「ポピュラー音楽のルーツ・その2」

 移民国家アメリカ、独立戦争も終わり、戦後処理も一段落した1790年、連邦政府が行った第一回国勢調査によると、先住民を除いた総人口は約398万人。最大勢力が、やはりイングランド系で全体の五割。その次がアフリカ系の黒人および自由黒人で、これが二割弱。同じく二割程度が、ブリテンおよびアイルランドのケルト系、アイルランド系、スコットランド系、ウエールズ系が含まれる。そのあと続くのがドイツ系、オランダ系、フランス系。

 この頃、ケンタッキー、テネシー、ミズリー、アーカンソーあたりはまだ開拓が進んでいない地域で、当時の感覚では西部ということになる(西部劇の西部です)。ここは零細農家が多く、黒人奴隷も少なかった。ケンタッキー、テネシー、ノース・キャロライナ、ヴァージニアといった地域のアパラチア山脈周辺の開拓地には、スコッツ・アイリッシュをはじめとするケルト系諸民族が入植していきました。

 ルイジアナを含む、中央低地の広大な土地がフランスから譲渡されたのは1803年、さらに1818年にはカナダとの国境が確定、翌年19年にはフロリダ半島をスペインから買収と、合衆国の領土は急速に広がっていった。アパラチアとルイジアナと並ぶもう一つのルーツ・ミュージックの温床、テキサスの併合はもうちょっと遅くて1845年まで待たなくてはなりません。

 ここで頭にとめておきたいのは、アパラチアへ移植したスコッツ・アイリッシュが19世紀半ば以降にニューヨークへやってくるアイルランド移民とは、まったく素性の異なる人々だということ。アパラチアのスコッツ・アイリッシュが殖民したのが18世紀。彼らはスコットランドの伝統文化をアメリカへ渡る時も色濃く残していた。事実彼らの姿勢は南北戦争の時代まで変わることがなく、ご先祖様から受け継いだ伝統をひたすら守り続けてきた。

 ところで、スコッツ・アイリッシュによって、アパラチアに持ち込まれた楽器に、おもにフィドル(バイオリン)だった。ギター、バンジョーといった楽器がアパラチアに伝えられるのは、未だ先のことだ。

 ここでスコッツ・アイリッシュの補足を・・・・スコッツ・アイリッシュ系というのはもともとスコットランドに住んでいた人々で、その後アイルランド北部移住を経て、アメリカにやってきた人々。当時ケルト系移民の中では最大勢力で、ケルト系の4割でした。彼らの子孫は、アメリカの伝統音楽が成立していく過程でも非常に重要な役割をになっていくことになる。

 スコッツ・アイリッシュほどではないにせよ、ドイツ系の割合も多い。これがオランダ系、フランス系になるとずっと少なくなる。ただし、ルイジアナ(ニューオリンズ)の買収は1803年なので、そこに住んでいたフランス系移民は先ほど述べた段階ではまだ統計には含まれていない。

 地域的にみると、最も人口密度が高かったのは、ニューハンプシャー、ヴァーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカットといった、いわゆるニューイングランド地方、その名が示すとおり、ほとんどがイングランド系。同じ北部でも、ニューヨーク、ニュージャージィ、ペンシルバニアは様々な民族が住み着く。イングランド系よりドイツ系、ケルト系の割合が多くなる。また、ニューヨークのハドソン川流域とニュージャージィ北部では、オランダ系の移民が独自の文化を育てていった。その何よりの証拠に、そもそもニューヨークは「ニューアムステルダム」と呼ばれていたくらいだ。

 これに対して、メリーランド、デラウエイ、ヴァージニア、ノースキャロライナ、サウスキャロライナ、ジョージアといった南部諸州は、アフリカ系の比率が高い。いわゆる奴隷州でした。

 さて、アフリカからつれてこられた黒人奴隷がキリスト教へ改宗すると、黒人専用の教会を設けられるようになりました。差別側の思惑はともかく、黒人教会が設立し、白人教会から分かれたことで、黒人独自の宗教音楽が発展していく環境は整いました。

 とはいえ最初のうちは黒人教会で説教をしていたのは白人の牧師だったろうし、そこで歌われる宗教歌も、メロディーも当然西洋のものを踏襲したと思います。西洋風の賛美歌から黒人固有の宗教歌への変化はゆっくり進んでいったようだ。

参考文献「いずれ」08/3/18。