Creole
History Of West Indiesという本の中にはこのクリオールは、初めスペイン本国で生まれたスペイン人と西インド諸島で生まれたスペイン人を区別するためクロロス(Crollos)という言葉が使われていたとある。また16世紀ラテンアメリカでヨーロッパ人の子孫を先住アメリカ人や黒人移民と区別するためにも使われていた(Encyclopedia)と別の資料にもある。こういった背景からアメリカのルイジアナ地域で居住するフランス人がこの言葉を取り入れる際にその発音をクリオール(Creole)と改め彼ら自身や彼らの持ち物を指す時に使用された言葉である事は確かなようだ。そしてこのクリオールという言葉は18世紀までにCreole Of Colorという用語でアメリカ全土に広まり、単に白人と黒人の混血(Mulatto)を指すようになったものである。当時ブラック・コード(黒人奴隷取締規制1724年)により黒人達が苦難の生活を強いられていた中でこのクリオールの地位は白人よりも下だが黒人よりは上というある種独特の意識を保っていた。またこの地位はあいまいなもので白人の父親が死ぬまでの間、殆どの場合Mulattoと呼ばれ、この子ども達は母親との奴隷の地位を分かち合っていたようである。しかし、大抵のMulattoは白人の裕福な家庭で正しい躾やフレンチ・スクールという所で教育を受け、白人世界のさまざまな利点を身につけていた。そういったクリオール達は奴隷の地位に甘んじている事も出来ず彼ら自身で貴族社会(アリストクラシイ)を作り上げて行く。その為かニューオリンズに出たクリオールは1800年 代中頃までに、かなりの富を築いていた者も少なくなかった。
1894年、これまでのクリオールに過酷な条件が強いられる事態が訪れる。これまでの150年余りの白人と似たような生活から如何なる特権も禁止する新しい法案がなされ、彼ら達も徐々に有利な仕事を取り上げられて行く事となる。このクリオールの地位の変化は音楽面においても大きな変化を齎し、1890年代中期のラグ・タイム誕生に深く影響を与える事となる。(資料Eric Kriss Barrelhouse & Boogie Piano)