始まり

 数学史の始まりを探ろうとすると、私たちは、私たちの使っている言葉を定義する必要に迫られることになるだろう。「歴史」という言葉はなにを意味するのか、「数学」という言葉の意味は何なのか。もし記録された出来事を語ることが歴史だと考えるならば、私たちには一つの道しか残されない事になる。しかし、歴史を人類が誕生する以前おそらく起こったであろう出来事との関連としてとらえようとすると、私たちのとる道は違ったものになる。後者の定義に従うことによって、私たちは、いわゆる先史時代を歴史の中に正しく含めることができる。この書もまた、先史時代の議論はどうしても簡単なものにならざるを得ないが、この章では、それに従うことにする。こうして、数学の歴史は、私たちが漠然と「起源」と呼んでいるあの雲に覆われた時代にその始まりを持つことになる。

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数学の意味

 私たちが「数学」という言葉を定義つけようとすると、予期せぬ制限に取り囲まれていることを発見する。この制限は、「数学」という言葉を「初等数学」という言葉に置き換えてみるとさらにいっそう明らかになる。オックスフォード辞典が定義づけているように、数学が「空間的及び数的関係の基本的な概念から様々な結論を演繹的に研究し導き出す抽象科学。」であるとするなら、厳密にいえば、数学の歴史は、人類の誕生からの歴史の中で比較的新しいターレス(B.C.600年頃)の時代からそれほどさかのぼれなくなってしまうだろう。しかし、こうした制限には満足がいくものではない。なぜなら、こうした制限が、私たちの考察から、科学の発展のあの初期の人類の(偉大な)第一歩を排除してしまうことになるから。それらこそ学生たちに非常な関心を呼び起こし、また個人の教育を考える上で価値あることなのである。
従って、このような厳密な定義を無視しより幅広い観点から、先に定義された科学が存在する以前にさかのぼって数学の創世の話をすることがよいであろう。これらの手続きをすることによって、私たちは、人類がまだ若かった時代のみならず人類が地上に姿を現す直前またさらにそれ以前の時代にまでさかのぼることができる。しかし、もし絶対零度にまで達して話を始めようとすると、混迷の迷路の中に道を失ってしまうであろうから、私たちの目的のためには、数学の起源については簡単な記述で十分であろう。

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宇宙の姿

 私たちが私たちの住んでいるような太陽系の誕生について考え、現実には測り知れない努力と苦しみの中で星雲に望遠鏡を向けるとき、大きな宇宙の形の一つが螺旋形、人類の進化の過程で、後々まで科学的に研究されなかった曲線を描いているという事実によって、印象づけられる。また、天体は、私たちが普通数学的言語で表現するさまざまな物理的法則に従い、結局、何らかのより大きい質量を持つものの周りを楕円状に動いたり、無限の果てからわれわれ太陽系に近づいてまた戻っていくように思える放物線を描いて運動しているという事実によって驚かされる。それらが冷却すると、これらの天体を構成している鉱物が、炭素分子が結びついて正八面体の形をしたダイヤモンドの結晶を生み出したり、シリカの分子が端がピラミッド状になった六角柱を形成したり、水の分子がある基本的な形[六角形]の雪の結晶になったりするような性質を獲得する。それ故、始まりにおいては螺旋状の曲線や物理学の数学的法則は至る所に存在するのがわかる。続いて冷却している天体の軌道を決定する円錐曲線が、そしてさまざまな分子によって受け継がれた数学的性質を表している正多面体、正多面体に近い多面体がくる。
 偉大な宇宙の計画の中でこれら初期の数学的な証拠を考えると、途方もないと感じる人がいると主張するのは自然である。たとえば a+b の平方は常にどこでも aa+2ab+bb に等しいことから、ここには始まりもなければ終わりもない数学的真実の一つの型があると主張することができる。こうした主張は完全に正しい。こう考えると、数学の歴史というのはこの学問に存在する法則の発見の記録、時折それを表現するのに必要なよりよい象徴(シンボル)の発明の記録と考えることができる。
 ハーバード・スペンサーは、かつて宇宙の特性を「永遠の、創造されない」ことだと語った。ー「創造にも進化にも先立つ」ものとして語り次のような印象的な言葉を付け加えている。
 「位相幾何学によって発見された驚異に満ちた宇宙の関係がいかにして存在するようになったか想像することはできない。起源も原因もなく無限の宇宙がこれまで存在し存在するに違いないと考えると、心の中に畏れおののくような感情が生ずる。」

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生命の誕生

 地球がまだ有機的な存在になる以前、螺旋状の星雲や惑星彗星の軌道、鉱物の結晶化する性質、これらすべてのことはしばしばプラトンに帰せられている「神は永遠に幾何学化する」という言葉に意味を与えているのだが、その中で数学が明らかになった時代が過ぎると、私たちの惑星に生命が誕生することで、数学の歴史は新しい興味を見いだす。私たちは、今や動植物の形状での実験の時代のように思われるもの、おおまかにおよそ1000万年の広がりがあると見なされている時代に入ることになる。そして、その最後の50万年が人類の実験の始まりに過ぎないことをおそらく示すことができよう。
 植物の生命体の中に数学的形体を示そうとすれば、ほんの少しばかり観察をすればいいだろう。例えば、植物の葉序、すなわち葉の配列やパイナップル、パンノキ、スイカの構造に見られる正多角形、シダやツタなどの葉に見られる黄金分割などに現れている。こう考えると、自然と私たちは何百万年も昔に、ある葉が、13世紀になってレオナルド・フィボナッチによって初めて表現された級数の規則に従って、茎の周りに自らを配列するようになった原因を考えるようになる。私たちはその便利な規則が関係していることを知っているが、植物がどうやってそれを知るようになったのか。私たちはこの規則と黄金分割及び1/2(√5−1)との関係を知っているし、ギリシア人によって建築や造形美術においてこれと関連した美学的法則が認識されていたことを発見している。しかし、どのようにして植物世界が生命の仕組みの中にこの原理を採用するようになったのか。最大の効率を求めて限りない実験を重ねた結果、植物の性質の中に獲得された結果なのか、それとも将来明らかにされることになる何か他の法則が関与していたのだろうか。

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数学的概念の認識

 動物生命の誕生とともに、形、数、測定といった数学的概念を認識する可能性がでてくる。この認識は人類の誕生を待つ必要はなかった。下等な動物体が唯一の地球を意識する存在であったはるか遠い過去の時代に、数を数える種、少なくとも数を数えるのとよく似たことをする種が存在したと私たちは推測している。ーこれは、今日の動物生命の研究から導かれた推測である。例えば、カササギは五つあるいは六つさえのグループ大きさを認識できるし、チンパンジーは五つが四つより大きいということを知っている。また、ある昆虫は小さなグループの大きさを相対的に認識する同じような力を持っている。算術の発達の不確かな第一歩を見いだすのはここにおいてである。
 私たちの数学的な概念は下等な動物とある類似性を持っているが、それは数の領域に限られたものではない。蜘蛛は巣を作るときに正多角形と相似形との両方を認識しているように思えるし、蜂の六角形の巣穴を作るときには最大最小の法則に従っている。二地点の最短距離は直線であることを知らないほど愚かな獣はいないし、ほとんどの鳥は巣の左右対称形の原理を観察できる。長い時間をかけて植物界と同じように、動物界も経験から学び最も有効なものを習慣的に獲得し、その結果、非常に様々な幾何学的形態を見せている。その中のいくつかは蜂の巣のように高度に洗練されたものである。いつどこで何の影響のもと、エペイロスは、はるか昔、初めて彼女の織物を織るときに対数の螺旋形を描くようになったのか、誰がいうことができようか。アンリ・ファーブルが問うたように、「複雑きわまりない夜の単なる夢ー我々が一つ一つ読み解いていくように投げ捨てられた深遠な謎なのだろうか。」

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人類の誕生

 人類が誕生することによって、数学は自らをいっそう意識的に表す機会を得る。これは、世界の普遍的言語である美術に、窺い知れないものを窺おうとする我々の努力の表現である宗教的神秘主義に、そしてそれほどではないにしても商業、戦争、田園生活の用途に現れる。これらの人間の関心のそれぞれが、特に装飾的な美術は幾何学の正しい認識へと、特に宗教的神秘主義と商業が数の発達に貢献した。そしてそれぞれが建築と天文学の興味を生み出すのに寄与した。

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