちは単純に考えることができよう。
 私たちの時代からおよそ15000年ほど前に、中期旧石器時代が始まったと考えられている。第四氷河期のことである。この時期に私たちは最も古い芸術作品を発見し知っている。これらの作品は数の抽象的概念が明らかになった時代に世界が到達したことを確実なものとするほどの知性の発達があったことを示している。--芸術の分野で、この段階に達している今日の原始的民族のすべてから、私たちが知り得たことで判断し保証されていることである。
 後期石器時代は比較的最近のじだいであり、紀元前5000年頃のことである。この時代までには数の体系はかなり綿密に発達していた。そして、星の観察によって、かなり組織化された科学になっていた。これは、後に述べる様々な歴史的事実から私たちが知っていることである。

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記述(歴史)の始まり

 自然の鉱石と区別された金属は、紀元前4000年頃発見された。おそらくシナイ半島で。これと共に、重さや長さを測る必要性が新たに生じた。また、その頃までには、もう疑いなく古くさくなっていた交易のシステムに新たな刺激を与えた。そのおよそ500年後には、書くことが行われていたことが知られている。また、多くの人々を統治するシステムも発達し、一つの政府によって数百万もの人々をコントロールできるようになっていた。これらすべては、数体系が発達し体系的な課税を伴ったことは明らかである。紀元前3000年頃、最も古い石の煉瓦が敷き詰められた。地中海を船が航行し横断しはじめた。そして、少し後には原始的な水準測量などの測量術を含む実用的な幾何学の領域に時代は到達する。

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