五進法

 広く用いられることになった最初の進法は、五進法であった。2や3,4は、人類にとってかすかな試みにすぎなかった。人類がかなりの大きさの数を数えるための根拠が必要とされるようになるとすぐに、手の五本の指が用いられるようになった。一般に、左手が用いられ、右手の人差し指で数える物を指さしそれから指をさす。これを五本の指を数えてしまうまで繰り返し、それからまた同じことを、時々小石や棒きれを使って五つごとに印を付けながら繰り返す。ある南アメリカの部族は、一つ、二つ、三つ、四つ、手、手と一、手と二という風に数えることが観察されている。マンゴ・パーク(Mungo Park 1771-1806)は、アフリカの部族の一つに、同じような体系を見いだしているし、パラグアイのある地域では、5は「片手の指」、10は「両手の指」、20は「両手両足の指」と呼ばれている。かなり詩的な表現として、カリブの部族の一つは、10のことを「両手の子供たち」といっている。私たちのそれほど詩的でない言語でも、小さな数字(1,2,3,4,5,6,7,8,9,0)のことを digits (digiti = 指)といっている。シベリアのユカギール(Yukaghirs)族の場合のように、より原始的な進法が五進法と混同されることも時々ある。この人々は、「一、二、三、三と一、五、二つの三、もう一つ、二つの四、一つ足りない十、十」と数える。同様な進法の混同はしばしば見いだされており、実際のところ、私たち自身の言語(英語)でも、12の数字まで特別な名前を持っており、その後英語で言えば thirteen (3,10) で十進法に戻っているように思える。

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十進法

 六進法から九進法までは、ほとんど痕跡が残っていない。人間が片手の指の助けを借りて、数を数えることができるということを発見するとすぐに、両手の指を使うようになり、十進法を作り、また、手足の指を使うことにより、二十進法を み出したのは自然のことに思われる。しかし、時々、それ以外の進法の痕跡が見いだせる。アフリカの西海岸のボラン族やブラマン族が、6を底として数を数えているように。この底の名残は、南ブルターニュでも見られる。そこでは trioueek(三つの6)は、今でも18の意味で使われている。
 十進法が広く採用された一つの理由は、そうした底を使うと、数字を書くさいに、少しの数字で事足りるということである。それは、八進法や十二進法でも同じように便利である。しかし、一番重要な理由は、人間の手の指が十本であるという事実である。いつ世界がこの十進法を採用するようになったか、知る方法はないのだけれど、その[十進法が使用されている]地理的に広い領域を考えてみると、人類が全般的に移動をする以前のことであったに違いないと信ずるようになる。70以上のアフリカの言語を調べてみると、十が底としてどの場合にも用いられており、これは、直接指の本数によったものかもしれないけれども、共通の言語的起源によると考えることも同じように可能性がある。十進法の起源は非常に遅く、五進法が捨て去られたその後すぐのことである、というおもしろい説がある。この説は、ホメロスやアイスキュロス、プルタルコス、アポロニウスが数を数えるの意味で、 pempa'zein(πεμπαζειν,文字通り「五にする」の意味)という単語を使っていたという事実によるものである。しかしながら、この推測は十進法の採用をあまりに遅くとらえるので、他に知られた事実を説明できず、まじめに考える価値はほとんどない。にもかかわらず、そうした五進法の痕跡は五進法そのものは捨てられた後も長く生き残っていたことは、確かである。

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十以上の進法

 イタリアでは、初期のエトルリア人たちが十進法と二十進法を組み合わせて使っていたように思える。私たち(英語)の祖先が two score years and ten とか two score and twelve と言っていたように。しかし、ローマ人たちにとっては、十が一般的に数を数えるときの唯一の底であり、オウィディウスの詩片が証言しているように、大いなる名誉が与えられていた。

  一年とは、月が十回満月になるときであった。
  この(十という)数字は、当時大いなる名誉が与えられていた。
  ・・・なぜなら、私たちが数を数えるのに常に用いる指の数であるから。
  [Annus erat, decimum cum luna receperat orbem;
   Hic numerus magno tunc in honore fuit
   ...quia tot digit, per quos numerare solemus.
                     Fasti, III,121]

 十二進法が、世界の様々な地域で先史時代に好まれていたと信ずるに足る理由があるが、主として度量衡の関係であった。十二進法は一年の月期(lunation)の数で決められたのかも知れないが、疑いのないのは、2、3、4と言う数字によって割り切れ、単位分数を扱いやすい数字であったことだろう。これは魅力的なことであった。それが広く用いられていることは、1フットが12インチ、古代のポンドが12オンス、1シリングが12ペンス、1インチが12ライン、そして1ダースが12であることから知られる。すでに述べたように、私たち自身の(英語の)数の数え方に十二進法の痕跡が見られる。というのは、10まで数えると、数は普通の十進法の数え方をしないで、oneteen, twoteen と言わないで eleven, twelve というから。別の痕跡は、古いフリースランドの言語にも見いだせる。それは、120を twelvety(tolftich)と言う。さらに他にも痕跡はヨーロッパ各地に見られる。

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二十進法

 二十進法―the vigesimal あるいは vicenary scale―は、先史時代、まれというわけではなかった。それは、人類が裸足で生活していた時代の名残であり、その時、人類は手の指と共に足の指を使って数を数えたのである。その痕跡は、今日でもマレーの言語に見られるが、早い時期に、熱帯地方から遠く離れた世界の各地に伝えられた。ある時代、古代ケルト人に好んで用いられたことは、現代のフランス語の用法から明らかである。たとえば、80を huitante といわずに quatre-vingt(four-twenty, for four twenties)、90を nonante といわずに quatre-vingt-dix(four-twenty-ten)といったり、また120を six-vingt, 140を sept-vingt, 160を huit-vingt という言い方、また quinze-vingt という言い方があるように。さらにゲール語では51を「一、十と二つの二十」と、デンマーク語では50を「20の二倍と20の三倍の平均(すなわち (2+1/2)×20)」と、ウェールズ語では36を「二十より一と十五大きい数」と、またブルトン語では71を「十一と三つの二十」言ったりする用法に痕跡が見いだせる。ユカタン半島のマヤ文明とメキシコのアステカ文明には二十を基調とした精巧な体系があった。またグリーンランドの住民はそれほど精密な体系では全くないけれども、20を「一人の人間」、40を「二人の人間」などと表現している。同様の用法がオリノコ川流域のタマナク族(Tamaancs)の間にもあり、二十を「一人の人間」、二十一を「次の人の手の[指の]一つのように言う。その他様々に二十進法が用いられた証拠のうち、アフリカのヴェイ族(Vey)に用いられたものに触れておこう。この体系では、16は 10+5+1 というように19まで数える。その後、99まで二十という数字が主役になる。つまり、30は 20+10, 40は 2×20, 50は 2×20+10, 70は 3×20+10, 99は 4×20+10+5+4 となる。

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英語のscore

 私たち自身の言語(英語)では、score がきわめて普通に用いられ、私たちの祖先が二十を基にして数を数えるのを好んでいたことを示している。欽定訳聖書は、ほんの三世紀前、この言葉がいかに一般に用いられていたかを示しており、それ以前にはさらにいっそう口にされていただろう。この一つの例は、「アーサー王の死(Morte d'Arthur)」として知られている古代の詩の中に見いだせる。「Att Southamptone on the see es sevene skore chippes,(海に面したサウザンプトンには140隻の船がいる。)」のように。また、さらに、フランス語の影響が見られるが、1331年スコットランドの大蔵省の会計報告書の項目の中に、総計£6896 5s.5d.が次のように書かれているのが見いだせる。

     m    c    xx
     vj    viij    iiij   xvj     ij     vs     vd

 20が、かつては数えられる限界であったということが、限りなく大きな数字を表すのに"score"を使う私たち[英語]の用法から推論されるかも知れない。たとえば、"a score of times"という表現やフランス語の "vingy"のよく似た用法など。
 これと関連して、私たちは十のように数体系の基盤を形成しているわけではないのだけれど、一種の底として特別な数を使っているある民族の間に、先史時代の習慣のようなものを考えることもできよう。こうした習慣の例の一つは、"forty days and forty night"のような、40の聖書の用法に現れている。また、同様の例は、マルケサ諸島の住民(Marquesas Islanders)やハワイ人の言語の中にも見いだせる。
 原始の人類が、どの程度の数体系を持っているかと言うことは、もちろん、彼らの必要性によって決定されるだろう。たとえば、オーストラリアの原住民たちは、交易をすることがほとんどなかったので、数字の名は2,3,4だけで十分だと感じていた。また、ホッテントット族は5で十分だった。パプアの民族の中で、パライド(Paraido)族は10まで数えるが、ずっと奥地に住んでいるパウウィ(Pauwi)族は、それほど数字の必要性がないことから、5で十分であった。しかし、家畜の群を飼っていたカフィール(Kafirs)族は、百、それ以上数えることができるし、ヌビア人やアビシニア人たちは、より高度な文明を表現するのに、千あるいは百万まで、ヨーロッパの明らかな影響もないのに、数えることができる。同様の理由から、ポリネシアの言語の一つは、数千まで数の名称を持っている。ヒンドゥー人は、半ば宗教的なことで大きな数が必要であったため、ヴェーダの書物から明らかなように、初期の段階で、実際には無限ともいえる、古代の人々の中で最も広範囲に及ぶ数体系を発達させていた。一般に、数字については、原始の生活において、数字が必要になるにつれて、数学が発達したと言うことができるだろう。

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