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その6・なぜ天皇は神(カミ)になったか?


僕は不思議でならないのだが、天皇制と呼ばれるものが、日本人にとってそれぞれ皆異なる概念であるらしいことだ。その異なり方はまた個人のうちにおいても分裂的に現れる。一億人の天皇観があるだけでなく、さらに無数の天皇観がある。つまり未だに定まらず、あるいは定まらないかのごとくあるメタファー(修辞で隠喩)こそが日本人の天皇観だろう。「ペルソナ”三島由紀夫伝”猪瀬直樹著より」


 さて、とうとう渡らなければならない重要な橋のたもとまで来てしまった。日本の日本人のカリスマ、それはもちろん『天皇』である。これは誰が何と言おうと疑いのないことである。ヨーロッパなんぞでは皇帝であろうと革命により亡き者にしている例が幾つかあるらしいのだが、日本では島送りはあるようだが、武士の時代と言えども天皇を亡き者にしようとするものは存在しなかった(あるんですかね?)。これはいったいどうゆうことなのだろうか?武士のルーツが皇室だからなのだろうか(秀吉も家康も、義満だって皇室のルーツである源氏・平家にこだわりましたね)?

 これについては機会があればお勉強したいと思いますが、とにかく『天皇』は幕末に復活した。じゃあ、それまでは、江戸時代は『天皇』はどうしていた(どうされていたか)。そこのところを参考文献により、前回書き記したことを思い出しながら、つまびらかに出来ればいいかと思います(前回検証なんて言いましたが、冗談です(ーー;)。

 さて、明治になった頃、『天皇』は東京(もとは江戸)において全く不人気であった。江戸市民は、江戸が東京なんて言うものになったことに不満だった。「明治」を治(おさ)まる明(めい)と逆さに読んだりした(治まるまいとね)。

 江戸城の前の狆(ちん・犬の)の絵に、「江戸城は狆(朕)には大きすぎる」と讃(さん)をいれた錦絵がベストセラーになった。政府から招待されて日本にやってきたドイツの医師ベルツ博士は、天長節(天皇の誕生日)の日に国旗を揚げる家がないのをみて、「これほど自分たちの君主にたいして不敬な国民は見たことない」と言って呆れた(ベルツ日記より)。

 人々はそれにも飽きたらず『天皇』を中傷する「阿呆だら経」をつくって『天皇』をバカにした。尊皇主義の権化のような政府は、必死になって『天皇』を人民にPRしたが、あまり効果はなかった。江戸時代から明治になったその頃、人々は『天皇』と言う存在についてなにも知らなかったからである。

 それゆえ、新政府のなすべき最初の仕事は「天子様とは何か」、これを人民に教えることであった。それでは、どのようにして天皇は神(カミ)となったのか。

 天皇は、当初、少しも大多数の民衆の中には浸潤していなかった。

では、明治の指導者はどうしたのか?

 日本の国をまとめ上げるにはキリスト教国のように神と言う「絶対」に近い存在が不可欠だった。そのため政府の意図として、明治天皇は地方に巡幸されたのだった。しかし、それは成功とはあまりにもかけ離れたものであった。一応、国民は天皇を一種の”神様”として受け入れた。それで成功したと言えるか。とんでもない。「神」と言う意味が全く誤解されているからである。立憲政治の機軸としての天皇は、キリスト教的(カルケドン信条・これについては”15をごらんください)現人神でなければいけない。イエスキリストのような人でありながら神でなければならない(Godではないようですね)。

 しかし、地方巡幸で民衆が天皇に見た「神」は、それとはほど遠い神だった。それは、原始神道的な素朴きわまりない神であった。

 ひとくちに「神様」といっても、啓典宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)における唯一絶対神とは違う。日本の神は八百万(やおよろず)の神のうちの一柱(ひとはしら)にすぎない。我が国には「神」といっても、ピンからキリまである。

 本来、「天皇」は皇祖公宗(こうそこうそう)とならんで、主神の一柱でなければならない。稲荷大明神などの神様にも正一位(しょういちい)と言う高い位を授ける「より上位の最高神」でなければならない。それでこそ、キリスト教の絶対神と同じに立憲政治の機軸となりうるのである。そこで奔走したのがあの有名な明治の元勲なのである。後編に続く

 参考文献・小室直樹「日本国民に告ぐ」クレスト社より。

[その7でーす] /welcome:

その7・後編

 天皇とは不思議な存在である。多分、極東の島国で隔絶された場所にあるからだろうが、同じ島国でもイギリスとはえらい違いだ。でも、ひょっとして我が国の神話時代にはイギリスのように(1066年、ノルマンディー公ウイリアムは、アングロサクソン人が治めるイギリスに攻め込む)他民族に征服されているのかも知れませんね。まあ、とにかく神話時代より我が国の皇室は綿々と続き、現在に至っている。これは世界史でも希有なことではないだろうか(ヨーロッパは国の支配者同士の血縁関係がある)。それはなにゆえなのか?鎌倉幕府から徳川幕府までの武士の時代、朝廷は権力の中枢から遠ざかり政治上の実権はほとんどありませんでした。しかし、天皇の権利は江戸時代でも残っており、幕府はそれを反対勢力に利用されることを非常に恐れていたようです。そこで、天皇や公家に領地をあたえて朝廷を敬う態度をみせていたようだが(所司代を置いて見張っていたのだが)、そこまで実力もない天皇及び朝廷を恐れた理由はどこにあるのだろうか?それがこの国のなぞだと思うのだが、そのなぞはきっと神話時代に隠されているのではないかと思うのだけれど、古事記・日本書紀は読むのに難渋するのだ。

 さて、伊藤博文らの維新の元勲等の神に対する考えはまことに慧眼(けいがん・洞察力)たらしめることではあったが、日本人民はその様には受け止めてくれなかった。そんなありがたい神様だと言われたものだから、天皇が入浴したあとの湯を飲んだり、治病の薬として使ったりするものが多かった。しかし、この参考文献の著者は、「こんな神様は淫祠邪教(いんしじゃきょう)のたぐいと切り捨てるのだ。

 こんな「天皇」をして赫然(かくぜん・はっきりと)たる大日本帝国天皇とした契機は、まず、日清戦争の大勝であった。

 有史以来、中国は、日本人にとって「ギリシア兼ローマ」であり、「世界そのもの」であった(これは決してオーバーではなく知識階級の少なかったその時代、民衆は本当に驚いたと思うよ)。なにせ、中国こそ世界そのもの、何が何でもその頃の日本は中国かぶれさえすればよかったのだ。

 天皇と天皇の軍隊はカリスマはいやがおうにも沖天した(空高く舞い上がった)。

 奇跡である。何が宗教をつくるか、イエスキリストを思いだしてみたまえ、奇跡なのである。日本国民は、「天皇が神である」と言うこのの意味をやっと理解した(西尾先生とは見方は違いますが)。天皇は、断じてそんじょそこらの「天王」のたぐいの「神」ではない。宇宙の最高神である。カルケドン信条におけるがごときキリスト教的神である。

 「何が王冠をあたえるか。戦場の勝利である」これは現在の平和な世の中の価値観では計り知れないものがあるが、その時代は白人至上主義のまっただ中、むべなるかなである(いや、いまでもそうなのだよ)。

 とにかく、その時代、「天皇」は絶対君主となった。そこへ、青天のへきれきのごとく、突如として三国干渉。ロシアが音頭をとっているのは明白である。日本は涙をのんで三国(ロシア、ドイツ、フランス)の要求をいれ、血であがなった遼東半島を中国に返した。日本は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)。明治35年(1902)、西の横綱英国と軍事同盟を結ぶ。

 日清戦争当時と比べれば、5倍以上強くなった陸軍の実力。それでも、ロシアの軍事力とは比べものにならない。海軍はロシアの4割、陸軍は1割ぐらいである。日本がロシアに勝てるなどとは誰も考えつかなかった。しかし、ロシアは満州だけで満足しないで、朝鮮に入ってきた。朝鮮征服は時間の問題だ。朝鮮がロシアのものになったら次は確実に日本が侵略される。

 日本は存亡を賭して戦わないわけにはいかなくなった。ただむなしく手を束(つか)ねて併呑(へいどん)されてしまうくらいなら全滅するまで戦わなくては。恐露病にかかっていた伊藤博文でさえ、遂に覚悟を決めた。日露戦争は、日本人ばかりでなく世界中の軍事専門家でさえ日本の勝利を予測するものはいなかった。

 しかし、いざ開戦すると日本軍に都合のよいことが後から後からと起きて日本は負けるはずの戦争に勝ってしまった。あまりの奇跡の連続に、日本軍のトップまでが仰天した。司馬遼太郎氏の小説で有名な秋山真之(さねゆき)中佐(のち中將)は、奇跡の連続に感激し、いや、空恐ろしくなって「発狂」したとさえ言われている。のちに、仏門にはって宗教家になった。

 もし、もしも、現在の我々がこのような経験をしたならば、その時代の人々が「日本は神国だ」と信じたことに侮蔑な心をもてるだろうか。どうも現代人は、今の価値観で昔の人を判断するきらいがある。現代に一つの(普遍的と思える)価値観があるように、その時代はその時代の価値観がある。好い悪いの問題ではなく、歴史はその様に流れているのである。もし、すべてがお見通しのこの世なら、争いごとは起こらないだろう。ただ、現代はその歴史を踏み台にし理想を描けるのだ(と言いつつ、バブルのあの体たらくは、やはり人間は経験が一番薬なのでしょうか?それじゃ又戦争は起こりますよ)。

 とにかく東の大国ロシアに勝ったのである。かくて、「天皇」は「現人神」である証(あかし)をつくったのである。奇跡が宗教をつくったのである。明治のはじめに、一部の尊皇家だけのものであった尊皇思想は、ここにいたって成就した。日露戦争の奇跡は、天皇教のもとに国民を再統一した。日露戦争で日本が勝ったことは、アジア、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の人々に多大な影響を与えた。

 それまでは、有色人種は絶対に白人に勝てないと言う神話がはびこっていた。いや、確信にまでなっていた。それなのに日本がロシアに勝った。

 孫文もガンジーも、うれしさのあまり思わず飛び上がった。日本が勝てるなら我々だって白人に勝てないわけがない。そう思った。すなわち、アジア、アフリカが独立を決意したのは、日露戦における日本の勝利がきっかけであった。

 しかし、周知の通り、50余年前に、日本はアメリカに負けた。そして、日本軍の栄光の否定、さらに「日本軍は犯罪者集団である」と喧伝され、現在子供達にも教えられているという。これだけのことでも「日本人全体が犯罪集団になり果てるのに充分な急性アノミーを起こすのだ」、と著者は我々に滔々と語りかけているのであった。

「カリスマのルーツを探せ」・・・終わりですが、付録もどうぞ!。

 小室直樹・日本国民に告ぐ「誇りなき国家は、必ず滅亡する」より。

付録と言えど卓見です。ぜひ、お時間があればお読み下さい。

 さっそく始めます。

 日清・日露から次の戦争を経て今日まで日本は一貫して他国を侵す犯罪の道だけを歩み、利己的で、傲慢で、その愛国心は不健全をきわめ、明治以後我々は道を誤り続けた、と言う言い方がひとつ存在する。

 その反対に日清・日露から大東亜戦(太平洋戦争)を経て今日まで、日本は一貫して自国を犠牲にして正義と誠実の立場を貫き、犯罪はなにもなく、他国に解放と繁栄のモデルを示し、顧みて恥じることはないというひとつの言い方も存在する。

 この片寄った二つの歴史の立場をそれぞれ主張する人々がもちろん今も現にいるので、かならずしも克服された古い見方ではないのだが、格々に反証を提供することはきわめて容易である。ことに後者において「自国を犠牲にして」日本がアジア解放に殉じたなどと言うことはあり得ない。

 上述の二つは、どちらも善悪と言う道徳意識に極端にとらわれている点で同一次元にある。戦争に「正義」と「不正」を持ち込むのは自然法に反する、という考えをわたくしは(本書は)一貫に取っている。戦時中に情報戦争に勝つためにアジア解放という「正義」をもっと利用した方が政治的に賢明かつ有利であっただろう、とわたくしは思うのだが、あの戦争は日米いずれも「正義」の戦争ではなく、大平洋の覇権をめぐる「エゴとエゴ」の衝突、東洋と西洋の間だのパワーとパワーの必然の激突であったと見るのがわたくしの(本書の)見地である。正邪善悪のはいる余地はできるだけ小さく考えた方が健全であるという見地である。

 しかし、人はどうしてもそうは考えたがらない。歴史を道徳的に考える。そうなると、先に見た極左と極右の二つの考え方に行き着き、これではあまりに片寄っていて、不自然に見えてくるだろう。これでは何とも歴史の様々な屈折を説明できない。歴史はもっと複雑で、濃淡がある。

 そう考える我々は、歴史を全体として「連続体」として見る見方ではなく、ある時点まで正しく、ある時点から道を間違えている、と言う見方に、つい取りすがりたくなる。日清・日露までは日本はよかった、あれ以後だめになった、と言う言い方がとても便利なのはそのせいである。つまり、便利すぎる歴史観なので胡散臭い、と言う疑問なのだ(次から衝撃的なのです)。

 この便利すぎる歴史観を今日最も代表的に表現していたのは、周知の通り司馬遼太郎(さん)である。

 司馬(さん)は、維新を近代革命とみなし、日露戦争を祖国防衛戦争ととらえ、日本人が素朴に国を信じた時代があったことを絵解きした。彼が知識人の世界にではなく大衆的基盤において、戦後の小児的反戦平和主義を破壊する上で強力な役割を果たしたことを認めるのに吝(やぶさ)かではない。

 けれども明治に対する高い評価とあまりにいちじるしいコントラストをなす昭和の否定はいったいなんであろう?昭和期から敗戦までの十数年は、「別国の観があり、別の民族だった」とし、この間を「長い日本史の中でも特に非連続の時代」とみなす彼の歴史観は、自分の中のよいものは大好きだと褒め讃え、嫌なものは括弧に括って、自分とは無関係なものとして考えないようにすると言う都合のよい態度である。

 しかし、よいものやいやなものも、ともに自分の歴史ではないか。暗黒と失敗と愚劣の昭和史も、自分の歴史以外なものではあるまい。悲劇に終わった歴史も又自分のいとしい肉体の一部なのである。いったい歴史に「非連続」はあり得るのだろうか。

 「国民の歴史」西尾幹二著・産経新聞より。

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