さて、中野好夫が「文藝春秋」に「もはや戦後ではない」と言う文章を載せたのは昭和31年(1956)。樋口氏曰く、「S31年の暮れに銀座で私が驚いたのは、クリスマスイブの夜の人での多さである」と・・。当時の新聞によれば銀座の人出125万人と報道されているのだが(高岡の人口は17万だじょ)、さて、本年のクリスマスイブの銀座はどのくらいの人出なのだろう?
昭和36年に大学を卒業されたのだから、樋口氏は現在お歳は60才と思われる(平成18年では67・8歳頃かと思います)。その樋口氏が初めてトリスのハイボール、通称トリハイを飲まれたのが並木通り8丁目カウンター・バー「バッカス」か「ブリック」のどちらかだそうなのだが、残念ながら値段の方は覚えておられないそうで、昭和31年に創刊された「洋酒天国」を初めて手にしたのは「ブリック」と言うのは確かみたいだ。その時代、トリスバーの他に「オーシャンバー」「モロゾフバー」「アリスバ」そして少し遅れて、「ニッカバー」が進出した。
わしが大阪にいるときは、行きはせなんだが、S43年に遭遇した「アルサロ」は(アルバイト・サロン、要するにおなごがいるキャバレーじゃ)、銀座ではすでに下火になっていたようだ。8丁目の「天国」裏に、関西資本が開いた「明日では遅すぎる」と言うアルサロ喫茶と、向かいの千びき屋の隣に5ヶ月後にオープンしたグレートアルバイト?喫茶と言うふれ込みの「エデンの東」が大評判だった(店名がすごいじゃん)。そいで、そのすごい店名のアルサロ喫茶がどのようなサービスをするかと言うと・・なんだなんだ、コーヒーなどを注文すると社交嬢と呼ばれた女性が脇に座るだけの他愛のないものなのだよ。ところが、樋口氏はそう言うところにはいっさい出入りせずジャズ喫茶の「テネシー」やヌード喫茶の「アルビヨン」に通ったそうな。
ヌード喫茶と言っても今とは比べればかわいいもので(といって、わしゃしらんのだよ)、ウエートレスが腰と胸に更紗のような布で覆っていて、客がたばこを手にすると素早くマッチをつけてくれるだけのことだ。ちなみに、ダンス喫茶は入り口でダンス券を買うのだが、ジンフィーズとハイボールが一杯だけ飲めてダンサーと三曲ほど踊れるのだが、料金は700円也。氏の、その頃の荷役のアルバイトは7時間で700円前後だそうだから、学生の分際ではちと値が張ったのではないだろうか。
さて、皆さんもご存じだと思うのだが、テレビのCMでおなじみの柳原良平氏の「アンクル・トリス」が登場したのは昭和33年、樋口氏がその頃バーで飲んだのが、トリスではなく角の水割り(あったんだね)。また、ご学友たちと湘南や伊豆の海に行って回し飲みしたのが「ゴードン」のジンとは、なかなか豪勢ではあーりませんか(^_^)。
さて、銀座だが、昭和33年6月に、酒場の雑居ビルのはしり「ソシアルセンター」が銀座8丁目に完成、この頃から銀座の水商売の中心が西銀座の7.8丁目に移ったそうだ。昭和36年の春大学を卒業された樋口氏は、一人で飲むときは5丁目の「ルパン」のちかくにあったおでん屋「山へい」と、同じ路地にある「みつばち」に行ったそうである。昭和24年創業の「みつばち」は7人しか座れないバーだったが、オーナーバーテンダーの木村包正(かねまさ)さんに、酒の飲み方・作法を本格的に仕込まれたそうで、木村さんの許しを得ないで、隣り合ったからと言ってそのお客と気軽に名刺交換なんぞすると叱られたそうで、それはそれは厳しくしつけられたそうである。しかし、その甲斐あって飲み手としては人様に迷惑をかけたことはないそうである。
そうした銀座のカウンターバーでの礼儀作法の”いろは”のほかに、木村さんにはマーティニやギムレットの味を教えてもらった。しかし、創業45周年を迎える直前の平成6年に木村さんは肝硬変で突然他界された。
一方、氏は「山へい」の常連からは、銀座には実に様々な店があることを教わった。昭和32年に発表された川口松太郎の「夜の蝶」でモデルになった二人のママがいる「エスポワール」と「おそめ」が、昭和30年前後の夜の銀座を代表する店だということになっていたが、当時の銀座ではまだまだキャバレーも全盛だった。
さて、当時の二大キャバレーと言えば、昭和28年に開店した「クラウン」と、昭和31年に並木通り7丁目に開店した「モンテカルロ」だそうで、とりわけ後者は、屋上に輝くさいころ型のネオンサインが有名で、小林旭主演の日活映画にしばしば登場したそうだ。
さて、樋口氏が社会にでて、インテリアの仕事をして二年目の昭和37年には、三つの出来事があったそうだ。まず、名門キャバレー「美松」が保証給の高騰を理由に突然店を閉鎖した。後に「美松」の経営者は三越に土地を売り、赤坂見附に「ロイヤル赤坂」を昭和42年に開店。次の出来事は、度々マスコミに取り沙汰される銀座の店の名前が、「エスポワール」や「おそめ」でもなく、三好興業の「ラ・モール」に移っていたこと。これでオーナーママの人気で保っている酒場も衰退していくかと思われたのだが、変わりに大阪からしたたかなママが登場した。それが三つ目の出来事なのだが・・・。
その大阪のママのことだが、昭和37年の秋、氏がインテリア会社のショールームにいるとき、突然飛び込みで、塚本純子と名乗る中年の女性が入ってきた。そして、自分の店のシンボルマークをつくってほしいと切り出したそうである。その大阪から進出してきた中年の女性こそが、かの有名な日航ホテルの側、ビクトリアの階上の「じゅん」で、たちまち高級クラブとして銀座、いや日本でも一流クラブとしての名を馳せるようになった。
その後、氏は商社の方に職場を変えらるのだが、その時が「寿屋」が「サントリー」に社名を変更した昭和38年で、翌年に東京オリンピックが開催されたが(わしは中学二年)、この昭和39年に大阪の北新地のサントリークラブで、ボトルキープが登場したそうである。そして、氏が、商社マンになって5年目の昭和42年には、斜陽の兆しの強いキャバレーから転換した大型バーが誕生する。発祥の地である大阪ミナミでは「コンパ」と呼ばれ(わしは43.44年に大阪にいたにもかかわらず、存在を知ることはなかった)、東京では「マンモスバー」と呼ばれた。ちなみに氏よりも7.8才年下の団塊の世代より、このマンモスバーで初めてカクテルを覚えたと言われる。
最後に、ドルショックのあった昭和46年から田中角栄氏の「日本列島改造論」で土地ブームとなり、地価が高騰し、昭和47年頃の銀座は、バブル全盛期に劣らない異様な活気を呈していた。この頃、銀座で飲んだ後、赤坂の「ナイトクラブ」に行くのが外国人接待の定番コースと呼ばれ「サパークラブ」とも称された深夜の店がもてはやされたのだが(ちなみに、ホストクラブはだいたいが、23時が開店だと思うのだが)、”酒場の大衆化”と相反するこの遊びは、次第に滅びていくのであるが、その後第一次オイルショック、昭和52年クラリオンがカラオケを発売、急速に全国ブームに。閑散としていたバー、キャバレーとは対照的に、六本木界隈の”ディスコ”は若者達で超満員。昭和52年、カラオケ大流行。昭和53年、六本木のディスコブームは映画”サタデー・ナイト・フィーバー”の上映で、ピークに達する。第二次オイルショックの昭和54年、キャバレー・バーとは対照的に、スナックなどの深夜営業が増加し、若者でいっぱいのパブやディスコで”トロピカルカクテル”が大流行、そして昭和59年六本木などの新しい盛り場では「カフェバー」も登場し(その年高岡でも、カフェバー正太郎が登場)、それが「ショットバー」の先駆けとなる(居酒屋の過当競争もその頃でしょうか)。
この世に歴史があるように、そして各自の家庭にルーツがあるように、酒場にももちろん歴史がある。偉い学者さま曰く「どんなに歴史を勉強したところで、それがおのが人生に直結していなければ単なる知識の無駄使いに他ならない」と・・。
さて、話はわしの歴史になるのだが・・わしが酒場の世界に飛び込んだのはS43(1968)だった。飛び込まざるをえなかったと言った方が本当のところなのだが、決して夜の世界に憧れていたわけではない。ましてやバーとか、カクテルなんてことは全く知らなかった。さらに言うなら、酒を飲むと言うこと自体、飲兵衛の身内もいることだし良い印象は持っていなかった(と、言いつつ高校では酒もたばこもやっていた)。しかし幸か不幸か大阪にたどり着いてすぐに仕事を求めるためには歓楽街での「店員募集」の張り紙だけが頼りだった。そんなわけでわしは偶然が偶然を生んで、とりあえずバーの世界ではないが夜の世界に足を踏み入れることになった。
昭和40年代初期に夜の世界にわしはデビューするわけだが、30年代はまだまだかわいい僕ちゃんでいたわけで、その時代のことは書物に頼るか、ずーっと年上の先輩バーテンダーに話を訊くしかないだろう。そんなわけで、わしがS30年代の酒場状況を教わったのは昭和8年生まれの大先輩のバーマンである。残念ながらその方はおしまれながら一昨年65歳で引退され(現在は74歳になられたと思います!)、現在は悠々自適の毎日を送っておられるのだが、その人から以前訊いたところによると、S30年代の酒場の表象・風景と言えば、今ほど豊富な酒の数はないが、バーテンダーとしてはとてもやりがいがあった時代のように感ずる。もちろん「ボトルキープ」も「カラオケ」・「水割り」もない時代だ。注文されるものはトリスの「ストレート」か「ロックかハイボール」。カクテルはジンのボトルが空になるくらい「ジンフィーズ」が出たということだ。それから、その大先輩の話で印象に残ったのは「洋酒天国」と言う言葉だ。それはなにかというと・・・。
現S社の前身である<洋酒の寿屋>のPR誌のことで、引退されたその大先輩はその時代に「洋酒天国」のPR誌の名を、地元高岡市で開店させた自分の店の店名にしたのだった。そして、その「洋酒天国」が高岡市でのスタンドバーとしての嚆矢となった。
その頃は、ようやく電気冷蔵庫と電気掃除機が登場し始め、どぶろく、バクダン、焼酎の時代が終わって(焼酎はその後復活)、トリスバーがニッポン国の夜を北から南まで覆っていた(ちなみに、その他にはオーシャンバー、モロゾフバー、アリスバー、少し遅れてニッカバーがあった)。そしてPR誌と言うものは未だそんなに出ておらず、プレイ雑誌もなかった。ここにおいて寿屋は一念発起。飲んで騒いで、そのあげく深夜の駅のベンチにゲロするしか能のないその時代の若者達に「一石を投じた」ことになるのだろうか・・・。
さて、若者ドリンカーの民度(進歩)向上を目指して「洋酒天国(ヨーテンと呼ばれた)」の発刊を思い立ち、トリスバーに通わなければ手に入らないと言う、夜の岩波文庫?とでも言うべきか怪文書の出版と流布に至ることになったのだが、これがヒットし、終刊後も古書市場でバックナンバーが高額で取引されたとは本当だろうか?当時、なけなしのポケットをはたいてその小冊子を読みふけったヤングは、今や後頭部に落日の直射をうけて、健康のためと称して万歩計を腰にぶら下げて散歩三昧の今日この頃ではないだろうか(失礼)。
ところが、そのヨーテン(洋酒天国)、昭和33年4月から毎号折り込みのピンナップ・ヌードを登場させ、読者は胸をドキドキさせながら裸体を鑑賞したそうな。でも、今そのピンナップのヌードを見るならば、実におとなしいものであるのに驚かされるのだが、その当時としては驚天動地だったのだろう。そして、その後ヨーテンをルーツとして、「平凡パンチ」「プレーボーイ」等々の男性雑誌にピンナップが花盛りになるのだが。
ちなみに、その雑誌にエッセイを載せた人たちと言えば、もう錚々たるメンバーだ。社員であった開高健、山口瞳は別としても、吉田健一・星新一・安岡章太郎・犬養道子・安部公房・檀一雄・北杜夫・團伊玖磨・・これだけ名前を読み上げれば「ヨーテン」とはその時代の若者にどのような影響を与えたかは説明するまでもないだろう。
昭和30年代、若者に多大な影響を与え、知的好奇心をあおり、酒場がどのようなものであるかを啓蒙した「ヨーテン」。しかし、それはS40年代後半にして雲散霧消の運命にあった。それは皮肉にもS社の戦略である、「ボトルキープ・水割り」が飲み手としての作法をないがしろにすることになるのである。ただ幸運と言おうか、当然のことなのか、戦前より受け継がれてきたオーソドックスなバー(本格的バー)は、明治の時代に日本に伝えられたバー文化の薫陶を受け、その理想に殉ずるバーマン達により辛うじて平成の世まで守り続けられた。それが確かなものになるかどうかは、21世紀を担うバーテンダー諸氏の双肩にかかっていると言っても過言ではないだろう。
と、言うわけで、わしが夜の世界に足を踏み入れた頃、若者のバー(バーテンダー)の陳腐化が始まっていたように思える。それは以前にも述べたつもりだが、日本自身の成熟云々の問題でもあるのだが、ちょんまげをやめてたかだか百年ちょっとの日本がそう簡単に洋風文化をスムーズに受け入れると思う方がどうかしているので、いままでの試行錯誤は、いい意味での学習の期間ではなかっただろうか。これまでには近隣諸国より様々な影響を受けていた我が国、今日欧米文化をうまく吸収・消化し、日本人のものにするためにはもう少し時間を必要とするのだけれど、それはあくまで我が国の文化を理解した上での吸収・消化(昇華)であってほしいと思うのは、酒場のおやじである、わしだけなのだろうか。
参考文献→新潮社「洋酒天国」開高健 監修。
1980年代後半、トムクルーズの「カクテル」の映画がヒットしたあたりからカクテルブームが起き「ショットバー」なる呼び名もできました。それ以前はバーのことをそうは呼びませんでした(と言うより、カクテルを飲める若者達の店はありませんでした)。その後、バブルも崩壊したにもかかわらず「ショットバー」は現在も未だ存在していますので、あのブームは一過性のものではなかったということでしょうか。しかし、戦後のカクテルブームと言うのは、昭和30年代頃だそうですが、当時のブームと、今のブームとは、本質的に相当違うようです。30年以上前の日本のカクテルブームは、あれこそ一過性そのものだと言われています。
当時はまだ、日本人は味覚に対して定着性がなく、アメリカの食文化を取り入れることに忙しい時期でした。食べ物だって、「洋食」と言う言葉を使っていた時代です。今は洋食だなどと特別あつかいはしませんね。そんな時代と、今の時代を比べると洋酒酒場(BAR)が本当の意味で現在日本に定着しようとしているのは、、何となくうなずける気がします。
さて、戦後になって新たに登場した日本の酒場スタイルの一方に、良くも悪くも、銀座を代表選手とするバー、クラブと言った女性が接待する洋風酒場があります。これは戦争前の花柳界あるいはカフェが装いを新たに再生したものと考えられます。それとは対照的なのが、新宿風とでも言うべき種類の酒場です。一般に店の主人と対等な友人同士であり、女性も安心して一人で飲みにくることができ、ウイスキーと焼酎がとなりあわせにあり、殻付きピーナッツとお新香が同居しているような、今では全国どこでも見られるようになった種類の店のことです。
昭和三十年代はじめ頃、アメリカの名門出版社の編集長夫妻が東京にやってきたとき、作家の三島由紀夫は、銀座の高級バーの個人的享楽を忌避し、焼け跡の臭いの残る様な新宿の酒場、三丁目の「どん底」と当時西口ヤミ市あとにあった「焼き鳥キャバレー」とに案内したそうである(う〜ん、どんなんだろう)。 編集長夫妻は、アメリカの酒場と比べてこれらの店に見られる日本人の享楽のスタイルが明るく和やかなことに感心し、それを受けて三島自身はこれらこそ世界的水準にある酒場だと断言している。日本の歴史の中で初めて、女性も男性も対等に参加できるようになった酒場が戦後の新宿に誕生していたのである。
新宿の酒場の一番の特徴は、戦後二十年以上たった1960年代半ばに至っても、ヤミ市の臭いを残した店が、あちこちに固まりになって残っていたことにあるそうだ。千鳥街、新千鳥街、緑苑街、ゴールデン街、花園街、柳町、歌舞伎町三番街、屋台街、ションベン横町、七福小路、彦左小路などなど。その頃の新宿は、時代の若者をリードする盛り場であり、三越裏にあった風月堂喫茶店などがその拠点だと言われている。この時代の代表選手だった作家の野坂昭如やアングラ演劇の唐十朗たちは、焼け跡ヤミ市を自らの行動の指針とし、盛んに新宿で飲んだそうである。
参考文献→宝酒生活文化研究所「酒場の誕生」その他。