20話・フランスの生命の水

 蒸留酒の経由地であるフランスでは、14世紀初頭に”生命の水”という名称の記録があらわれる。

 当時南欧で活躍した錬金術師のひとりにアルノー・ド・ヴィルヌーブ(Arnaud de Villeneuve1235〜1312年頃)がいた。彼は、スペインのアラゴン地方に生まれたカタロニア人で、占星術、錬金術、医学を学び、まずアラゴンの領主に仕えたのち、パリに移った。しかし、ここで教会と折り合いがわるくなり、シチリア島に追放される。その後、13世紀末にローマに移り、ローマ教皇ボニファティウス8世の侍医となったり、南仏モンペリエ大学で教鞭をとったりした。このモンペリエ大学時代に「若さを保つ法」(1309年刊行)という著書をあらわしたが、その中に次のようなくだりがある。

 「ワインあるいはそのオリを蒸留することによって、オー・ド・ヴィー(生命の水)とも呼ばれる燃えるワインが抽出される。これはワインの最も精妙な部分をなすものである。これには生命をながらえさせる不思議な効力があり、まさにオー・ド・ヴィーと呼ぶにふさわしいものだ」

 この文章が、アルノーの記した文章の忠実な翻訳だとするならば、この淡々とした表現のなかに、生命の水という呼び方がアルノー以前から採用されていたという雰囲気が読みとれる。世間には、アルノー・ド・ヴィルヌーヴがブランデーの祖であり、生命の水の名付け親である、という説がいまだ唱えられることがあるが、アルノーはむしろ、生命の水という呼び方を世に広めた人、とみなした方が妥当である。

 ただ、アルノーは医薬品のひとつとして、積極的に考察、実験を試みた人のようで、ロー・クレットと言う、ワインを蒸留したスピリッツに、バラ、レモン、オレンジ、フラワー、スパイスなどを溶かしたリキュールのような薬酒を創り出している。

 このため、アルノーを、リキュールの祖とみなす人もいる。それ以前の酒の記録に、植物成分をこれほど具体的に記した内容のものが発見されていない以上、アルノーをリキュールの祖、または父、と考えて差し支えはないのかもしれない?

 しかし、11世紀から13世紀にかけては、ヨーロッパのキリスト教徒が、聖地エルサレム奪還を目指して、数度に亘る十字軍遠征を試みた時代である。この時代に、地中海東部沿岸地方のイスラム文化国から、なんらかの「エリクシル」成分の知識を獲得して、西欧に戻った錬金術師、またはキリスト教徒がいたかもしれない。その軌跡を追求することは、この紙面では断念せざるを得ない。

 さて、このように、薬用として用いられた生命の水も、その良い加減の心地よさと、時間が経てば醸造酒同様に酔いが醒めるところから、14世紀後半には、酒として飲用されるようになり、その消費量が次第に増えてゆくようになった。

 15世紀にはいると、イタリアで様々なリキュールが作られるようになる。その先陣を切ったのが、イタリア北部の町パドヴァの医師ミケーレ・サヴォナローラ(1384〜1462)。彼の患者に、美しい上流階級の婦人がいたが、病弱のためしばしば彼に治療を求めた。最初はその婦人にブランデーを服用するようにすすめたが、婦人はそれを飲みたがらなかった。そこで、サヴォナローラは、ブランデーにバラの花の香りと、モウセンゴケの成分を溶かし込んだリキュールを作り、「ロゾリオ」Rosorioという薬名を付けてすすめたところ、その婦人の口にあったのか、喜んで服用するようになったという。

 ロゾリオと言う名称は、モウセンゴケのイタリア古語ロゾリRosoliに由来する命名であったが、このロゾリオと言う名は、ラテン語で”露、しずく”を意味するロスrosと、同じくラテン語で”太陽の”を意味するソリスsolisを合体した名称。つまり、ロゾリとは”太陽のしずく”という意味を持っている。その様なネーミングのよさが、この婦人によりいっそうこの薬用酒に好感を抱かせたのかも知れない。その後、イタリア全土に広がっていく過程で、このロゾリオを模して薬酒を作る人もあらわれ、その製品もロゾリオと呼んだため、ロゾリオという名称は、やがてエリクシル、あるいはリキュールの代名詞と化していく。1480年頃、ナポリの南の町サレルノでは、様々なロゾリオが薬酒として生産されるようになったということである。

 16世紀は、リキュールの歴史にとって、かなり興味深い史実を残した時代でもある。イタリアのフィレンツェの有名な商家の娘カテリーナ・デ・メディチ(1519〜1589)が、フランス王フランソワ1世の次男、オルレアン公アンリ・ドルレアン(1515〜1559)のもとに嫁いだ。これはもちろん政略結婚だが、カテリーナは従者の中にリキュールの職人も連れていった。その職人は「ポプロ](Populo)と言うリキュールを作るのが得意で、フランスの宮廷でも、それを作って供することになる。これが、フランス宮廷のリキュールが愛飲される幕開きの一ページになったのである。

 このポプロと言うリキュールが、美味を追求して作られたものではなく、香りで官能をくすぐるために生まれたものに違いないと言うことである。このリキュールの成分の中には北ベトナムのトンキン地方で取り引きされた高貴香料、アンバーグリスという動物性のものが使われている。これはマッコウ鯨の腸内に生ずる灰色ないし褐色のロウ状の塊のもので、これは官能的な香りを放つ。

 14歳のカテリーナが、このリキュールの魅力に魅せられて、フランス宮廷でも飲めるように、ポプロづくりの職人を従者に加えることを自ら決断したとは思えない。むしろ、カテリーナを送り出すメディチ家の大人たちが、ポプロ職人を積極的に従者に加えたのではなかろうか。

それを示唆することがらは当時のローマ教皇は、カテリーナの大伯父に当たるメディチ家のクレメンス七世であった。彼は多分、ポプロづくりをフランス宮廷に導入することに、積極的賛成したのではないだろうか。しかも、その香りが、アンリを陶然たる芳香の世界に誘い、閨房(ねや)でのムードが高まることに期待したのかも知れない。メディチ家は、ポプロを媚薬としてフランス宮廷に導入した、と言うふうに理解しても良さそうである。

 ちなみに、この時代、リキュール製造に携わる人間は、薬剤師であり、医師でもあった。リキュールが、錬金術の秘法の中で生まれ育った歴史を振り返ってみても、それは当然の成り行きと言うものだった。

 ただ、この薬剤師、医師と言う名称を、表面的に受け止めないことだ。中世は、権謀術数の渦巻くどろどろした空気が、上流階級の間を覆っていた。自分が第一人者となるためには、ライバルを毒殺することなど、決して珍しい時代ではなかった。

 毒殺の歴史は古い。古代エジプトで、トート神に仕える祭司たちは、核果系の果実から青酸(シアン化物)を抽出する方法を知っていて、権力者の求めに応じて提供していたという。青酸の他には、トリカブト、ドクニンジン、ケシなどが毒薬として用いられ、その後、砒素も毒薬の仲間入りをするようになった。

 一方、古代ギリシアでは、毒薬をもられたときの解毒の手段が、いろいろ研究された。いったん体内にのみ込まれた毒物の作用を逃れるためには、吐剤を服用して、胃の中のものを吐くか、灌腸をして消化器官からはやく体外に排泄することが有効と考えられ、特に吐剤の方に力点を置いて研究されたようだ。

 その吐剤のひとつに、クレタ島産ワインに、アテネ地方産の蜂蜜を混入したものがあった。現代のわしらの考えからすると、しぶくって酸っぱかったかも知れない当時のワインに、蜂蜜の甘さを加えた飲み物は、一種のカクテルと呼ぶべきおいしい飲み物になったのではないかと思うが、当時の人々にとっては、切実な思いでのむ解毒剤のひとつだったのである。

 毒薬の使用は、中近東地方が、古代から盛んだったという。そして、そこから東へは中国は、西はヨーロッパ各地に秘毒が流通していった。その流通の過程で、錬金術師たちの秘術と混交し、毒を持つリキュールや、解毒のためのリキュールの研究、開発がおこなわれていたことは疑いない。

 カテリーナは、フランスに嫁いでから、フランス式にカテリーヌ・ド・メディシスCatherine de Medicisと呼ばれるようになっていたが、義兄フランソアの謎の死去により、夫である次男のアンリが、王位第一継承者になった。そして、義父であるフランス国王フランソワ一世が1547年に死去すると、夫のアンリ・ドルレアンは、フランス国王アンリ二世として即位。カトリーヌは、フランス王妃の地位に就いたのである。

元に戻る