「はやすぎたウスケ」

 ウイスキーのブレンドは不思議なもので、新しいモルト同士の場合は

当然のこととして、古いモルトと古いモルトを混ぜ合わせても結果は必

ずしもよくないのである。

 ところが、古いものに新しいもの、たとえば十年ぐらい熟成した原酒に

五年前後の比較的新しいものをブレンドすると、新しいものが古いものに

同化してうまいウイスキーができる。しかし、その時は新しいモルトしか

なかったのである。

 無理からぬことであるが、当時の日本にはコンパウダー(混合者)の知

識はあっても、ブレンドや熟成の体験的な知識はなかった。古い原酒がな

いためブレンドすることにも難しかったという理由はあるが、他方ではウ

イスキーを商品としてはやく出さねばならないと言う情勢もあった。

 だからこの時は、まだ理想的ブレンドをしたウイスキーとまではいかな

かったが、とにかく昭和四年四月一日、初めて本格ウイスキー「白札サン

トリー」は世に出たのである。

 発売価格は一本三円五十銭であった。ジョニー・ウォカーの赤が五円の

時代である。

 その後、普及品の「赤札サントリー」を出したが、いずれも売れ行きも

評判も良くなかった。

 まだ早すぎたのである。

 鳥井がウイスキーに寄せる期待と情熱、その要望にこたえようとした政

孝も一生懸命であったが、宴会と言えば日本酒ばかりで、夏はともかく、冬

ともなればビールも顔を見せない時代で、誕生したばかりのウイスキーなど

相手にされなかった。

 売れないから当然原酒が残った。

 だがこの時残った原酒は十年後の歳月が流れて十分に熟成するとともに、

立派な原酒に成長したのである。


「十二年目に独立のために退職」

 山崎工場で最初に仕込んだ原酒、つまり大正十四年、昭和の初め頃の原酒

が熟成して古い原酒として一人前になったのは、伏見の宮殿下が山崎工場を

ご見学になった昭和六年頃である。

 殿下は海軍武官として英国に三年駐在されたことがあるだけに、ウイスキ

ーには詳しかった。政孝にもいろいろ質問された。

 この時鳥井は、これまでの苦労が報われるような喜び方だった。

 昭和六年八月、満州事変が起きる一月前に、政孝は三回目のイギリス行き

のため日本をたった。

 この時は、鳥井の長男吉太郎が寿屋の後継者として必要な知識を得るため

にウイスキーや、ぶどう酒の本場を視察するための案内役としての旅行であ

り、政孝個人にとっては、妻リタの帰郷旅行を兼ねたものであった。

 欧米を回って日本に帰ってきたのは翌七年の二月であった。スコットラン

ドの蒸留所も、そこに住む人たちの静かな生活も昔のままであったが、DC

Lは英国の五大ウイスキーの中で最後まで残っていた「ホワイト・ホース」

まで傘下に入れていた。そしてDCL中心のスコッチの現代史がすでに始ま

っていた。

 日本では、本格ウイスキー造りは始めての事業で第一歩を踏み出したばか

りであったが、寿屋のビールは「新カスケード・ビール」を出したが、この

時ビール各社一本三十三銭に対抗して、一本二十九銭と言う値段で市場に送

り込んだ。そして昭和五年「オラガ・ビール」と名前を変えた。

 オラガと言う言葉は、その当時の流行語の一つであった。総理大臣をやり

政友会の総裁であった田中義一大将が、自分のことを「オラガ、オラガ」と

いっていたのが、この言葉は当時の庶民感情とマッチして流行していたので

ビールの名前に採用したのである。

 オラガ・ビールは一本二十七銭とさらに値下げするとともに、広告と販売

に攻勢をかけた。

 しかし、安かろう悪かろうと言う世間一般の考え方も災いして、売り行き

は思ったほど上がらなかった。

 昭和八年、ビール業界の正常化が叫ばれ、関西では「ユニオン・ビール」

が朝日麦酒に合併され、関東では「オラガ・ビール」の買収の話しが持ち上

がってきた。

 それと前後して、政孝のところへは工場拡張工事の命令がでた。

 実は、政孝はビール部門も任されていたのだ。

 そこで大林組に拡張の見積もりをやらせ、拡張が決定して、基礎工事にか

かっている最中に麦酒共同販売(後の東京ビール)に工場と企業のいっさい

の売り渡しが決定したのである。

 売り渡し価格は二百五十円で、当時としては大変高く売れ、寿屋にとって

は有利な取引となった。

 しかし、工場を大きくする計画と仕事に日夜続けていた工場長の政孝にと

ってショックであったことは言うまでもない。

 政孝もそろそろ四十歳になる。独立しようかと固く決意したのはその時だ

った。とはいえ、鳥井とは喧嘩別れではなく円満退社したのであろう。

 もともと契約は十年の約束であったし、政孝はつねづね自分でウイスキー

づくりをしたいと思っていたので、その期限が来た昭和七年に退社したいと

申し入れていたのが、保留されていたのだった。

 とにかく、あの清酒保護の時代に、鳥井なしには民間人の力でウイスキー

が育たなかっただろう。

 そしてまた、鳥井なしには政孝のウイスキー人生も考えられないことは言

までもないだろう。

(ウイスキーと私・竹鶴政孝著より)