20世紀に入ると、レコード・ラジオといった新しいメディアが急速に発展していきます。1920年ごろまでには、都会にはもちろん、南部の山奥に至るまで、こうした文明の利器は広がっていきました。距離が離れた演奏者達が互いのバンジョーやフィドラー(バイオリン)の音色に接すること珍しくなくなり、太平の眠りを覚ますテクノロジーの大波が伝統的な音楽の形態までも一変させようとしていました。
ちなみに、19世紀末にはすでに商業録音が始まっていました。しかし、南部の伝統音楽までは、なかなかお鉢が回ってきませんでしたが、メジャーのレコード会社がやっと重い腰をあげるようになったのは、各地で行われたフィドル・コンテストのおかげです。そのコンテストから生まれたフィドルのローカル・スター達が地方のラジオ局に出演するようになったからです。
最初にレコーディングされたのが、1922年ニューヨークで、そして1923年ジョージア州アトランタでのフィドル奏者の録音がなされています。そのレコードを出したオーケー・レーベルのレコーディング・マネージャーであったラルフ・ピアという人物が1920年に黒人女性シンガーメイミー・スミスを起用して、初のブルース・レコードを作っています。
1926年から36年にかけてヒルビリー系の録音を収めた「ホワイト・カントリー・ブルース」には全編ヨーデルという感じの、ブルーグラスの父と呼ばれるジミー・ロジャースの影響を受けた歌声が多く入っているようです(ジミー・ロジャースの音源はあります)。
20年代にはブルースのレコードも大量に録音されたようです。テキサス・アレキサンダーは27年。デルタ・ブルースのチャーリー・パットンは29年。同じくサン・ハウスは30年。わずか数年の間に、オーケー、コロンビア、パラマウントといったレーベルから、レイス・レコードの名の下にたくさんのブルース・マンがデビューを果たします。レイス・レコードというジャンルもヴォードビルからブルースまで、広い範囲を包括する間口の広いものだったようです。ちなみに、「ヴォードヴィル」は、本来はフランスの「通俗喜劇」で、19世紀後半にアメリカに伝わります。これも既存の「ミンストレス・ショー」に取り込まれ、より規模の大きなバラエティーショーへと発展したと思われます。ちなみに、ミンストレス・ショーが地方を回る一座とするなら、ヴォードビルは都市の常設小屋で演じられるショーというイメージでしょうか。
上述したオーケー・レーベルのレコーディングマネージャだったラルフ・ピアという人物、黒人向けの音楽を扱う「レイス・レコード」というジャンルを考案したり、ブルース方向でも重要な仕事をした人物ですが、それにもまして、カントリー・ミュージックの発展に対する貢献度も高いのです。「ヒルビリー」「リズム&ブルース」といった名称をひねり出したのもピアだといいます。相当、冴えた人だったようですね。
蛇足ながら「ヒルビリー」とは本来、南部の山岳地帯に住む田舎者を指す言葉ですが、音楽ジャンル名としては田舎風の音楽全般をさします。この手のレコードが続々レコーディングされるようになることで、それらを包括する概念が必要となり、こういう名称を思いついたようです。「ヒルビリー」は、のちに「カントリー」と名を変えます。
さて、本格的な商業レコーディングが始まった1920年代は、様々なスタイルの音楽がいっせいに花開いた黄金期です。その頃を「大騒ぎの20年代」、と呼ぶそうです。しかし、その絶頂期も29年には株価が暴落し、一転して底なしの不況時代に入り、レコード市場も急激に冷え込み、レコーディングの機会を失ったミュウジッシヤンも多かったようです。おそらく演奏の場も減ったことでしょう。
フィドル奏者などは1939年にレコード会社に連絡を取ったところ「もうフィドル・ミュージイシャンはうけない」との理由で、レコーディングを断られたといいます。再びフィドル奏者が脚光を浴びるのは、30年近くあとのフォーク・リバイバルの時代まで待たなくてはなりません。
08/4/3/3:00/