「12話・夢中になるとは」

 人生、ふと振り返れば、まわりくねった長い道、冷や汗だらけで自慢できることはあんまり頭に浮かばない。忘れもしない、自業自得で罰が当たって、もがき苦しんだ絶体絶命のあの時・・・。

 喜びもいくつかあったのだろうが、あまりにも平凡なことなのでことさら書くこともないだろう。あるとすれば、やっと独立して「もう誰にもあーだこうだと言わせないぞ」なんて、青いことを言っていた30代のはじめ頃。まあ、それが、冒頭言ったようにしっかり罰が当たったわけであるが、まあ49歳になった今でもまだまだ未熟なわしではあるが、しかし、今でも純粋な、忘れられない子供時代の思い出がある。

 たぶん、小学校の低学年だったと思うが、苦労の末やっとの事で自転車に乗れたことだ。まあ、たわいのないことかと思われるだろうが、今でもあの喜びは忘れることが出来ない。

 あの時代の子供達は、特別に子供用の自転車を買ってもらうような時代ではなかった。どこの子供でも大人用の自転車をまたがずに(まあ、足は届かないからね)斜めに「女乗り?」していた。ワシも女乗りをしながらけんめいに練習をしていた。当時、本道はともかく、村に入る道は舗装されていなくてまだ砂利道だった。その轍(わだち)がある砂利道で、わしら子供達はひざっ小僧にすり傷を作りながら懸命に自転車の練習をした。

 たかだか自転車に乗るぐらいに、と笑われそうだが、わしら子供には車の免許を取る以上に真剣だった。まあ、とにかく、練習のかいあってついに自転車は砂利道を倒れずに前に進んだ。

 何メーター進んだのだろうか?あの時の感動を今でも忘れることは出来ない。あの時の気持ちを振り返るなら、己の心の中には言葉で言い尽くせない感動があった。とにかく、誰かに勝ちたいからとか、誰かを見返してやろうとか、その様な相対的なものは存在しなかった。ただただ、己自身のために懸命にペダルを踏んだのをおぼえている。だからこそ、あの感動は、今でも色あせず心に残っているのだろう。

 人はとかく、相対的に物事を考えるようだ。いや、それこそが進歩する由(よし)なのかも知れない。競争相手が存在してこそ人生に目標が出来るといても過言でないかもしれない。己だけの世界で、相手無しに行う作業は自己満足な独りよがりな自涜(じとく)行為なのかも知れない。

 しかし、今にして思うのは、あの幼少の頃の、純粋な自分だけの唯我独尊な世界。人はいつしか他人を意識し、競争の世界に身を置く。しかし、どうなんだろうか・・他人の目なんてどうでもいいのではないか。誤解されては困るが、とにかく、なにかに夢中になるときはまわりを気にせず純粋に、そして、無我夢中になれ、ということを言いたいのだ。

 他人を気にして物事をやっても、一時は爽快感を味わえるだろうが「これでもか、これでもか」と、人の欲望というものはきっと果てしがないように思える。それ故、子供の頃のあの時のように、己のためにだけ、ただひたすらペダルをこぎ続け、足にすり傷を作り、そして事が成就したその時こそ、喜びは何物にも代え難い永遠の輝きを与えてくれるのではないだろうか。とにかく諸君、今と思ったら己のために「何か」をやりたまえ!

 このお話は、当店の常連「***Kさん」との話を元にして書きましたm(__)m。

00/10/6/AM4:20