カリスマのルーツを探ろう!

「正義とは」

 ー共産主義とは、自分の見解や意図を隠すことを恥とする。共産主義は、彼等の目的がこれまでのいっさいの社会秩序を暴力的に転覆することによってしか達成され得ないことを公然と宣言する。支配者階級よ、共産主義革命の前に慄(おのの)くがいい。プロレタリアには、革命において鉄鎖のほかに失うものは何もない。彼等には獲得すべき全世界がある。ー

 全世界のプロレタリア、団結せよ!

 「カール・マルクス共産主義宣言・金塚貞文訳・大田出版・第4章種々の反対に対する共産主義者の立場」より。

 さて、今回は「この国のカリスマ」をやる予定だったが、ある方から「中核・革マル」についてとても詳細に記されている書物を紹介していただきました。漠然とした知識で右往左往していたところなので渡りに船という感じで、70年代学生運動に至るまでのマルキスト達の時代の流れもわかり、とても参考になりました。

 ということで、ご紹介いただいたその参考文献のページを「パラパラ」とめくりながらお話を進めていきたいと思います。

 さて、わしが青春時代を過ごした1970年代初期、「中核・革マル」と言われる若者達が互いに争っていた。時には殺人までした。73年(昭和48)、わしのアパートがあった世田谷経堂でも、政治組織局員土門肇君が殺されている。

 その時代、それは「内ゲバ」と呼ばれ、体制側と戦うのではなく同じ思想をもつもの同士が血みどろの戦いを繰り広げていた。わし自体は、俗世界に埋もれて、ただ流されるばかりの毎日を過ごしていたもので、同世代の若者(大学生)がなぜその様な運動に没頭しているのかは皆目見当も付かず、彼等が掲げる思想という「こむつかしい」ものに対しても決して巡り合うことはなかった。

 しかし、今頃になって思うのだが、人を殺すという作業は、心理的に言ってそう容易いことではないはずだ。小室直樹先生の言う、アノミーだと言ってしまえばそれまでなのだが、思想というものに冒されたことのないわしにとってはどうも理解に苦しむことなのだ。

 そこでだ、その参考文献をひもといてみるのだが・・・人間には、他のあらゆる動物と同様に、同種族の他の個体を殺害することに対する抑制力が生得的に(生まれつき)にそなわっているという。人が人を殺すためには、その本能の命ずる抑制を乗り越えなければならないのだ、とまず蒙を啓いてくれるのだ。

 ただし、その生得の抑制力は人間の生得の殺害能力とバランスがとられている。生得の殺害能力とは、道具なしでの殺害能力、つまり、手で絞め殺す、足で蹴り殺す、歯で噛み殺す、こぶしで殴り殺すと言った能力だ。以上のような手段だけで人を殺すことは容易なことではない。

 もし野獣を歯や指の爪で殺さなければならないとしたら人はウサギ狩りだっていかない。ましてや海を越えてよその国へ攻めていくなんて思いもしないだろう。しかし、道具を発明した人間によって現在の世界地図がある。今の世界地図は武器によってつくられた世界でもある(これはわしの考えだが、そうですよね)。

 人間が、生得の殺害抑制を乗り越えて他人を殺すに至るモメント(刹那・瞬間)として、何が有効に働くかという問題であるが、大別して4つある。

 恐怖、怨恨、功利、正義感。前者二つの恐怖と怨恨の場合、いずれも平常心を失った状態である。わしだって恐怖や激情にかられて我を忘れている状態ならば人殺しでもやるかも知れない。それこそ「ぷっつん」と切れたらどうなるかは自信がない。相手を選んで喧嘩をやっているうちはまだまだ冷静と言うことだ(負けそうな相手にも果敢に向かっていく人こそが勇気のある人かも知れないが、そうは言ってもなにかしかの大義名分がないと勇気とやらも湧かないかも知れないね)。

 しかし、後者の功利か正義感からの場合は、前者の二つと違ってもっと冷静に殺人を実行できるという。正義感からの殺人は、相手の存在そのものが悪であるとの絶対の確信にもとづいてなされる。殺すことは、悪を滅することでもあるから正義なのである。歴史上この殺人が最も多い。

 フランス人は、今現在、ルイ16世とマリーアントワネットをギロチン送りにしたことに対しての悔悟感にさいなまれていると新聞が伝える。まあ、それはさておき、ベトナム戦争だって米軍側からすれば正義の戦いだったと、その時代は思われていたであろうし、中世における異端者の虐殺、あらゆる革命での反革命者の粛清も、ナチスの虐殺もすべて正義の名のものにおこなわれたのである。もう例を挙げれば枚挙にいとまはない。アメリカの日本に対する原爆だって彼等にとっては今現在だって「正義」なのだよ。

 殺人が正義の名のもとに行われるとき、人はそれを是認するばかりか、歓喜し、賞揚(ほめたたえる)する。しかし、正義というものは、必ずしも普遍的なものではないから、ある正義の尺度を持つものにとっては喜べる処刑が、他の正義の価値観を持つものには吐き気がするほど恐ろしいこと、ということは、よくあることだ。

 ともかく、人間の発明した概念の中で、正義という概念ほど恐ろしいものはない。現在月刊「サピオ」上で繰り広げられている「右」と「左」の激しいつばぜり合いもお互いの正義のもとで繰り広げられているのではないかと思う。とにかく、右でも左でも好いが、「極」と言う字が付いてしまうとなんか怖い気がしないでもない。

 さて、この辺で手っ取り早く正義について理解するために宗教改革期の新教徒と旧教徒の抗争を考えてみよう。これだとわかりやすいかも知れない。

 我々第三者である者の目には、共にキリスト教徒と映るかも知れないカトリックとプロテスタント、彼等は互いに神に仕えるのは自分たちの党派(セクト)だけで相手の党派は神の名のもとにおいて実は悪魔に魂を売り渡している徒党と考える。そして、既述した中核・革マル両派の抗争などとは比べ者にならないほどの血みどろの抗争を続け、相手を虐殺しあったのである。悪魔に身を売り渡した相手を殺すことは、神の意に叶うことと考えるからである。もし、マルクス・レーニン主義が宗教とするなら、中核・革マルにとって、キリスト教徒の争いにぴったり当てはまる気がする。わし自身はわからないながらも共産主義とは神を信じない「宗教」だと思っていたのだが、どうもマルクスと言う人にマルキスト達は神のようなものを感じていたのかも知れないね。

 それじゃ、我が国の天皇を「現人神」と信じていた戦前の一般の人々とは違うようでいて、根っこのところでは共通するものがあるようだ。イエス・キリスト、アッラーの神(モハメットは預言者)、カール・マルクス、そして戦前の天皇(戦後人間宣言をされました)、「絶対」を掲げる意味では似ているよね(とりわけマルキスト達は知的な感じがしますよね。昔、頭がいいのと左系とは同意語だったと聞きましたが、そんなことは決してありませんよね)。とにかく、人は「絶対」と言うもの(カリスマ)の下でしか生きれないのでしょうか。今の日本に、新興宗教なるものが雨後の竹の子のように?勃興するのも真なるカリスマが不在だからでしょうか?

 わし自体は、神も仏も信じなければ、今生天皇を神様だなどとは思っていないが(心の拠り所だという人はいますね)、でも、この世の中には、偶然(蓋然)的で説明不可能な、なにがしかの目に見えない「神如き」ものがあるのではないかと思っている(いや、たとえ必然であろうがその結果には神のようななにかを感じることはある)。

 兎にも角にも、人は意識するかどうかに関わらずなにがしかの「マインドコントロール」を受けながら生きているのかも知れない。全く主観的な人間もいない代わりに、全く客観的に生きるというのも無理な話だろう(客観的と言いながらそれが本人の主観的かも)。情報があふれる昨今、賢く平均的に情報を読みとるということは至難のことであり、それをコントロールして「右・左」の中心にいる人というのはなかなか難しいのだが、かと言って、余りどちらか極端過ぎると他人の意見も聞けなくなってしまい、怖い気もする。だから、保険のためにとついついいろんな書物を買いすぎて、ふと気が付けば、部屋の本棚はいつしか「積ん読」状態気味、と頭を掻いてる人も多いのではないだろうか。結局のところ、真実というものは理屈というものの中には存在しなくて、何か人間の今まで生きてきた自然なる心の中に隠されているのかも知れません。それがなんだかよくわかりませんが、ひょっとして歴史の中に隠されているのかも知れませんね。だって、現在は突然生まれたものでなく、これまでの歴史の上にのっかっているのですから。

参考文献・「中核VS革マル(上)」立花隆著・講談社文庫より。

 

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