Louis Armstrong,Fletcher Henderson, Benny Goodman, Glenn Miller
さて、ニューオリンズが古くからの港町で売春が大っぴらだった頃、市の助役であるシドニー・ストーリーという人はこのままでは町全体が乱れると心配しこの売春宿を町の一角にまとめて遊郭をつくった。そしてこの一角をストーリーヴィルと名づけた。この繁華街はカフェやキャバレー、ダンスホールも同時に混在しジャズはこの一角で演奏されていたのである。後に合衆国が第一次世界大戦に参戦するようになるとニューオリンズは軍港になり、全ての兵士がこの港から出征するようになった。1917年海軍長官の命令でこのストーリーヴィルが閉鎖されると、Jazzも沈滞し、仕事を求めて多くの演奏家達が北部のシカゴへ移住するようになった。
ルイ・アームストロング(1900-71/7/6)もその中の一人である。彼は1900/7/4ニューオリンズはジェーン・アリーに生まれ、子どもの頃非行に走り、収容された少年院でコルネットを習った。出所後トランペットを学び生地ニューオリンズでデビュー。後、シカゴに移りキング・オリバーの楽団で活躍した。彼はまたトランペットのみならずトロンボーン、サックス、ピアノとあらゆる楽器を駆使し、他の手本となり、24年に独立しフレッチャー・ヘンダーソン・バンドに参加、頭角を現す。25年初のリーダー作、これを機会にホット・ファイブ・ホット・セブンで多くの名作を残している。
時はフランクリン・ルーズベルト大統領に代わり、大恐慌、禁酒法発効など荒れに荒れ、ギャングは蔓延りシカゴのJazzはこれまでのスィートミュージック全盛のディキシーランド・ジャズやアーリー・ジャズから一変しはじめるのである。
フレッチャーヘンダーソン楽団で編曲を行っていたのがドン・レッドマンであるが彼はルイのトラッペトスタイルをブラスやサックスのセクション・プレイに割り振った。この事によりルイは今日使われるさまざまな音楽語法の元となる言語を生み出し彼の創案は後のソロイスト、アレンジャーの両方に多大な影響を及ぼしたとされている。しかし、フレッチャー・ヘンダーソンもこの時代には数少ない大学出の黒人ピアニストで、楽譜出版社を経て黒人向けレコードの草分け「ブラック・スワン」の音楽監督、ピアニストとして多くの吹き込みに関わり、23年ダンス・バンドを結成している。特に編曲に力を入れ、ルイ・アームストロング、コールマン・ホーキンスといったソロイストを起用、ビッグ・バンド編成の原形を作ったとも言われる。その後不況に勝てず職を失いバンドを解散、使っていた譜面を全て売り渡してしまったという話は有名。このルイ・アームストロングの商業的成功はドンやヘンダーソンの存在に依る処が大きいかも知れない。
また、チャーリー・パーカーもアームストロングの弟子であったとされているがバスター・スミスであるという記述もある。いずれにしろコールマン・ホーキンス、ロイ・エルドリッジ、レスターヤング、チャーリー・パーカーらに与えた影響は大きい。
さて、ニューディール政策が効果を現し、大不況から脱出し始めると世の中は近代化の時代に入り、ラジオが普及し、Jazzもニューヨークへ波及するようになった。そして景気の回復と共に大規模なダンスホールなどで全盛期を迎えたのがスイングミュージックである。このスイング黄金時代の口火を切ったのがベニー・グッドマン(1909-86)。彼は前述のヘンダーソン楽団の楽譜を譲り受け演奏すると大ヒットし、「スイングの王様」とまで呼ばれるようになる。しかし、ヘンダーソンもグッドマン楽団に演奏してもらう度にアレンジャーとして紹介され、後、グッドマン・コンボでピアニストとして死ぬまで参加している。グッドマンは死ぬまで彼の面倒を見ていたという人もいる。また人種差別のうるさい時代にベニー・グッドマンはピアノのテディー・ウイルソン、バイブのライオネル・ハンプトン(また才能あるピアニストであり、ドラマーでもある)といった優秀な黒人を他のバンドに先んじて自分のコンボに入れ共に演奏した。後にアーティー・ショーやトミー・ドーシーも黒人のソロイストをバンドに加えベニーグッドマンを真似るようになる。ベニー・グッドマンの生い立ちは シカゴの貧しい家庭に生まれ教育を同市の福祉施設で受けている。10歳でクラリネットをはじめ4年足らずで地元のダンスバンドで演奏。93年に自己のバンドを結成。ベニー・グッドマンの偉さはこういった環境から来ていたかも知れない。
この頃、殆どの白人バンドが黒人アレンジャーの譜面を使っていたようだ。そして黒人は常に白人の陰に隠れ表立った活動が出来ない、或いは容易に認められないそんな時代でもあった。しかし、黒人バンドも負けてはいなかった。一流どころはニューヨークやハーレムのホール、劇場で活躍していた。カウント・ベイシーが率いるアンサンブルは彼らが演奏する度にグッドマンやその他のミュージシャン達を夢中にさせた。その頃全盛だったアレンジ過剰のオーケストラからスモールバンド的なアプローチサウンドは斬新で、これまでのオーケストラ世界に吹く新風でもあった。ルイ・アームストロングも32年には初渡欧し、その活動を世界に広げている。そしてヨーロッパにJazzを紹介し、ダンス・ミュージックに過ぎなかった初期のJazzを音楽、芸術としてデューク・エリントンと共に認めさせる最初の人となった。また「サッチモ」(英国のジャーナリズムが命名。がま口、大口の意)の愛称で多くの人に親しまれ、ユニークでユーモア溢れるスキャットは後のエラ・フィッツジェラルドにも影響を与えている。
第2次世界大戦(1941/12/8)が始まり物資が不足してくるとアメリカでも色々なものが規制され、廃止されたり、また課税も増えた。新品楽器の販売禁止。ダンスにも25パーセントという高率戦時特別税がついた。今までのように踊ったり騒いだり出来なくなると世の中のあちこちにあったダンス・ホールがクローズした。メンバーに召集令状は来るわ、戦死するわ、バンドの移動も容易に出来なくなってしまったのである。その中で最も人気のあった楽団がグレン・ミラー(1904-44)オーケストラである。彼もまたバンドを解散すると自らが志願陸軍将校として戦地へ赴いた。彼は大学卒業後ダンスバンドやスタジオなどでトロンボーン奏者として活躍。入隊後42名の陸軍航空隊バンドを編成。43年、44年に従軍兵士慰安の為の前線向けラジオ放送に出演し活躍した。1944/12自分が操縦する小型機で悪天候の中、パリへ向かう途中消息不明となる。
後の映画「グレン・ミラー物語」の中では「茶色の小瓶」「ムーン・ライト・セレナーデ」など彼の数々の作品と共に感動的なラスト・シーンを見る事が出来る。44年クリスマス。ミラーの家族と全米がラジオの前で待っていた。消息を絶ったが遺体は発見されずクリスマスには帰ると言い残し霧の空に消えて行ったグレン・ミラー。あのサックスとクラリネットの独特のミラーサウンドは今尚多くの人々から愛されている。


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