19世紀初期
[ロシア解放運動の3段階][19世紀第一四半期の政治的社会的状況][教育と文化] [19世紀第一四半期の文学における階級闘争][文学傾向の論争][ロマン主義] [В.Аジュコフスキー(1783-1853)の作品][バッラーダ][「ズヴェトラーナ」][ジュコフスキーの意義] [К.Ф.ルィレーエフ(1795-1826)の作品][「成り上がり者へ」][「市民」][詩「ナリヴァイコ」] [詩作品][リアリズム][文学言語発達の問題に関する論争][芸術]
[目次]
ロシア解放運動の3段階
論文「ゲルツェンの記憶(Памяти Герцена)」の中で、В.И.レーニンは、次のように書いている。「ゲルツェンを讃えながら、私たちはロシア革命で運動していた3つの世代、3つの階級を明らかに見ている。先ずは、貴族と地主貴族、デカブリストとゲルツェン。これらの革命家達のサークルは狭い。彼らは民衆からひどく遠いところにいる。しかし、彼らの成し遂げたことは消え失せなかった。デカブリストたちはゲルツェンを目覚めさせ、ゲルツェンは革命的運動を広めた。 雑階級知識人の革命家たちは、それを取り上げ、広め、強化し鍛えた。チェルヌイシェフスキーから始まって「民衆の意志(Народной воли)」の英雄たちで終わるまで、闘士たちのサークルは広がり、彼らと民衆との距離は近づいた。「若い未来の嵐の舵手(Молодые штурманы будушей бури)」--ゲルツェンは、彼らをこう呼んだ。しかし、これは、まだ嵐そのものではなかった。 嵐、それは民衆自らの運動だ。唯一の最後までやり遂げる革命階級であるプロレタリアートが、彼らの先頭にたって初めて、何百万人もの農民たちに開かれた革命闘争へと高められる。最初の嵐の到来は、1905年であった。以下のことが、私たちの眼前で成長し始める。 ロシア解放運動で活動した3つの主な階級を示しながら、レーニンは、ロシアで革命運動が通過した3つの主要な段階を定めている。 レーニンはこう書いている。「ロシアでの解放運動は、おおよそ 1825年から 1861年まで運動に目星をつけ、ロシア社会の主な3階級と一致した3つの主要な段階を通過した。1) 貴族の時代、およそ 1825年から 1861年まで。2) 雑階級知識人のあるいはブルジョワ民主主義の時代、およそ 1861年から 1895年まで。3) プロレタリアートの時代、1895年から現在に至る。」 すなわち、およそ 1825年から 1861年までのロシア文学--これは、貴族のロシア解放運動の時代である。この時代、レーニンの意見によれば、最も優れた活動家はデカブリストとゲルツェンであった。19世紀の初めの四半世紀に、デカブリストの社会が生まれ成長した。デカブリストたちの思想は、ロシア解放運動の最初の時期のすべての進歩的文学にその刻印を刻んだ。
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19世紀の第一四半期の政治的社会的状況
19世紀初め、ロシアの生活では、私たち祖国の極めて長い歴史にとって、最大の意味を持つ記念すべき出来事が起こった。1812年、祖国戦争が始まった。ナポレオンが侵略者としてロシアに侵入した。ナポレオンとの戦争は、ロシアにとって生活のための戦いという側面が十分にあった。それは民衆の戦争であった。祖国への熱烈な愛の感情が広範な民衆を捕らえた。 「その村も、私たちが近づくと焚き火あるいは要塞に変わった。(Ксждая деревня превращалась при нашем приближении или в костёр, или в крепость.)」--後になってフランス人たちは書いている。 ナポレオンは疲労困憊した。彼は、自らの軍隊と皇帝(ツァーリ)アレクサンドルの軍隊の数量を計算して戦争の計画を立てた。しかし、彼との戦争にはすべてのロシア民衆が立ち上がった。すなわち、ロシアの民衆が、称賛を浴びていた軍の指揮官に強力な一撃を与えたのだ。 祖国戦争は、民衆の力を目覚めさせ、民衆の自覚と愛国的精神との高まりを呼び起こした。 「12年は、ロシアの生涯で偉大な時代であった。(Двенадцатый год был великою эпохою в жизни России)」--とベリンスキーは書いている。「ナポレオンとの死を賭けた張りつめた戦いが、ロシアのまどろんでいた力を目覚めさせ、自らの中に、その時まで思いもよらなかった力と方策とを見いださせた。(Напряжённая борьба насмерть с Наполеоном пробудила дремавшие силы России и заставила её увидеть в себе силы и средства, которых она дотоле ... не подозревала.)」 ロシアから敵を追放した後、農民や兵士たちは、農奴法の廃止を期待した。デカブリストのА.ベストゥジェフ(А.Бестужев)は、ニコライ1世に宛てた手紙の中で、1812年の祖国戦争での兵士たちの志気についてこう語っている。「まだ戦争が続いているときに、民兵たちは家に帰ると、先ず、民衆の階級であることにさんざんに不平を言っている。「俺たちは血を流したのに」--彼らは言う--「俺たちは、再び労働で汗を流さなければならない。俺たちは暴君から祖国を救ったのに、俺たちはまた主人たちに苦しめられる。(Ещё воина длилась, когда ратники, возвратясь в дом, впервые разнесли ропот в классе народа: 《Мы проливали кровь, -- говорили они, -- а нас опять заставляют потеть на баршине. Мы избавили родину от тирана, а нас вновь тиранят господа.》)」 農奴制擁護者や政府は、そうした農民の気分にひどく驚かされた。政府の反動(少しでも進歩的なすべての人の迫害)が強化された。無学で残忍な農奴制賛同者である陸軍大臣アラクチェエフ(Аракчеев)がそれを指揮した。 アレクサンドル1世の外交も反動的になった。ナポレオンへの勝利のあと、まもなく、ロシアとオーストリアの皇帝が中心となって、革命運動との戦いのため「神聖同盟(Священный союз)」が作られた。アレクサンドルは「神聖同盟」の活動に熱中し、ヨーロッパの解放運動の鎮圧者としての役割を演じた。 このアレクサンドル1世と政府の反動政治は、進歩的貴族たちのサークルにおいてだけでなく、圧力を受ける農民の側からも決定的な反発を招いた。 農民たちは、1812年以降、強化されていた地主貴族による搾取に、暴動一揆で答える。これらの暴動は、すべて残忍なやり方で鎮圧された。しかし、民衆の反乱は止まず、国中に広まった。村だけでなく都市でも起こり、軍隊の中にまで浸透した。こうして、1820年に、近衛兵シェミョンスキーの部隊が蜂起する。それは、部隊の司令官と将校の残忍な拷問によって、その反乱は公然のことにまでなった。 専制と農奴制度に反対する強い運動が、貴族の知識人の間に生まれる。1812年の戦争は、貴族地主階級の間に深い思想的亀裂を生じさせていた。最も教育がある進歩的貴族たちは、秘密の政治結社を組織し、1825年12月14日の武装蜂起で終わる活動を始めた。 デカブリストの作家、А.ベストゥジェフ(А.Бестужев)は、1812年の祖国戦争がデカブリズムの発生に与えた影響について次のように語っている。「ナポレオンがロシアに侵入したとき、その時にロシアの民衆は、先ず、自らの力を感じ、また、すべての人々の心に中に、独立(自主)の感情、先ず政治的独立、後に民衆の(独立)という感情が目覚めた。これがロシアの解放の始まりである。(Наполеон вторгся в Россию, и тогда-то руссий народ впервые ощутил свою силу; тогда-то пробудилось во всех сердцах чувство независимости, сперва политической, а впоследствии и народной. Вот начало свободомыслия в России.)」 一方、ロシアの農民一揆と西ヨーロッパの19世紀20年代の解放運動の影響の下、この自由思想は発展し強まった。 デカブリストたちは教養ある人々であった。彼らは、ロシアや西欧の革命的進歩的政治的文学のことを知っていた。 秘密の「結社(общество)」を生んだ人々に、単一の政治的プログラムがあったわけではない。大多数の「北の結社(Северное общество)」は、制限を加えた君主制を支持していた。「南の結社(Южное общество)」は、共和政体の統治形態を支持した。しかし、デカブリストたちすべては、専制と農奴制への憎悪という面で一致団結した。彼らは皆、政府の国内外の政治を激しい批判に曝していた。 デカブリストたちの反乱は、壊滅させられた。指導者たちは絞首刑にされた。多くのデカブリストたちが反乱の時に殺された。残りの者たちは、強制労働あるいはカフカスなど前線に追放された。デカブリストたちは、革命へと民衆大衆に呼びかけることを決心せず、ただ、自らの指揮官に兵士たちも従うだろうと計算して、将校だけに頼り、反乱の時に必要な決断をしなかったために粉砕された。しかし、デカブリストたちの思想は、多くの同時代人の創作の中に入り込み、進歩的作家たちによって取り上げられ、彼らの作品に影響を及ぼした。デカブリストたちの運動、専制・農奴法に対する戦いは、痕跡がなくなったわけではなかった。
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教育と文化
19世紀の初め、ロシアでは多くの最高教育施設、カザンやハリコフ、その他の都市に大学が開かれる。ペテルブルグには、教育研究所(専門学校)が創立され、1819年に大学に改組され、1811年にはツァールスコセクスキー貴族学校(лицей)が開かれた。これらの高等教育施設は、文化と教育との著しい発祥地となる。それらのところで、文学サークルが発生し雑誌を刊行する。非常な活気が文学の分野に現れる。多くの雑誌がペテルブルクやモスクワだけでなく、ハリコフやカザンその他の都市で出される。これらの雑誌は、保守主義者と進歩的思想の人々との間に起こった論争を反映している。文学と言葉の問題の活発な議論が起こり、文学傾向の争いが起こる。 1812年の戦争の後、反動主義者たちは政府の同意の下、大学を襲う。 学問に対する攻勢がカザン大学から始まり、そこでは、1819年の審査の後、危険人物という罪で11人の教授が罷免された。 ペテルブルクやその他の大学でも、最も有名な教授たちが追放された。検閲による圧力は強くなった。検閲官は、しばしば、それらが全くないところにさえ、政府や宗教に反対する発言を見いだした。進歩的なテーマの著作、ましてや革命的政治的傾向を持ったものは出版することは許されず、それらは手書きで広まった。自由を愛するプーシキンの小詩、グリボエードフの「知恵の悲しみ(Горе от ума)」、デカブリストの詩人たちの小詩や詩が手紙でやりとりされた。
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19世紀第一四半期の文学における階級闘争
19世紀初めの民族の自覚の昂揚、階級闘争の高まり、社会政治思想の発展は、文学においても論争を呼び起こした。 多くの重要な問題について激しい議論が行われた。現実と文学の関係について、ロシア文学の民族性と独自性について、民衆の口承作品、西ヨーロッパの文学とロシア文学との関係について、文学の傾向について、言語について。 文学活動の指導者の中に、秘密のデカブリストの集団のメンバーや、自らの政治的文学的観点から、彼らに参加する人々がいた。それは、К.Ф.ルィレーエフ(К.Ф.Рылеев)、А.ベストゥジェフ、А.オドエフスキー、В.キュヘリベケル(В.Кюхельбекер)、А.С.グリボエードフ、А.С.プーシキンなどであった。 デカブリストたちは、芸術文学に大きな意味を付け加えた。彼らは、そこに、専制農奴制度に対する戦いの手段の一つとして、強力な社会的力を見ていた。デカブリストたちは、農奴制を暴き、英雄的人物を称賛する市民の詩や革命的政治的内容を十分に含んだ詩を創造した。デカブリストたちの考えでは、詩人は市民であるだけでなく、社会の意見を創り上げる人でもある。そして、自らの詩の言葉のすべての力を、自由への、奴隷と専制に対する戦いに捧げた。 デカブリストたちに特に愛されたジャンルは、諷刺詩、叙事詩(物語詩)(поэма)、頌詩であり、好まれたテーマは、--反乱、暴動、民衆運動、外国の敵とのロシア民衆の戦いというテーマであった。例えば、ルィレーエフは、自らの「ドゥーマ(Дума)」の中で、伝説のノブゴロド人、自由への戦士、ヴァディーム(Вадим)、ディミトリー・ドンスキー(Димитрии Донский)、スサーニン(Сусанин)などを称賛している。 自らの政治的観点を守る保守的な作家たちは、読者たちを現実の生活から目をそらさせようと、彼らを夢、夢想の世界へと導き、狭い個人の心的体験の世界に閉じこめようとした。 進歩的な人々と反動的な人々との戦いは、イギリスの詩人バイロンに関して、大きな力で広く広まった。その名(バイロン)は、当時、政治的社会的圧政に対して大胆に行動する詩人の名としてヨーロッパ中に轟いていた。保守的な傾向のジュコフスキーは、バイロンについてこう書いている。「彼には、なにかひどく恐れさせ圧倒させるような魂がある。(В нём есть что-то ужасающее и стесняющее душу.)」 デカブリストたちはバイロンに有頂天になった。 しかし、イギリスの詩人への熱中は、祖国の土壌から詩人・デカブリストを発掘はしなかった。真の愛国者、デカブリストたちは、独自の国民文学の発展が欠くべからざる必須の条件であるとみなした。この重要課題の解決は、ロシアの民衆の作品への文学の接近にあると、彼らは見た。彼らは、怒って、保守的な作家の間に広まっていた西洋文学、フランス文学やドイツ文学の模倣を攻撃した。
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文学傾向の論争
ロシア文学史において、この時まで、19世紀第一四半世紀におけるほど、一度としてその中で戦い、互いに影響を及ぼしあう多くの文学傾向が現れたことはなかった。ロシア古典主義は、その市民的なテーマ、高められた文体で生まれ人々を惹きつけた。それは、例えば、ルィレーエフ、プーシキン、その他の詩人たちの初期の詩の中に現れている。 古典主義は、保守的な作家たちを宣伝したが、彼らは根本的な社会悪の批判を許さず、芸術によってあらゆる人生を美化することを要求する。 19世紀の最初の10年の文学傾向で目立つのは、センチメンタリズム(主情主義)であった。すなわち、この時代に、作家グループ、カラムジンの追従者たち、が現れる。彼らの中に、若いВ.А.ジュコフスキー(В.А.Жуковский)、И.И.ドミートリエフ(Дмитриев)のような詩人が現れる。しかし、センチメンタリズムは、そのテーマの狭さと現実から遊離していると言う理由から、文学での指導的な大きな傾向として成立し発展することはできなかった。 19世紀の次の10年の間に、新しい文学傾向--ロマン主義が定着する。
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