今回は、苗字について考えてみたいと思う。我々が現在名乗っている姓は、いったいぜんたい、いつ頃から使っているのだろう?明治になって平民も姓を名乗れるようになったと漠然とは知っていたのだが、わし自身しっかり把握しているわけでもないので、そのことについて少しお勉強してみることにした。
中世において、武士の名字(みょうじ)が固定する一方、下克上の気運に乗じて、中小名主(なぬし)層の中に名字を名乗るものが現れてきた。これを地下(じげ)の名字という。従来の名字をかすめとって、身分を偽る者が増え、偽系図も横行して名字の世界は混乱を極めはじめた。そして、名字地(名字は開発の地を根拠として起こっているのが多い)の意識は失われ、名字はいつしか「苗字」と書かれるようになった。
やがて、幕藩体制が成立すると、幕府は、苗字帯刀をもって武士の特権とし、庶民のこれをもつことを厳重に制限した。享和元年(1801)の御触書によれば、領主によって苗字帯刀を許された庶民は、(1)郷士のように由緒あって以前から許されていたもの、(2)奇特な行為によって褒賞として新たに許されたもの、(3)町年寄・庄屋・名主・御用商人・本陣(幕府公認の宿舎)などの役柄によるものなどに限られたものであった。しかし、近世後半期になると、諸藩は財政難を救うために、農民より献上金を求め、これによって種々の栄誉を与え、金額に達すれば苗字帯刀を許した。平戸藩などは、大工・日雇いに至るまで苗字帯刀を許したと言われている。
兵農分離の結果、大百姓となって公に苗字を名乗れなくなった本家筋の中には、依然として私(わたくし)に祖先伝来の苗字を伝えるものも少なくなかった。彼らは苗字の変わりに、何々左右衛門という、何大夫(だゆう)と言うように、代々同一の名前を襲名してその家格のあらわれとし、ときには屋号をもって苗字に変えた。
ただ、天領や農業の発達した地方に限り、幕末になると百姓たちは堂々と苗字を名乗り、奉公の報告にもこれを用いていたらしい。明治初年の苗字公称をまたず、庶民はその苗字を公称しはじめた。だが、その他の地方では、ごく一部の本百姓(租税を納めた地主、自作農)に限られていた。
参考文献・東京堂出版・日本史小百科「家系」豊田武著より。
明治政府成立後、実はしばらくの間庶民が苗字を持つことは禁止されており、明治2年(1896)4月大阪の「お達し」などにも顕著に現れている。しかし、欧米の先進国諸国においては、1804年に制定されたナポレオン民法典をはじめとして、各国の法制で家系の名としての姓を代々相続して名乗ることを義務づけていた。近代国家はいずれも自由平等を実現するため、戸籍や身分登記簿により、各人の身分を正確に記述し、個人の識別表示を確実にすることを求めたのである。
そこで明治政府としては、近代国家の体制を至急欧米並に整える必要から政府を支える軍隊の創出と、貢租の徴収を確保するため、是非とも個人の苗字の帰属する家族の名をあわせ記載するのが効果がある方法を考えた。
こうして明治3年9月4日、はい刀禁止の令に先立って太政官から苗字を許す布告が出された。3月11日には、「原田甲斐」などのような国名、大石主税などのような旧官名などを通称とすることが禁止された。ついで4年4月、戸籍法が制定され、翌年5月2月からこれが実施され、自然誰もが自分の苗字を戸籍に登録することになった。改姓名を自由に許すならば、戸籍業務にも、その他の事項にも支障を来すため、5年5月、大石内蔵助良雄と言うような通称と実名とを併称することを禁止してひとつの名前とした。
それまで苗字を名乗らなかった平民にとっては、苗字を届けると言っても種々の問題があった。このため政府は、8年2月、苗字を唱えることを全国民に強制、先祖の苗字不分明なものは、新たな苗字を設けるよう命令した。そこで地方では、役場の書記やもとの庄屋や名主(なぬし)、さらに檀那寺の和尚が頼まれて苗字作成の仕事を進めた。こうして名子・水呑層(主家に対して代々に属して労働にしたがった下級の農民・土地を持たない貧しい農民)の中には、主家の姓氏や庄屋・名主の苗字を一様にもらったりするのも珍しくなかった。今日、特定の村落に同一の苗字が密集しているのは、こうした事情があったためである。
現在、我が国で用いられている日本の姓(苗字)の種類は10万にものぼるであろうと言われている。一番多いのは「鈴木」2番が「佐藤」3番が「田中」で、わしの苗字「中野」は42番目に多い。中野は地名としても多いが、その起こりは野原を指すものの他に、中ノ庄、中ノ村などが、省略して中ノと呼ばれ、ノに野の字をあてた場合もあるという。古代には百済系の帰化族の中野造(みやっこ)があるのをはじめとして、出羽国東村郡中野より起こった最上氏の一族、武蔵国多摩郡中野より起こった武蔵七党の西党の一族、越前朝倉氏の一族、尾張に起こった源為義流、筑後上妻郡中野より起こった蒲池(かまち)氏族の中野氏など、各地より起こっており、特に西日本に多い。
明治政府が苗字を整備する過程で示したものは、家父長中心の家を強化することであった。このため、明治6年(1873)には、子弟の父兄と苗字を異にすることが禁止された。同年には分家が本家と別姓をとなえることが禁止された。明治政府としては、江戸時代に始まった家父長制の家制度を一層強化し、これを基礎として、天皇中心家族国家を樹立することを理想とした。
家父長権の確立とともに、女子が結婚してのちも生家の氏を称するか、夫の氏を称するかと言うことが問題になった。現代の我々には以外と思われるが、維新前まで、女子は生家の氏を婚後も称していた。これは公家でも武家でも同様だった。
その時代、欧米各国の現行法にならって、妻が夫の家の苗字を称することを主張する学者が次第に多くなり、明治31年の明治民法・戸籍法で妻は嫁いだ家の姓を名乗るようになった。
これまで生家・実家に埋没していた妻が独立の法人格を獲得したことは確かにひとつの進歩を示すものであった。しかし、そのかわり妻の行為能力に制限が加えられた。今までは生家の支配に属していた妻は今度は夫の姓を名乗ると同時に、生家から離れて家父長たる夫の支配に服することになり、今日の夫婦別姓の喧々囂々(けんけんごうごう)の論争に至るのである。
なお、日本の氏の特色は、それが近代家族の名称であるとともに、祖先祭祀と近代家族以外の血縁関係を象徴し、祖先一体的な家名意識を表現していることである。それに比して、ヨーロッパでは、キリスト教の普及により、祖先教的なものはあらかた廃止されたが、日本の家名にはなお神秘的な性格が残されていると言うべきであろう。