此処彼
(ココア)
cocoa breake
二宮金次郎
橋の欄干にある両端の柱には、道路の起点を背にして、左側には橋名、右側には河川名、道路の起点に向か
って左側に、ひらがなで橋名、右側には、落成年月を記したプレートを附けるのが一般的である。
相馬市を流れる宇多川に架かる清水橋の欄干の柱には、御影石に、至誠=A勤労=A分度=A推譲≠ニいう刻字があった。
(関心)
至誠≠ニ勤労≠ノついては、なんとなく知っているように
おもい、分度≠ニ推譲≠ノついては、よく知らないので、調べ
てみた。(疑問)
分度≠ヘ、収入に見合った支出、推譲≠ヘ、余った金や物を自分の将来や人のために譲る。というようなことを知った。
それを知って、「それがどうしたの。」との思わずに、此処
で探求してみた。
二宮尊徳の御仕法(二宮仕法)、徳を以って徳に報いる。
徳目、至誠=A勤労=A分度=A推譲
ということであった。
伝統のある小学校の玄関横には、背負子で刈り柴を背負い、本を読みながら
歩んでる姿の少年の石像、二宮金次郎≠ェあった。
明治時代に、はじめに建てた
のは、銅像
で、台座には「二宮尊徳像」という銘板があったようだ。
昭和十六年に「戦争物資動員の日」と称し、各家庭から金属
類の供出を呼びかけた。
積極的に供出するものとして、
塀、門、柱、門扉等の、鉄と銅。
自発的に供出するものとして、火鉢、置物等。
昭和十八年には、寺院の仏具、梵鐘等が強制供出を命じたので、小学校の二宮金次郎像も、そのころに供出をさせられ、そして、その代替として石像になったものである。と親から聞いたことがある。
入学した小学校
の玄関横にもあって、転校した先の小学校の玄関横にもあったので、どこの小学校にもある
石像だと小学生ながら知っていた。
同期生には、自分の通っている小学校だけにあると思っている者もいた
し、母校の二宮金次郎の銅像が一番大きいと信じていた大人も多かった。
大人も小学生のときは、だれもが体が小さかった。
現今の小学校の玄関横に、二宮金次郎像を見ることが稀であるが、あったほうが学校らしい雰囲気と感じている。
仙台で、高校の場所へ迷い込んだら、部室の影に二宮金次郎像を見つけ、まじまじと見てきた、あったとしてもこの待遇である。
二宮尊徳像どころか損得勘定であろう。
少年の道徳欠如と少年犯罪には、関係がないのかと思ってしまう。
偶然、いわきで、その高校が母校だったという人にあったので、「二宮金次郎像が、校庭の隅の運動部部室の影になんで建てたのだろうね」と聞いてみた。
「そんなところにありましたか、わたしらが高校に通っていた頃は、玄関横にありました」という。
きっと、この高校は、小学校の跡に建てた校舎だったと思った。
近頃の女子高校生、二宮金次郎のスタイルで、リックを背負い、携帯電話で、メイルを必死に見たり、親指姫になったり、二宮ケメコがいっぱいだ。
このまま、女子高校生が、携帯電話の画面ばかり見ていると、それによって、交通事故が増加の一途を辿るのではないかと、気がめいる。
二宮尊徳が、江戸時代に、背負子で刈り柴を背負い、本を読みながら歩んでる姿の少年≠ナあったというのは、本当かな、疑問をもっているが、あのスタイルでも、交通事故が起きなかったことは、確かである。
にのみやそんとく【二宮尊徳】
江戸末期の篤農家。通称、金次郎。名は尊徳(たかのり)。相模の人。
徹底した実践主義で、神、儒、仏、の思想をとった報徳教を創め、
自ら陰徳・積善・節倹を力行し、殖産の事を説いた。
六〇五ヶ町村を復興。(1787〜1856)
広辞苑第五版(1998.11.11発行)から
入学した小学校 の玄関横にもあった、転校した先の小学校の玄関横にもあった。どこの小学校も 石像だと思っていたが、しかし、焼き物だった。
金次郎さんは、何を読んでいたのだろうと思っていたが、のっぺらのページを開いている像だった。小さいときには、下からしか見えなかったので、カバーしか見えなかった。
新潟市万代橋付近街角で 仙台市の高校の隅で
小学校の跡だったのだろうか。