「23話・歴史」

 これから歴史について(学びながら)恐る恐る書き進んでいこうと思う(これは、以前歴史についてのページを綴った冒頭の文面である)。しかし、歴史の奥深さは尋常なものではない。世界史・日本史という事もあるのだが、なぜに歴史を学ぶかという事だ。私(わたくし)は確かに知識を得たいのだけれども、どうもそれだけの理由ではないようである。年をとればとるほど歴史に心を奪われるのは、その歴史というものが人それぞれの人生に直結しているからに他ならないのかな、と今はそんなふうにも思えるからである。またそうでなければ、本当の歴史を学ぶ意味もないだろう。まあ、そう偉そうなことをいっても、おぼつかない知識を頼りにしても右往左往するばかりなので、学者の方々の著書を、あたかも暗闇を照らす灯りのごとく、片手に携えながら事を始めるしかないのだが・・・でも実のところは、単に、キーボード上達のための指先の鍛錬に過ぎなかったりもするのです。それもこれも50代に入ってからの「手習い」と思えるならば、自然とキーボードを叩く8本の指にも力がこもってくるのです。

「人はなぜ歴史を学ぶのか?」

 さて、まずは冒頭の答えになるかと思うが、人はなぜ歴史を学ぶのだろうかという事。

 その問いには、筑波大学教授で精神科医でもあられる「小田晋先生」にお願いすることにする。

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 歴史を理解するかについては、様々な方法があるだろう。我々が歴史を学ぶのはなぜなのだろう。

 ひとつには、現在のように不透明な時代にあって、明日の予測がつきにくいことがある。われわれは残念ながら生得の予知能力をもっていない。世の中がこれからどう動いていくかを知るには、過去の出来事を知り、そこにひとつの法則性を見いだして、そこから推測するという方法しかない。

 というのは、人間の行動、そして人間の集団である組織や国家のあり方、その行動様式が、人類発生以来何万年、国家発生以来何千年を経ているにも関わらず、科学のように進歩していないからとも言える。

 つまり、我々は現在から将来にかけて、どう生活していけばいいのかというヒントを読みとるために歴史を学ぶと言うことがある。

 それでは、歴史というものはいったい何によってつくられ、どのように動いているのか。このことは案外、わかっているようで本当はわからないことだろう。それだけに、誰もが興味を抱くところであり、歴史に引かれる原点でもあるわけだが。

 1970年代までは、生産関係ないしは経済が歴史を作ると言うマルクスの史観が重視されていた。ドイツにはまた、地政学(ゲオポリテクス)といって、地理的な環境が歴史を作るという考え方も存在した。

 マルクスの唯物論や地政学などのように、歴史がどのようにつくられるかについては、これまでいろいろ言われてきた。しかしながら、どう考えてみても、歴史とは人間の行動の軌跡である。そう考えると、歴史をつくるのは人間といえるのではないか。

 とはいっても、我々庶民一人ひとりが自分で歴史を作っているなどとは、とても思えるものではない。しかし、庶民(大衆)と言えども集団(マス)としてかたまった時には大きな力を発揮できるのであろうが、我々一人ひとりが歴史を作っているという自覚はない。それでは誰が歴史を作るのだろうか?2001/11/8/am4:15/

続く。

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 歴史の流れに大きな影響を及ぼすのは、一国の運命を左右するような立場にある、権力を持った人物。彼らのパーソナリティーが、歴史の中で非常に重要な意味を持っている。

 たとえば、ドイツの精神科医E・クレマッチーは、「平穏な時代には我々が精神病質者を鑑定するが、疾風怒濤の時代には彼らが我々を支配する」という名言を残している。

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 さて、その一国の運命を左右するような立場、現在で言えばアメリカのブッシュ大統領、パキスタンのムシャラフ大統領、タリバンのオマル氏(師でした)、そしてなんと言っても肝心の人物と言えばウサマ・ビンラディンその人だろうだろう。

 つい最近では、権力者についての精神医学的な研究で注目を集めた人物と言えば、現在も生物兵器炭疸菌の関与も噂される、(湾岸戦争の引き金を引いたともいえる)イラクのサダム・フセイン大統領だろう。

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 戦争が始まる前に、イスラエルの精神科医がフセインの筆跡鑑定を試みたことがある。それによると、彼の筆跡は渦巻き状で、そういう筆跡は誇大妄想を持っている人物の特徴をあらわしているそうである。それが事実なのかどうかは定かではないが、しかし、フセインは確かに誇大観念をもっているのかもしれない。それは、彼が自分のことを、紀元前6世紀に新バビロニア帝国の繁栄を築いたネブカドネザル2世の後継者を持って自認していたことでもわかる。

 もっとも彼は、精神病のレベルに達した狂信的指導者であるとは思えない。西側に対して敵対的なイスラム圏の指導者であるイランのホメイニ師、リビアのカダフィらも、やはり「狂気」のレッテルを西側から見られている。それは情報戦略の一環であったかも知れないし、また、西側すなわちキリスト教圏の人からは彼らの行動の原理が自分たちとあまり異なるために、狂気としか見えないと言うこともあるだろう。

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 さて、その精神科医や精神分析を通して関係が深いのが神話である。

 ジークムンド・フロイト(1856〜1939)の説で有名なのが、人間の心の中に生きている神話的要素としての、エディプス・コンプレックスと言う概念だ。

それについてはまた次回と言うことで今回はこれにて失礼いたします。2001/11/13/13/45/

 「エディプス・コンプレックス」という言葉は、男の子が母親をめぐって父親と敵対するところから生ずるコンプレックスのことだ。その言葉は、ギリシャ神話に登場するオイディプスの悲劇に由来する。別に慌てて筆を進めることもないので、概要を述べましょう

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 その話は、ソフォクレス(B.C.497〜B.C.406ギリシアの三大悲劇詩人のひとり)によって書かれた悲劇「エディプス王」の主人公エディプスにちなんでいます。

 テーベの王ライウスは息子に殺害される運命にあると神託によって告げられる。王は息子が生まれるやキタエロン山に捨てる。

 コリント王ボリブスに捨てられて育てられたエディプスは「父を殺し母と密通するであろう」と神託を受ける。

 旅にでたエディプスは、父と知らずライウス王を殺してしまう。そして、スフィンクスの謎を解いたほうびに王妃を与えられる。

 実の母とは知らずに父の妻イヨカステと通じてしまうのだ。

 父親殺しと近親相姦の大罪を犯したエディプスは罪悪感のあまり自ら目をえぐり放浪の旅にでると共に、母も自害すると言う悲劇(もっと詳しく知りたい方は神話を読んでね)。

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 この神話は人間の悲劇的な運命の本質をとらえている。なぜなら、父も子も、意識では不倫の災厄から逃れようとしながら意識を越えた運命のままに破局に陥るからです。

 この悲劇が人気があるのは、それを多くの人が心の中に感じているからでしょう。このエディプスの近親相姦の苦悩は人間の無意識に潜む人間の倫理の起源に目を向けさせるものなのです。

 そうなのです!エディプスの犯したふたつの罪こそ、すべての人々がかつて犯す事を恐れた根源的な願望だからです。

 人間の内面に潜んでいる母親への性的願望と父親への嫉妬という二つの感情の複合体のことをエディプス・コンプレックスと言います。

 さて、もう一つのタブー。トーテムポールの話があります。トーテムとは、未開社会の部族が祭る動植物や記号などのことです。

 ダーウィンが想像したように、人類は初め遊牧者として群れをなして暮らしていました。群れはボスに支配されており、すべての女性を自分のものとして競争相手を殺したり追放したりしていたのです。ところがある日、息子達はボス、つまり父親を殺してしまったのです。父親を殺したのち、息子達は互いに争い合い誰も遺産を継ぐことができなかった。

 この失敗と後悔から息子達は理性的になり二度と悲劇を繰り返さないためにトーテムを祭り社会を作り上げたのでした。トーテムは死せる原父の象徴、トーテム共同体は自分たちのトーテム動物を殺さないと言うタブーと、同じトーテム族の女性との性交、結婚を禁止するというタブーからなります。このタブーの成立こそ人間の倫理の起源なのです。そのタブーの言葉はどこから来たのでしょうか?

 タブーはもともとポリネシア語の神聖不可侵なもの、禁じられたものなどを意味しています。父を殺し、母を自分の妻にしたという近親相姦願望を実行していたのでは社会的にも精神的にも平穏には生きていけないわけです。そうなのです、女達を所有したいという欲望こそ原父殺害の動機です。この原父殺害に対する罪悪感こそ、罪意識の起源なのです。人類はこの原罪を原点として社会共同体をつくり倫理を尊ぶようになったのです。人間の倫理は共同体で生きていくための知恵・掟です。ですから、守らなければならないのです(ちなみに、フロイトの説はリビドー「性的エネルギー」に根源を持つものが多いゆえに好色扱いされていますが、わたくしは支持します)。

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 上述したのは、講談社マンガ・フロイトの「心の神秘入門」より引用させてもらいましたが、もう少し興味深い部分があるので同じく引用させてもらいます。ただ、朝が近づいてまいりましたのでそれは次回と言うことでお布団にもぐらさせてもらいます。次回は「心の構造」です。

2001/11/16/4:30/

 話が歴史から外れていくみたいだが、神話を語るうちに関わらずるを得なくなってきたのでフロイトの説く心の構造とやらを追ってみることにする。

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 さて、人間の心にはエス・自我(ego)・超自我の三つからなるという。エスとは、生物学的本能的無意識なもので論理性を欠きその満足を求めて社会的価値を無視しようとするのです(ニーチェはエスを、人間の本質の非人間的なものを表す意味で使っている)。

 自我は、理性又は分別があり情熱的なエスに対立してコントロールします。

 超自我は、自我を監視する役目を果たしています。道徳的な良心、罪悪感や自己観察自我に理想を与えるなどの機能があります。また、夢の検閲官でもあり超自我に由来する罪悪感の大部分は無意識的です。超自我は、自我が内的に分化して成立します。超自我の成立こそが人間一人の社会的存在になることなのです。自我は、超自我の命令に従います。人間は超自我の中に人類の社会的・宗教的・道徳的価値や規則を取り入れていくのです。

 フロイトは、超自我を自我理想ということもあった。英語ではスパーエゴ。超自我は普通、親の超自我をモデルにして形成される。

 人間は、自我の意識で生きていると思っていますが、そうではないのです。つまり、人間の自我の意識は自分の中心ではないのです。超自我とエスをうまく調節できるような自我にしていくことが大切なのです。

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 さて、エスというどろどろした人間の本能とやらを知ってしまった後だが、もう一度その人間の本能、そして心の構造というものを踏まえて、神話の話に戻ることにしよう。

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 神話に描かれているようなテーマは、人間が根源的に持っているイメージと大きく関わっているようであるが、それは、科学が進歩した現代の我々の中にも生きているはずである。それでは、日本人にとって、日本人の祖先が語り継いできた日本神話はどのような意味を持っているのだろう?(それは、また別の機会にてお話ししましょう)