ミシシッピー・デルタの農園から生まれたと言われるデルタ・ブルースは、どう考えても都会の音楽とは言い難い。これに対して、シカゴやセントルイスのブルースは、明らかに都会の音楽です。何しろシティ・ブルースという言葉があるくらいですから。とはいえ、そのバックボーンともいえる南部ブルースの存在も、無視することはできません。
南北戦争の結果、黒人奴隷が解放されて、それでめでたしめでたし、となったわけではありません。奴隷の解放は、南部諸州で制定されたいわゆるジムクロウ法(人種隔離法)にみられるように、逆に新たな黒人差別を生みました。
自由人になったことで、かえって生活が困窮し、農村を捨て、都会に出て働く者も現れた。こうした混乱の中で求められたのが、黒人としての自覚をうながす音楽だったのでしょう。大規模農園ワーク・ソングは、やがてブルースにたどり着いたのだと思います。ブルースが初めて記録に登場するのは1903年ごろのようです。
南部田舎で生まれ育ったブルースは、黒人労働者の移住とともに、北部にも広まっていきます。そしてゴスペル、ジャズなどにも影響を与え、やがてリズム&ブルース、さらにはロックへと発展していくことになります。もしブルースが南部の民俗音楽にとどまっていたなら、その後の展開はなかったにちがいありません。ちなみに、最初のジャズのレコードは1917年にニューヨークで録音されました。演奏したのは、オリジナル・デキシーランド・ジャズバンド。イタリア系の白人バンドでした。
移民国家アメリカの音楽が形作られていく過程で、ヨーロッパやアフリカから渡ってきた文化がどのような役割を果たしたかは、とにかく次々とやって来る新しいパワーを取り込むことで、アメリカの音楽は発展し続けることができました。イングランド系を筆頭に、アフリカ系、ケルト系、ドイツ系、フランス系・・・などの移民が、多くの実りをアメリカ・ミュウジックにもたらしました。
19世紀末になると移民の性格に、大きな変化がみられるようになります。1870年代以降、南欧や東欧からの移民が目立つようになりました。イタリア、スペイン、ポーランド、チェコなどから来たこうした移民を、西欧、北欧からの移民と区別するため、「新移民」と呼びます。1870年代から1920年代まではまさに、移民の時代です。
これ以降は、移民制度が始まります。1890年代には、新移民の方が圧倒的に多くなります。とくに1900年代には、イタリアの不況の影響で大量の移民が押し寄せます。その数は、アイルランド飢饉や、ドイツの内乱に伴う1880年代のアイルランド系、ドイツ系移民を上回るほどでした。
その新しい移民たちは、新しい文化をもたらしました。イタリア人が持ち込んだ楽器の一つがマンドリンです。イタリア移民増加とともに、アメリカに空前のマンドリン・オーケストラ、ブームがやってきます。大手楽器メーカーギブソンの発展もこのマンドリン・ブームのおかげといわれています。
マンドリン・オーケストラ・ブームは、1920年代のテナー・バンジョーブームにも直結しています。おそらくマンドリン・オーケストラ・ブームがなければ、デキシーランド・ジャズやラグタイムの歴史も変わっていたといわれます。
スペイン戦争が勃発し、ハワイが併合された1898年も、音楽に大きな意味のある年です。ギターが本格的にアメリカに普及するようになったのは、このスペイン戦争以降だと言われています。また、ハワイ併合に前後して、ハワイアン・ミュージックも知られるようになり、ハワイアンがブルースやカントリーに与えた影響も、もっと注目してもいいのではないでしょうか。
2008/3/26/2:10/