18話・第一の系譜ホテルのバーテンダー

 日本の正統派バーテンダーの系譜には二つの源流がある。ひとつはホテル育ち、そしてもう一つが外国航路育ち。それらの土壌で知識と技術を身につけたバーテンダーたちが、大正から昭和初期にかけて急速に広がっていったカフェや本格バーに進出し、そこで第三の系譜、街場育ちのバーテンダーを育んでいった。

 まずここで登場していただく方は、ホテルバー育ち、正統派バーテンダー第1世代の秋田清六さんです。秋田さんは大正時代の横浜のグランドホテルに勤務されていました。秋田さんのお話によれば、鹿鳴館時代より前、要するに明治20年より以前のバーテンダーは、まるで車引きみたいな格好をしていたそうです。紺の地下足袋、紺に染めたパッチ、紺の腹掛け、その上に白いバーコートを着ていた。草創期のバーテンダーは下衆の人間のする仕事だった。侍とか身分の高いものはそんな仕事はしなかった。どちらかと言えば車引きとか人足みたいなものが使われたそうです。

 明治時代から大正にかけて「ボーイ、コックが人間ならば、チョーチョ、トンボも鳥のうち」なんて言われたそうです。世間が認めてくれない職業だった。現代のバーテンダーの方は結構世間で認められている人もいますが、ちょっと前までは「水商売」、「バーテン」なんて呼ばれていたことを思えば、その当時なら当然のことかもしれませんね。

 秋田清六さんは、明治30年(1897)神田生まれ。その3年後に日清戦争、そして7年後に日露戦争。秋田さんが最初に丁稚奉公に行かれたのが、京都ホテル、13歳(1910)の時でした。その頃、東京や大阪にはビアホールはあったが、京都にはバーはおろか、ビアホールもなかった。当時、ウイスキーを飲める人は特殊な人たちで、普通の日本人がウイスキーに接しられるのはホテルのバーぐらいのものだった。その後、秋田さんは帝国ホテルで働かれ、そこでブロンクスを作ったそうです。それもオレンジがなくてミカンで作ったが、客である外国人は黙って飲んでくれたそうです。

 その後1918年の9月、横浜のグランドホテルに勤務先を変えられました。グランドホテルが海岸通り20番に開店したのは、明治6年(1873)9月、経営者はフランス人ボンナ。その後、イギリス人の手に渡ったが、スタッフはアメリカ人だった。バーはホテルの地下にあり、食べ物は一切なし、酒だけ。その頃、ロシア革命が起こる。宿泊客は100%が外国人。ただし、二人の日本女性が来ていた。それは、川上音二郎(オッペケペー節で自由民権思想を鼓舞した人)の奥さんの川上貞奴、そして西川千代さん(その後、サン・スー・シーのオーナーとなる)。その時代、20番の横浜のグランドホテルと11番のオリエンタル・パレス、この2軒に外国からの最先端の風が吹き込んでいた。なんと言っても横浜が一番、神戸が二番だったらしい。秋田さんが勤務されていた大正時代(アメリカは禁酒法の時代)は、東京ですら一般の人の服装は着物、しかし横浜のホテルマンの秋田さんはさすが、洋服を着ておられました。きっとその時代のモボ(モダンボーイ)だったんでしょうね。

 明治末から大正にかけて、京都ホテル、帝国ホテル、グランドホテルの酒場部門を歩いてこられた秋田さんこそ、ホテル育ちの意識的バーテンダーの第1代世代といえよう。秋田さんはその後、カフェ文化まっ盛りだった昭和初期の銀座に足を踏み入れ、そこでカフェとは明確に一線を画する形で育ちつつあった、街場の本格バーを舞台に、後輩たちに対する指導的立場の役割を果たして行かれました。

昭和5年の名門のカフェ

カフェ文化

 銀座で最初のカフェは、明治44年(1911)4月オープンの「カフェ・プランタン」。ただしプランタンは画家、松山省三を中心とするサロンのようなところで、いわいる本格的なカフェとしては、同じ年の夏に西洋軒の経営でオープンした「カフェ・ライオン」が第1号といえる。もちろん女性が主体で、当然バーテンダーが必要になってくる。カフェのお客のほとんどの人が、上流階級の人々、女給には酒の知識がないから必然的にバーテンダーが必要になってくる。しかし、その時代のバーテンダーのほとんどが、雇われているという感覚がなく、バーという西欧の文化を教えてあげているという気持ちが強かった。その時代の彼らの自信とプライドが感じられますね。その誇りが現在のバーの発展につながっているのではないでしょうか。

 さて、こうした大資本のカフェに対抗するように、カフェの女給から独立して、マダム一人の魅力で店をやっていく銀座の”バー”が現れるのである。カフェ・ライオンで、その美貌でならしたお夏さんが、「チト、お出かけくださいまし」と、バー・ルパンを銀座5丁目くやの糸店の地下に開店したのが、昭和3年であった(ルパンは現在も存在します)。「ライオン」は尾張町の角、現在の銀座4丁目角のあるサッポロビアホールのところにあったが、その半年後、その筋向かいに「カフェ・タイガー」が開店する。この二つのカフェは、それぞれ美人の女給を数多く揃えて、好ライバルとして張り合いながら、銀座のカフェ文化をリードしていった。

憧れの外国航路

 旅客機などなかった時代、外国航路を走る客船はその国のステータス・シンボルだった。旅そのものを満喫するための、ありとあるゆるサービスが盛り込まれていた。勢い、大正から昭和にかけてのバーテンダーたちにとって、そんな”洋上の一流ホテル”で働くことは何者にも勝る修行の場だった(文、伊藤精介さん)。

 東洋汽船は、磯野総一郎が、サンフランシスコ航路を企図して、明治29年(1896)に設立した船会社。三菱の日本郵船が、欧州、米国、豪州の三大定期航路を開設したのも明治29年でした。満十八歳の大山廣次さんがバーテンダー見習いとして、東洋汽船に入社したのは大正10年(1921)の春、サンフランシスコ航路「ペルシャ丸」に乗り込んだのは、まだゴールデンゲート・ブリッジなど、影も形もなかったアメリカ禁酒法の時代でした。大山さんのお話によれば、食前酒としてよく出たのは、なんと言ってもマティーニ、そしてマンハッタン。この二つは現在でも変わらず人気の高いカクテルですね。あと、アプリティフとしては、ベルモットやシェリーもよく出たそうです。食後はコニャック、甘味の強いリキュール、ペパーミント、ドム、キュラソーなど。スピリッツでは、グラスを軽くアンゴチュラスで拭いてジンを入れるピンクジン。ウオッカとかラムはたいてい何かとミックスして飲まれたそうです。

 欧米人は皆、いわゆる”マイ、ブレンド”を持っていました。だから仕事はとてもやりやすかったそうです。大山さんは、大正15年(1926)5月に東洋汽船が日本郵船に吸収合併されたのを機に、陸(おか)にあがり、カフェ文化まっ盛りだった昭和初期の銀座に足を踏み入れていく。そこで経験されたことや、あるいは戦後、進駐軍クラブで働いていた頃のエピソードは、その世界の後輩たちに語り継がれ、現代のバーテンダーの伝説にさえなっているという。

そして、街場のバーテンダーが誕生

 銀座のサン・スー・シーが開店したのは昭和4年12月。二ヶ月前にウォール街で株式が大暴落して世界恐慌が起こった。サン・スー・シーの客層は文士、陸海軍の軍人、お医者さん、船会社の人、そして大店(おおだな)の旦那、素人の女性は来ない。女性が来るとすれば、芸者衆かカフェの女給さん。経営者は先ほどグランドホテルの時に書きました、横浜フェリス女学院出身の才女、西川千代さん。彼女の妹さんが、カフェ・ド・パリに嫁いでいた。カフェ・ド・パリは当時としては画期的な洋酒主体の本格バーであった。オーナーの田尾さんは、貿易会社に勤めておられた関係で、ヨーロッパ生活が長かった。その経験を生かして、バーを経営されたのではないでしょうか。そんな縁もあって、西川千代さんはサン・スーシーをはじめられました。先ほど書きましたが、その時代にホテルのバーに行くほどの「ハイカラ、そして好奇心旺盛」の彼女のことです、バーの経営を思い立ったのも当然のことと思われます。

 しかし、それで生計を立てようなんて気持ちは、彼女にもその時代のバー経営者にもなかったと思われます。道楽とまでは言えませんが、そこには欧米に対しての強い憧れがあったのではないでしょうか。ちなみに、西川千代さんは、お店がひまなとき(実は1日のお客さんはほんの何人かで、ほとんど、ひまであった)しゃれた縁なしめがねをかけて、原書のページを繰られていたそうです。そんな思いで話をしてくださったのは、現在も現役で、銀座で「バー・クール」を経営されている、マスターの古川緑郎さん(大正5年生まれ)です(数年前に、87歳?で引退、いんたいされました)。

 その古川さんが、サン・スー・シに、見習いとして入店されたのは、昭和4年(1929)12月、古川さんが13歳の時でした。親方(その時代はチーフ・バーテンダーのことをそう呼んだそうです)は、日本郵船の外国航路でバーテンダーとして腕を磨いてこられた高橋徳兵衛さん(当時60歳代)、とてもきびしい人だったそうです。

 その頃は欧州航路などの客船で腕を磨いてこないと一流のバーテンダーと見なされなかった。ただその頃のお客さんは、とても洋酒についての知識が深く、若いバーテンダーは、お客さんからもたくさんの知識を吸収したそうです。その後、二代目バーテンダーは東洋汽船で活躍された、田村八十八さん。そして、古川さんが三代目バーテンダーになったのは勤めて11年目の24歳の時でした。

 ちなみに古川さんが修行時代にでた飲み物は、スコッチのストレートかハイボール、たまには水割りもでたが、意外にもロックはなかったそうです。カクテルは、現在とそんなに変わりませんね、マティーニ、マンハッタン、サイドカー、バカルディ、ダイキリなど。その頃の時代的背景は、昭和12年日中戦争開始、13年国家総動員法発令。昭和4年に設立された日本バーテンダー協会が、台湾バーテンダー協会と交友協定を結ぶ。昭和14年バー、待合い、酒類販売の大幅な制限、ネオンサインの禁止、パーマネントも禁止。翌15年にはダンスホールの閉鎖。

 そして太平洋戦争の勃発した16年には、バーテンダー協会の名称が「全日本酒保司報国会(なるほど)」に改称される。もちろんサン・スー・シーは店じまいしてました。古川さんは、日立の亀有工場で、戦車をつくる仕事をさせられていたそうです。だから終戦の玉音放送は亀有工場で聞いたそうです。ちなみに、見習い時代に、カクテルのレシピや注意事項を書き込んでおいたノートは、1月26日の空襲で焼いてしまったそうです。戦後、バーの営業が出来るようになったのは、昭和24年の5月1日なんですけど、サン・スー・シーが再開したのは昭和21年の後半、もちろん、表のシャッターはおろして、まるでアメリカの禁酒法さながらの状態だったそうです。

 その後、古川さんは運良く、銀座8丁目の現在の日航ホテルの裏あたりに木造二階建ての物件が見つかり「クール」をオープン独立されました。昭和23年2月のことでした。銀座で最初にバーを持ったのは古川さんが最初のバーテンダーだそうです。

 しかし時代はまだまだ騒然としていた頃、古川さんの決断の早さに驚かされますね。「クール」は7坪ほどで、カウンターに4人、椅子席に14人、ぎりぎり20人くらいまでは入れたそうです。開店当初のスタッフは古川さんと奥さん(なんと、古川さんはすでに結婚までしてました、さすが〜)そして、ウエイトレス(?)が常時2人いた(おそらくウエイトレスがいるのはカフェ文化の流れなんだろう、引用文、正太郎)。

 最初のころの経営は大変で、お昼も営業し、コーヒーを出していたそうです。そのコーヒーも、進駐軍が一度使ったコーヒーのかすを買ってきて、それを鍋に入れてぐずぐず煮込んで、それをさらに布袋で漉したものでした。砂糖はないからサッカリンでした(皆さん、サッカリン知ってますか〜)。

 それから現在の平成9年にいたる60年以上の間、古川さんはずっと現役を続けていらっしゃいます。もうすでにその人生は伝説になっているのではないでしょうか(まだまだ、お元気なのにどうもすいません)。

 ちなみに、私の街の若いバーテンダーの方に、古川さんにサインをもらったことが自慢の人が何人かいます。私も「富山県から来ました」と、いったら、古川さんは若い見習いバーテンダーかと思われたのか、記念にゴードンのキーホルダーをくださいました(私、年より若く見えるんです(^^;<いまから20年近く前の話です>)。そんなわけで、繰り返しますが、日本のバーテンダーの系譜には二つの源流がありました。その一つが秋田さんに代表されるホテル育ち、今一つが大山さんに代表される外国航路育ち。それらの土壌で知識と技術を身につけたバーテンダーたちが、大正から昭和初期にかけて急速に広がっていったカフェや本格バーに進出し、そこで第三の系譜、古川さんに代表される街場育ちのバーテンダーを育んでいったのでした。

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