「ポピュラー音楽のルーツ」

 20世紀の百年、ポピュラー音楽の時代、ポピュラー音楽こそ時代に生きてきた大衆の心を映す鏡だった。これを見つめることで歴史の基底が明らかになると思う。

 さて、ポピュラー音楽を作りだすのは特定の音楽家の才能だとしても、その音楽家はいわば大衆の代弁者、つまり大衆の聴きたい音楽を作り出す者でなければならない。その音楽家と大衆を結びつけるのが、商品市場です。音楽家の作り出す音楽が商品として市場に流通し、大衆に受け入れられることで初めて成立するところに、ポピュラー音楽の本質があります。だからもちろん市場経済の存在が前提であり、ポピュラー音楽は市場経済、マスメディア、大衆社会が完成した20世紀特有の現象なのです。

 しかし、大衆に受け入れられる、とは要するに、売れる、ということであって、それは具体的に市場に出した後の結果にすぎないが、それが音楽作りにフィードバックされ、売れる音楽を作ろうとすることで、音楽家は大衆と、別の言い方をすれば社会と、もしくは時代と大きな循環運動の中で一体となる。そこで常に言われるのが、ポピュラー音楽は売らんがための大衆に迎合した低俗な音楽を作りがちだ、と言う問題です。

 しかし、大衆は一度だませても、いつまでもだまし続けることはできません。大衆迎合の姿勢はやがて大衆に背を向けられる結果を招きます。だからこそ、その危ういスリルがポピュラー音楽の魅力であり、それがあるからこそポピュラー音楽は、長い目で見て大衆の心を映す鏡といえるのではないでしょうか。

 ポピュラー音楽の先駆者は、フォスター「おお、スザンナ」「草競馬」「故郷の人々(スワニー川)」「懐かしいケンタッキーのわが家」のど多くの歌で日本でも親しまれてきたスティーヴン・フォスター」彼が生きたのは1826年から1864年。彼は歌を作るのを職業としてアメリカで最初の人だそうだ。しかし、フォスターが生きた時代はようやく楽譜出版という商売が形を整えつつある段階で、レコードはまだ存在しませんでした。だから、フォスターはとても苦労したようで、37才の若さで亡くなっています。

 商品として売るために作られた歌がポピュラーソングといえるでしょう。歌以外の楽器演奏の曲なども含めるなら、商品として売るために作られた音楽がポピュラー音楽と言うことになります。アメリカは音楽の商品化と宣伝、販売のノウハウを開発することで世界をリードしました。そんななかで、アメリカが創造した全く新しい音楽でまず挙げるとするなら、やはり「ジャズ」といえるでしょう。しかも、ジャズはただ新しい音楽であるだけでなく、若者達にとって、新しいライフ・スタイルでもあったのです。ジャズが切り開いたその方向の延長線上に、20世紀半ばになってアメリカの生み出したもう一つの新しい音楽「ロック」が出現しました。

 よく知られているように、ジャズはニューオリンズと言う町で生まれました。ここはアメリカの中で特異な背景を持つ町です。イギリスの植民地から独立した東部諸州と違い、ミシシッピーの流域はもともとフランスの植民地で、19世紀の初めになってナポレオン三世がアメリカ合衆国に売り渡したのだが、その中核都市ニューオリンズは、あとあとまでフランス文化の名残をとどめています。  その一つが、フランス人と黒人との間の混血児達の存在です。彼らは独自の社会階層を成しており、ヨーロッパ的な伝統への強い愛着を抱いていました。他の地域では黒人として扱わねばならない混血児達が、この町ではフランス領の頃から慣習として白人に近い地位を容認されていました。

 さて、スペインとフランスが交互に統治してきたルイジアナ地方は1803年、アメリカの領土になったものの、その玄関口にあたる港町ニューオリンズの文化は、あらゆる国の文化の混血と言っても過言ではありません。人種も種々雑多で、フランス人、イギリス人、スペイン人、そして先ほど述べました黒人とフランス人の混血の「クリオール人」です。ニューオリンズではクリオール人は白人と見なされ、黒人達を優越感に満ちて見下していました。1850年頃、クリオールの繁栄は絶頂期に達し、子弟を父なる国フランスに留学させ、中にはそのままフランスに住みついてしまう者も多くいたといわれます。一種のエリート階級で、子供達にはヴァイオリンやピアにを習わせて、音楽教育をほどこす商人などの金持ちが多く、金を出し合って10人編成の交響楽団まで養成したといいます。成功に乗り遅れたクリオールでも、靴屋、床屋、洋服屋といった職業につき、中産階級の生活を送っていたと言われます。  しかし、南北戦争が南軍の敗北に終わりましたから、奴隷解放が施行されると、地位の上がった元奴隷の黒人と、転落した黒人クリオールは共に肩を並べて労働者として、工場へ行く身分になりました。

 さて、フランス文化の名残で、繁華街を練り歩くブラスバンドは町の名物になっていました。賃金労働者として余暇ができた黒人達は白人ブラスバンドが金になるのを見て、彼らもバンドを作った。そのバンドの中には正規に音楽教育を受けたクリオールが一人か二人いて、演奏を指揮しました。初期のすぐれたピアニストの多くはクリオールと言われています。

   「黒人音楽がヨーロッパの白人音楽と交じり合ってジャズを生んだ」とも言われますが、人種差別がきびしかったアメリカで、白人と黒人が共演する機会はありませんでした。現実は転落のクリオールがヨーロッパ音楽の仲介者となったのです。

 不思議なスイング感をもつ黒人ブラスバンドは、ホールに雇われてはダンスバンド、町の中ではブラスバンドとなった。白人達もあわてて黒人ブラスバンドのまねをするようになりました。これがジャズ音楽の始まりといわれています。

 1920年代半ば、農業中心から工業中心という産業構造の変化によって、南部の農業地帯から黒人労働者が大挙して北上、住み着いたシカゴの黒人居住地区でも、ピアニストを中心とする「家賃パーティ」が行われたが、ニューヨークの都会派黒人と違い、ブルースピープルと呼ばれた彼らは、ピアノをブルースブギウギスタイルで弾きまくり踊りました。ジャズという新しい音楽を生み落とす背景は社会の激動の中で文化の衝突だったとしても、ジャズの土台となった音楽的要因として、ブラスバンド、ラグタイム、そしてブルースが重要です。ハーモニーなどはヨーロッパの理論を取り入れたと思われます。ちなみに、ラグタイムは19世紀の最後頃から20世紀初頭の十数年にかけて全米で流行した音楽で、ジャズの本によればこれをピアノの音楽として説明していますが、元来は様々な要素を融合したダンス音楽と見られます。しかし、やはり音楽としてのジャズの本質を決定づけたのはブルースです。

 ブルースは19世紀後半のどの時期かに、ミシシッピー州かテキサス州東部あたりのどこかで、ギターを爪弾いて歌うような形で成立しました。宗教音楽やダンス音楽と違って、ブルースは本来一人で口ずさむ孤独な歌だから、自分でギターを弾きながら歌とギターを対話させるような感覚で演奏する。そのギターのパターンは様々で、それぞれの工夫で自分のフレイズを作り出す。そういった工夫が後々ジャズに生かされて、アドリブの感覚を磨くのに寄与したと考えられ、黒人音楽としてのジャズの内実はブルースを核にして形成されたと言えます。まずその一人が、ルイ・アームストロング(サッチモ)。メロディをくずす、そのくずし方をアドリブと言いますが、そのアドリブの感覚と技法を完成したのが黒人トランペッター、ルイ・アームストロング(1900〜71年)です。

 ジャズは自己表現のための音楽といわれますが、もう一つ、ジャズは音楽様式というより演奏方法論だという点です。最初に発売されたジャズ・レコードは1917年にニューオリンズ出身の白人バンドが演奏する「ワンステップ」ダンス音楽です。レコードとして商品化された1917年のジャズレコード、当時のSPレコードにはどんなすぐれたジャズ演奏であっても、「フォックス・トロット」といったダンス音楽としての種別が必ず表示してありました。つまり、聴くための音楽であるジャズとしての商品化されたのではなく、ダンス音楽として売られたのです。

参考文献・中村とうよう著「ポピュラー音楽の世紀」

 というわけで、まずは挨拶代わりに、中村とうようさんの文章から引用抜粋させてもらいました。これは、わたくしが「いまからポップスのルーツを探るぞ」という表明でございます。60年代にどっぷりとポップスに使った思春期の時代。いまでも60年代から離れられない、しかし、それだけではいい年をして芸がありません。それでは、ということで、その60年代ポップスのルーツ、いや、アメリカの音楽のルーツを探ろう、と今は思っているのです。というわけで、次回からはアメリカの成り立ちからお話したいと思います。