皆様、あけましておめでとうございますm(__)m。ドキドキとカウントダウンした2000年もどうにか無事に迎えられた今、いかがお過ごしでしょうか、飲み過ぎなんてしてないですよね?え、二日酔いで文字を見るのもいやだって、まあ、そんなこと言わないで一つおつき合い願いますよ。ところで、わしと言えば、あいも変わらず書物の中に埋もれ、あてどもなくさまよい歩く一人「ボヘミアン」しているしがない旅人なのだけれども、そのうち迷子になりそうな気がしてとても心許ないのだよ。が、しかし、歩き始めたものはしょうがない、とにかく精根尽き果てるまでどこまでもさすらい続けましょうか(ーー;)。
さて、前回は「正義」について一席ぶったのだが(といっても、ほとんどが参考文献の受け売りなんじゃ)、その中で昭和天皇の「人間宣言」にふれた。天皇が人間宣言されたわけだからその前(戦前は)は神であられたわけだ。ところがどうもこの「神」と言うところで、なにかすっきりしないことがでてきたのだ。
と言うのは、「人間宣言」を迫ったアメリカ側の神の概念として、天皇を「God(ゴッド)」と見ていた向きがあるのだ。そこでまたまた参考文献に頼るのだけれど、日本の「神」・「カミ」について少し調べてみることにした。ほとんど引用ですので、わしの言葉ではないのでそこのところご了承下さい。
まず、万葉集においては、天皇を「現御神(明津神)」(アキツカミ)とする観念があるのだけれど、それは、、人であり神である存在を承認していることであり、「古事記」の世界においては人であり神でもある存在がごく普通に描かれ、活躍しているのだ。というよりも「万物」が神となり得たのである。人である神は、そうした神々の世界の一部として存在していたに過ぎない。
イザナミのカミを焼け死なせたヒノカグツチノカミを、イザナギノカミが斬り殺すにあたって用いた刀剣は、「アメノオハバリノカミ」「ノツノオハバリノカミ」である(本文は漢字です)。
このように、「古事記」においては、神と人とは排他的概念ではない。そこで人でもある神の時代は、「古事記」の編纂の時代に至るまでつづいていったのであって、その事を否定する叙述は全く認められない。そして、それ以降も持続していくのである。「古事記」には神代と人代の区別が存在しない。
以上のような独自な「古事記」的観念の世界では、天皇だけではなく臣下(しんか)達も神である。神である人間を祖先とするのであり、古代の宮廷人すべてが「現神(現れる神)」のはずである。その限りでは、天皇と臣下との間には差別がない。天皇は御の字を加えて「現御神」と記され、あまたの臣下たちと区別がなされている程度であるように思われる。
さて、本居宣長(もとおりのりなが)は、「古事記伝」において、人間であれ動植物であれ、何であろうともたぐいまれな超自然的で異常な力を感じさせるもの、畏怖の念を抱かせるものであれば、善悪を問わず神であるとしているのである。神々は、目に見ることができない。しかし、神々は浮遊している。そして、木、石、火などの自然物や鏡や御幣(ごへい)などに宿ったりする。風や雷などの自然現象として現れることもあるし、人に乗り移って託宣(たくせん)を述べたりすることもある。
自然物や人間に宿って姿を現せない限り、神々としての力は立ち現れない。つまり、日本の神々はきわめて具体的な事物や現象において考えられるもので”抽象的理念的な”存在ではない。
これは通例アニミズム(物質界のあらゆるものに神が宿っていると信じる思想)と呼ばれるものにほぼ等しい。日本の古代信仰を考えるときに、魂が浮遊する霊力で、一般に人間の魂は死後も存在し、自然物や他の人間に付着して立ち現れ、それが神と意識されるというふうにも理解されている。
以上のような古代日本人の信仰のあり方は、いまのわれわれ、つまり自然科学の物質概念を取り入れて以来の日本人には、容易に理解できるものではないかも知れない。しかし、ここを起点にして考えない限り、日本の「カミ」の観念・概念の解明はとてもおぼつかないだろう。
古代の日本人が自分自身のカミの概念をも十分に意識しえてない状況下で、中国大陸より様々な新しい理念や理想を未知の文字とともに取り入れ、当惑し、おそらくしばらくの間は自己混乱のなかに終始しながら徐々にわがものとしつつ、しかも十分にはこれを理解しないで自分流に改造し、変形して、その変容そのものを自らの生き方の根源的な形式にしていったという困難なプロセスを、我々はこのケースにも認めざるをえないのである。次回に続く
参考文献・産経新聞社「国民の歴史」西尾幹二著より。
さて前回、日本のカミの概念について、様々な自然神、文化神、人間が「カミ」になる場合、そして「ホトケ」と呼ばれる場合、ホトケも、カミであること??、天皇もカミであることについて、日本語の宗教概念の広がりの多様さと無限定住を指摘しておいた。長い間、神道(しんとう)と仏教は混ざり合って、いわゆる神仏習合の時期を経過してきたのであるが、そこで、近代のことを話したい(これからなんです)。
1859年、ヘボンが日本にやってきた。ヘボン式ローマ字の創始者として有名な人だ。ヘボンは聖書の日本語への翻訳を行い、1872年に刊行したとき、アメリカ宣教師であるから、当然Godを神(しん)と訳した。それを日本人はカミと読んだ。それについて翻訳を手伝った日本人協力者達は何の疑問もださなかったらしい。日本のカミとGodとの本質的な違いについては、概念相互の突き詰めた研究や明確化ということをあえてしないできた。
「神」が一番最初に訳語として用いられるようになったのは昭和に入ってからで、それまで「上帝」や「天主」や、あるいは少なくとも一義的ではない表現で概念の広がりと揺れを示しているが、昭和年間から以降はすっかり固定してしまって、Godが誤訳されたまま今日にいたり、その誤訳度合いが格段と拡大していることを示している。
さて、これからなのですが・・・。
Godを神と訳したことで混乱を生じた最大の問題は、戦後の天皇に対する一件である。昭和21年の元旦詔書(しょうしょ)でいわいる「人間宣言」というのが行われた。あらためて天皇が自らを神秘的存在ではないと称したことで、天皇は神であったはずではないと言う、その背景を知っている常識的な知識層は、ことあらためてそうした宣言がなされたことに奇異の念をもった。外国人が、日本の天皇崇拝に対して「日本人は天皇をGodと思っている」という、このキリスト教のカミ概念と重なる誤解をし、知日派のアメリカ人は、そうした誤解をアメリカ国内でも解除しようとしたけれども、欧米側には日本人の誤った観念として誤解が広まったままだと聞いている。そのため、日本側があえて「人間宣言」という、これまた誤解さえやすい対応をさざるをえなかった。
そのうち、一般の日本人までが「戦前の日本人は天皇をキリスト教の意味におけるGODと思いこんでいたのだ、とんでもない話だ」と言うさらに新しい誤解を積み重ねている始末である。そこで、その当時、前田多聞(たもん)という人が議会で行った答弁をご紹介しよう・・・。
「天皇はカミであり、またカミでない。なぜならば、神と言う日本の言葉と、ゴッドと言う意味を持った神との間には非常な違いがある。・・・日本の神というのは、キリスト教で言うような全知全能の神とか、造物主とか言うような意味でなく、至上至高の地位に居られる方と言う意味ではないか。そこで御質問が、天皇はゴッドのような神かと考えるか、とこうおっしゃるならば、それは神ではないと答える外はない。ところが日本の古来からの観念で、現世において最も上位にいらっしゃる方であるという意味ならば、それはやはり神である・・・」
天皇を「アキツミカミ」(現人神)となるのは明治中期以降の神話的国家観が引き起こした天皇神格化の弊害だと批判する人々が今も後を絶たない。これもGodを「神」と訳した誤解の最たるものなのである。天皇を「現人神」となるのは万葉以来の表現であって、人間とカミとの間に不連続を持たない日本のカミ概念においては「現人神」であり、「万葉集」にでてくる「明津神」と同じ意味であって、文武天皇の即位宣命(せんみょう)に「現御神」という表現ではっきり明記されて言葉であって、明治の近代国家がこと立てて神格化したものではない。古くから日本では多様なかたちで伝えられてきている思想や感情の一つである。
天皇の神格化ということには、戦後つくられた巨大な誤解がある。何度も言うが、「現人神」はいわゆる絶対神とか、全知全能の神とか言う概念、すなわちDeus(デウス)やGodの概念とは全く意味をことにするものなのです。次回はこれまでの引用を検証してみたいと思うのですが、できるでしょうか?
参考文献・産経新聞社「国民の歴史」西尾幹二著より。