錬金術

「はじめに」

ウイスキー、ブランディー、その他スピリッツと呼ばれるものが醸造酒を蒸留する

ことによって造られ、その蒸留に使う蒸留器は錬金術と言うものの、長い年月の

錬金術師たちの試行錯誤の結果であるということは周知のことである。

しかし、錬金術師達のイメージと言えば、怪しげな奇跡が売り物の香具師(やし)

山師的な姿の方が一般的イメージになっているのではないでしょうか。

しかし、書物を読み進んでいくうちに、一部では確かに怪しげなところもあるが

本来の姿は違うのではないかということがわかってくる。そこで、本当のところは

どうなのか、書物を頼りにけんしょうしていきたいと思います。

「なぜか、18世紀から」

18世紀は、最後の魔術師の時代であり、バビロンやシュメールから伝わってきた

知識が消滅した時代。

錬金術の領域は著しく縮小、そして錬金術は歴史の舞台から去る。

ちなみに、ニュートンは最後の錬金術師と言われる。

「17世紀」

錬金術は確実に人文諸科学から閉め出される。デカルト哲学や啓蒙思想の時代が

すぐ間近に迫っていた。18世紀になると、ドイツの哲学者カントが、世界に

存在する事物の領域から霊的なものを取り除く思想を展開するようになる。

それはまさに錬金術師にとって暗黒の時代であった。

「16世紀」

錬金術は権力者達の庇護のもとで隆盛を極める。しかし、その一方で偽の錬金術師

の数も急増した。錬金術は、その最盛期に衰退の道をたどりはじめる。

錬金術に代わって近代科学を創設する方向へと進んでいく。

要するに、ルネサンスは錬金術から多くのものを吸収することによって成立したが

最終的には、錬金術を否定した。

「パラケルスス(1493〜1541)

錬金術の効用は金を造ることではなく、人間の健康を守る薬を発見することとした。

(近代的な意味での”アルコール”という言葉は、1527年頃に書かれたパラケルススの

著作に登場するのが最初と考えられている。これは、語源も明らかにされないまま

アルコールという言葉が広まる、100年以上も前のことである。この説が正しいとすると

近代的な意味でのアルコールという言葉の”発明者”ということになる。)」

当時、もっとも熱心に錬金術を保護した人物はハプスブルク家の神聖ローマ皇帝

ルドルフ2世であった。その頃のプラハはあたかも第2のアレキサンドリアであり、

まさに、「魔術の町」と呼ばれる。現在でも、プラハには錬金術との関連から

名付けられた「黄金小路」と呼ばれる通りがある。

フランチェスコ・デ・メディチも、同様に錬金術の庇護者であった。とりわけ

錬金術から着想を得た芸術を推奨した。

「15世紀」

14世紀が錬金術に対する情熱を育んだ時代とすれば、15世紀はヨーロッパ中が、

錬金術にとり憑かれた時代。

この世紀の後半は、イタリア半島に錬金術が広まった時期でもある。それには2つの

理由があった。第一の理由はスペインにいたユダヤ人が各地に離散したことであり、

第2の理由はローマ帝国の崩壊によってコンスタンティノーブル(ビザンチティウム)

から多くの人々がイタリアに錬金術の知識をもたらしたことで、イタリアの政治家

や貴族は錬金術に夢中になり、錬金術師達を積極的に庇護する。

「14世紀」

13世紀の末まで、錬金術はフランシスコ修道会やドミニコ修道会をはじめとする

様々な修道院のなかで、比較的静かに研究され、実践されていた。しかし、2つの

事柄が錬金術に対する協会の態度を変化させた。第一に、錬金術に携わる修道士達が

異端の罪に問われることが多くなった。第二に、幅広い社会階層から協会と直接関係

のない新しい知識人が現れたこと。

1317年、ローマ教皇ヨハネス22世は、修道士達を錬金術にかかわらせないように、

偽の金を鋳造したり販売したりすることを断罪する教皇令を発布した。この教皇令は

錬金術が聖職者以外の人々にも急速に普及し始めたことや、錬金術師を名乗る人々の

中に詐欺師が現れ始めたことを示唆している。要するに錬金術は、200年間修道院

の壁の中に閉じこめられた後、世俗の世界に回帰したのである。

「13世紀」

フランシスコ会修道士の間に錬金術が広まったのは、13世紀前半のエリアスが総会長

を務めていた時期である。フランシスコのアッシジから発せられた数多くの文書が、

ラテン・ヨーロッパにおける錬金術の発達に大きく寄与したことは間違いない。

その時代、多数のアラビア語文献をラテン語に訳し、イギリスのオックスフォードに

フランシスコ修道会の錬金術を伝えたのはロバート・グローステストである(1175

〜1253)。このグローステストの弟子に、当時を代表する知性を備えた人物

ロジャー・ベーコン(1210年頃〜1292年頃)がいる。ベーコンは神秘的

な思想に興味を持ち、占星術や、とりわけ錬金術に関心を寄せた。又、彼は教会

から迫害された最初の錬金術師でもある。いかがわしい新説を提示したと言う理由で

パリに幽閉されたと考えられる。1292年以降、不思議なことに様々な年代記から

彼の名前が消えている。彼がどのように生涯を閉じたのか明らかになっていないこと

から、錬金術師は不死であるという伝説が生まれた「ロジャー・ベーコンはふつう

近世哲学の先駆者、自然科学者として位置づけられている」。

ベーコンの弟子に、ヴィルヌーヴのアルノー(1240年頃〜1311年)という

錬金術師がいた。アルノーはカタロニア地方の出身のフランシスコ修道士であると

同時に、非常に有名な医者であり、占星術師でもあった。他何人かの優れた錬金術師が

いたが、その多くの書物が異端説を取り入れているとされ焼かれたり、断罪され獄死

したものもいる。しかし、これらの人が残したいくつかの書物は、400年後に

ユダヤ系フランス人医師ミシェル・ド・ノートル・ダムに多大な影響を与えた。

その名は、ノストラダムスの名で知られている有名な人物である。


「錬金術の源泉」

錬金術の基盤となった思想や技術は東洋から西洋にかけての広い地域において

すでに紀元前1000年頃には存在していました。しかも、そのような思想や

技術の起源はさらに鉄器時代にまで遡れるというのです。

錬金術の中核部分は神聖なものと見なされていた黎明期の金属加工と結びつき

エジプト、ギリシア、アラビア、メソポタミア、インド、中国の各文明において

同時進行的に発展したのです。又、初期の金属加工技術はその秘密を守るために

しばしば婉曲的な表現を使って記述されたり、秘教として伝承されたりもしました。

このように、金属加工技術が神聖なものと見なされていたことや、秘教として伝承

されたことから、錬金術は聖なる術として呼ばれるようになりました。

アッシュール・バニパル(紀元前669年〜626年、アッシリア王)によって

創設されたメソポタミアの図書館には、象徴記号で書かれた粘土板がある

そこには錬金術の基盤となる概念の一つである思想

「母なる大地のなかで、鉱物は他の被造物と同様に固有の生命を持っている」

と言う思想が記されている。このことから古代メソポタミアにおいては、

錬金術の理論や技術的な知識がかなりの水準にまで達していたことがわかります。

「アレキサンドリアとヘルメス神話」

ところで、ヘルメス・トリスメギストスとともに錬金術が始まるという考え方が

存在します。ヘウメス・トリスメギストスは、エジプトがギリシア文化に組み

込まれた時代に、アレクサンドリア派の中から生まれた伝説上の人物であり

錬金術の守護神なのです。トリスメギストス(この名は「3倍に偉大なるもの」

という意味を持つ)は、ギリシアの神であるヘルメスと、エジプトの神である

トートが結びついた合成神だと言われます。中世の錬金術たちは、トリスメギストス

実在の人物であると信じていました。そして、トリスメギストスを神から知恵を

授けられた者と見なし、彼こそが人類の歴史上最初に錬金術の奥義を極めた人物

であり、その創始者であると信じた。また、トリスメギストスは「エメラルド板」

や対話形式で書かれた有名な「ヘルメス文書」の作者だと見なされました。

「ヘルメス文書」の中でトリスメギストスは、古代の様々な思想や宗教や知識を

総合しました。(今日では「ヘルメス文書」は、紀元前3世紀から紀元後3世紀

の間に、ナイル川沿岸で匿名の人々によって書かれたものだ、と考えられている)。

ギリシア=エジプト世界においていかに錬金術が発達したかは、3世紀に書かれた

「ホルミウム・パピルス」や「ライデン・パピルス」によって明らかです。特に

アレクサンドリアは、錬金術の特徴が形作られた場所であり、まさに西洋の錬金術

の出生地と言っても過言でありません。まさしく、古代世界の多様な密儀や知識

が出会う中心地でした。4世紀の初頭になると錬金術の教えはようやく伝説から

脱し、ユダヤ婦人マリヤやクレオパトラ=(エジプトの女王とは別人)やパノポリス

のゾシモスらが書いた書物によって、科学的な基盤を獲得しました。とりわけゾシモス

は金属加工の行程を定式化し、それを象徴や寓意を用いて表現した。こうしてゾシモスは

空想的な科学としての錬金術の道を切り開いたのです。

「錬金術を保護したアラビア文化」

6世紀頃になると、エジプトの大都市からビザンティウムへ様々な知識が流入する

ようになり、錬金術もビザンツ帝国(東ローマ帝国)に伝えられました。しかし

ビザンツ帝国はこの不可思議な術が広まるのを怖れ、錬金術を取り締まりました。

事実、錬金術が飛躍的に発展するためには、西ローマ帝国の解体とイスラム世界の

勃興が必要でした。とりわけ、7世紀にマホメットの指導の下にアラブ民族が統合

され、イスラムが領土を拡張するようになったことが、大きな意味を持ったのです。

イスラム軍のエジプト侵攻はまさにイスラム世界に錬金術をもたらしました。しかし

それ以前のアラビア人が全く錬金術について知らなかったとは思えません。おそらく

もともとアラブ地域に錬金術に類似したものが存在していたからこそ、エジプトの

神秘的な技術を受け入れ、さらに発展させることができたのでしょう。だが、

イスラム化される以前のアラビア語の文献がほとんど残されていないので、アラビア人

がエジプトの錬金術にどのように出会い、どのようにそれを吸収したかは憶測で考える

しかありません。いずれにせよアラビア人の人々に伝わることによって、錬金術は

アラビア語が聖なる公用語として用いられたイスラム帝国全体に、すなわちアフリカから

アジアに至る広い地域に広まりました。アラビアの錬金術師たちはエジプトやギリシア

の錬金術を辛抱強く書き写し、それを翻訳してアレキサンドリア派の遺産を受け継ぎ

後世に伝えました。

「イスラムから中世ヨーロッパへの錬金術の流入」

古代から中世に至るまでの期間、錬金術の奥義はイスラム世界で守られ、伝承されて

いった。しかし、錬金術は中世ヨーロッパにおいても、最も発達した学問の一つでした。

では、錬金術はどのようにしてイスラム世界からヨーロッパへと伝わったのでしょうか?

サラセン人(=中世ヨーロッパにおけるイスラム教徒に対する呼称)のヨーロッパ征服

による影響というだけでは、説明が不十分です。この時代のラテン・ヨーロッパが知識

に飢えていたことも、考慮に入れなければなりません。確かなことは、中世ヨーロッパ

において、錬金術はキリスト教信仰の発達と一体化したということです。

イスラム世界からヨーロッパへの錬金術の流入を考える場合、4つの経路を指摘しなければ

なりません。1.8世紀の初頭に、サラセン人がスペインを征服し、数百年にわたって

定住した結果、錬金術の知識がもたらされた。2.多くの錬金術書を保管していた

ビザンティウムから、錬金術の知識がヨーロッパに伝わった。当時、ビザンティウムは

まだ、ギリシア的な色合いを残していた。3.地中海沿岸のイスラム地域に広まっていた

神秘思想、おそらく錬金術がこの神秘思想の源泉であるが、パレスチナ帰りの十字軍

参加者やテンプル騎士団員によって、12世紀のヨーロッパに伝えられた。4.これは

わずかな影響しか与えていないと思われるが、902年から1091年までの間シチリア

島をサラセン人が占拠したことによって、南イタリアの地域が文化的な触発をうけた。

というのも、もともと南イタリア一帯はマグナ・グラエキアの伝説を言語や思想にとどめて

いたため、サラセン人の財産となっていた古代の知識に敏感に反応したのである。

ヨーロッパにおいて錬金術が始まったのは、1142年だと言われています。なぜこのように

特定できるかと言えば、1142年にチェスターのロバートが「錬金術の後世についての書」

をアラビア語からラテン語の翻訳したからです。これは、ラテン・ヨーロッパに現れた

最初の錬金術書でした。

ヘルメス思想のヨーロッパへの伝播は、古代ギリシア・ローマの書物の流入につづいて

起こりました。イスラムの人々は、8世紀から9世紀にかけて、古代ギリシア・ローマ

の学問を東ローマから学び、そして彼らはプラトンやアリストテレスなどが書いた書物を

を全面的にアラビア語に翻訳し、その知識を吸収して、自分たちのものにしました。

それが11世紀から12世紀にかけて、今度はヨーロッパの人々がこれらの書物を

アラビア語から西欧の言葉に翻訳したのです。錬金術の関する本も、同じような経過を

たどって訳されました。翻訳したのは、隠遁生活を送っていた学僧たちでした。

このようにして、錬金術はイスラム世界からヨーロッパに伝えられたのですが

イスラムとヨーロッパでは錬金術に対する取り組み方が少し異なっていたのです。

イスラム世界では錬金術は宗教的なものから解放され、宗教施設以外の場所で

行われるようになっていたのですが、それに対して、学問全体が修道院の中に

閉じこめられていた中世ヨーロッパでは、錬金術は再び聖職者階級の特権となった。

こうして、錬金術は宗教施設へと逆戻りしたのです。

サリンベーネが記した、「年代記」(1258年)には、フランシスコ修道会の中で

錬金術の知識が受け継がれていった様子が描かれているそうです。この歴史書によると

フランシスコ修道会の中で錬金術の指導を行ったのは、フランシスコ会の創始者

アッシジのフランチェスコの高弟コルトナのエリアス(1180年頃から1253年)

でした。1217年、エリアスはパレスチナに布教の旅にでて、そこで錬金術に出会った。

1219年に、フランチェスコがシリアでエリアスに合流したことはよく知られて

いるそうです(13世紀に戻る)。