西洋風の賛美歌から黒人固有の宗教歌への変化は、ゆっくり進んでいったようだ。黒人の宗教歌といえば何といってもゴスペルを挙げなくてはいけないが、実はゴスペルも起源をたどると白人宗教音楽から分かれたもののようです。南部の白人のゴスペルを「大衆の賛美歌」(セイクリッド・ソング・フォーク・ヒム)などと呼んで黒人のゴスペルと区別することがありますが、この二つの差異が明確になったのは早く見積もっても19世紀後半、ブルースの成立などを考慮すると、実際には20世紀に入ってからではないかと思われています。
黒人ゴスペルが明らかに変容してくるのは1920年代以降。この頃になるとブルースやジャズの影響をもろに受ける。1930年代はよりブルージィーな方向へ、そしてアカペラ・カルテットが全盛期を迎えるのが40年代から50年代、その一方で、ギターやベース、ドラムを加え、リズム&ブルース的な志向を見せるグループも現れ、こちらはやがてロックンロールやソウル・ミュージックといった大きな流れと接することになります。
さて、アメリカの黒人奴隷制策は、アフリカの伝統文化を弾圧することから始まったようですが、多くを否定される中、弦楽器のバンジョーと、集団で唄う「ワークソング」は白人支配層にとって好ましいものであった様で、むしろ積極的に奨励しています。ワークソングの特徴は、一人のリーダーが音頭を取り、残りの全員がこれに答えるコール&レスポンス(掛け合い・レイチャールズのワットアイセイなんかそうかな?)と呼ばれる歌唱スタイル。こうした集団のかけ合いが、作業のリズムに適していたので歓迎されたと思われます。
南北戦争以前に、南部のプランティーションを訪れた人々は、こうした黒人達のワーク・ソングに心を動かされたようです。とはいえ、南北戦争以後、黒人奴隷が廃止され、南部の大規模プランテーションが分割されたことで、ワーク・ソングが徐々に衰退に向かい始める。これに代わって黒人労働者の間に広まったのがフィールド・ハラー(農園の叫び)です。フィールド・ハラーはコール&レスポンスの「レスポンス」の部分がなくなった、いわばソロコールで、これがブルースの原型になったとも言われます。ちなみに、このワーク・ソングの伝統を守り続けたのが刑務所だといわれています。
さて、少し時間を戻して、今度はヨーロッパから渡ってきた歌についてお話しましょう。
イングランド・スコットランド起源の「バラッド」は、移民とともに海を渡り、早くも17世紀には歌われていたようです。有名なところでは、サイモン&ガーファンクルでおなじみの(ディランの北国の少女も)「スカボロフェアー」も、本来はイングランドのオールド・バラッドです。バラッドにはゴシップや事件やらといった時事ネタを扱ったプロードサイド・バラッド。現代の日本でいえば、主婦向けワイド・ショー番組みたいな機能を果たしていたと思われるもの。ブロードサイド・バラッドに比べると、もうちょっと上品なのが「パーラー・ソング」パーラーとは自宅の居間でく口ずさまれるような家庭向きの歌のイメージ。有名なところでは「ホーム・スイート・ホーム(埴生の宿)」そして「オールド・ラング・ザイン」これは蛍の光、ですね。
パーラー・ソングが流行したのは19世紀になってからだと思われますが、1830年ごろには、パーラー・ソングの人気に押されてブロードサイド・バラッドは北部では廃れていきます。バラッドの伝統は南部でひっそりと生き残ります。
さて、アメリカの初の本格的な音楽エンターテイメントと言えるのが、「ミンストレル・ショー」です。ススで顔を黒く塗った白人が、黒人風の芸をするというミンストレル芸は、サーカスの出し物の一つとして、1830年代にはすでに人気を博していたようです。それについては次回お話します。08/3/19/11:30/