「ポピュラー音楽のルーツ・その4」

 アメリカの初めての本格的な音楽エンターテイメント、ミンストレル・ショー、このミンストレル・ショーの芸人には実は、アイルランド系が多かったようです。これには、アイルランド人が踊りや音楽が好きで、性格が芸人向け、という理由もあるかもしれませんが、それだけではなく、当時の社会情勢も大きかったようです。つまり、1840年代というのはアイルランドの大飢饉の影響で、カトリックを信仰するアイルランド系の移民が急増する時期でもあります。アメリカにやって来たのはいいが、すぐありつける仕事といえば、男は人足、女はメイドといった、いわゆる非熟練労働がほとんど。そして住むところといえば、スラム街。ほとんど黒人奴隷とさほど変わらない立場でした。

 ブラック・フェイスのアイルランド人が、黒人を演ずるという構図は、弱い立場の者が、さらに弱い立場の者をダシにして生きのびようとする皮肉な状況を浮かび上がらせます。これを人種差別として非難するのはたやすいのですが、事はそう単純でもないようで、アイルランドのミンストレル芸人達が黒人からバンジョーや踊りを学んでいた事実、それにアイルランド移民の当時の状況を考え合わせると、彼らにとっては主流派の白人(いわゆるワスプ・白人アングロサクソン・プロテスタント)よりも、むしろ黒人奴隷のほうが近しい存在だったようである。

 ミンストレル・ショーの全盛は長く、黒人ミュージッシャンもミンストレル・ショーの舞台に出演するのは南北戦争後、南部の黒人が奴隷から開放されてからです。その間、音楽的スタイルもかなり変わり、ジャズ風味のポップ・ミュージックもありで、むしろヴォードヴィリアンと呼んだ方がしっくりいきそうな感じにもなってきました。

 こうした変化も伴って、黒人音楽も独自の進化を遂げていきます。そう意味においては、ラグタイムやジャズも、ミンストレル・ショーが育てた音楽といえないこともないです。

 さて、1回目に述べましたが、ポピュラーソングの先駆者といわれる、フォスター。「おおスザンナ」「草競馬」「故郷の人々」「スワニー川」「なつかしいケンタッキーのわが家」、まだありますが、とにかく、多くの歌で日本でも親しまれてきたスティーヴン・フォスター(1826〜64)は、歌をつくるのを職業としたアメリカで最初のひとです。

 彼は北部に属するピッツバークに生まれ、のちにシンシナシティに移り、最晩年(といっても30代後半だ)は、ニューヨークで過ごしました。ところで、フォスターは最初のヒット「おおスザンナ」は、アラバマからルイジアナへ出かけた、という歌詞だし、「故郷の人々」に出てくるスワニー川はフロリダ州にある。いずれもアメリカ南部の地名だ。

 19世紀における工業発展の基盤となった北部の二つの町に育ったフォスター。同じころ南部はプランティーション(大農園)で黒人奴隷に強制労働させて綿花、タバコなどの農業が主体だった。そんな奴隷制度に対する批判がようやく盛り上がり、アメリカが大揺れになったそんな時期に、フォスターは生きた。南部の奴隷農園を直接体験したことがないのに、奴隷制度をめぐる南部と北部の対立が戦争にまで高まろうとしていた時期に、彼はあえて南部の黒人を主題とした歌を作った。アメリカ社会の現実の中で生きている歌を書こうとしたからこそ、フォスターは20世紀ポピュラー音楽の先駆者と言えるのです。

 そのフォスターつくった歌は、19世紀半ばから後半にかけてのアメリカの芸能のミンストレル・ショー、それと切っても切れない関係がある。簡単に言えば、ミンストレル・ショーとは白人が黒人に扮しておこなう歌入りコミック演芸である。つまり、顔を黒く塗った白人の芸人達が歌ったり踊ったり、ギャグで笑わせたり、バンジョーの早弾きで盛り上げたりするヴァラエティー・ショー、といったとろこか。フォスターは、ミンストレル・ショーが大好きで、9歳の頃劇団に入ってミンストレル・ソングを舞台で歌ったくらいだ。歌を作るようになると「おおスザンナ」を始め多くを、ミンストレル・ショーの芸人達のために歌ってもらうために書いたのだ。ちなみに、彼は晩年、「金髪のジェニー」のようなパーラ・ソングも書いています。しかし、現代に続くポピュラー・ソングのルーツになるのはやはり「おおスザンナ」「草競馬」「オールド・ブラック・ジョー」のような、ミンストレル・ショーのために書いた曲です(ディランも70年代最初のアルバム<ニューポートレイト?<本当はセルフ・ポートレイト>ジャケットが自筆の子供が書いた絵みたいなの>でミンストレル・ショーというタイトルの曲を歌っています<でも、ぜんぜんうけなかったみたい>)。

次回は「ニューオリンズ」についてお話します。08/3/22/3:35/