11話・「大人になるために?」

 人は誰しも初恋というものを経験するのだけど、誰もしがそうとはいわないが、多分に夢見るみたいなほのぼのとした懐かしい思い出として心の片隅に残っているのではないだろうか(そう言われればそうかも知れない)。

 以前「恋を恋して」なんてタイトルをつけて、少ししゃべってみたのだけれど、今回はその「恋に恋する」とはどうのようなことなのか、また大人になるとはどういうことなのかを考えてみたいと思います。

 さて、人は誰でも思春期になると、とにかく16.7になったのだから大人のまねをして恋愛ぐらいはしてみたい。そして、自分の手近な誰か異性を選ぼうというみたいに、しゃにむに愛の対象を観念の中に創ってしまう。

 そして、その異性を自分の物語の中で想像を逞しくして思い描くのである。しかし、それがそのまま初恋になるかというと必ずしもそうはならない。

 本当の初恋になるまでに、初恋の苦しみの前に気楽な段階がある。初恋も恋愛の一種である以上、失恋に終わったり、片思いに終わったりするもので、そこには苦しみや悲しみが生まれてくるはずである。「恋いに恋して」いる間は、実は告白もないわけだからまだ苦しみを知らずにいられる。すべてが自分の中で解決がつき、自分の中で物語が完結できるのだ。そこにはただほのぼのとした子供らしい唯我独尊の喜びがあるのだけだ。とにかくその異性に実際には手が出せないままだから、すべてが可能性を残したままだ。現実の出来事ならその異性が拒絶するということも考えられるがそう言う目に遭うことを潔しとしない?すべて自分だけの考えでことが進んでしまう。それが「恋いに恋して」と言うことだろう。

 なぜなら、恋愛はやはり最初の段階でも、人間と人間のぶつかり合いで、そして、もちろん拒絶も考えられるし、それを押し返すことも考えられる。どんな清純な初恋だとしても、観念の中から飛び出す以上一つの人間の戦いなのだ。「恋いに恋して」の段階では、戦いというものが存在しない。

 とにかく、われわれが「大人になる」ということは、結局、自分の中だけで生きていることでなくて、人間が自分の人生の中で別な人間との関係をいかに処理していくか、そして、いかに他人を自分の中にとりいれるか、ということだろう。そう言う他人は他人と認めた上で成り立つ関係が人間の関係であるし、社会のつながりであろう。

 「恋に恋する」状態が終わったときこそ、人は誰しも不幸になる、いや「孤独」を知るのだろうか?なぜなら自分だけの今までの世界は崩れ去ってしまうからだ。そして、どうしても、自分一人で別の生活に向き合わねばならない。そこから段々と本当の意味での「恋愛」というものが生まれてきて、その恋による悲しみや苦しみが生まれてくる。その時こそ、人は子供時代の唯我独尊から、本当の意味において大人の世界に足を踏み入れるのではないだろうか。

 そう言う風に考えるなら、孤独というものを感じるからこそ大人であり、その孤独に対してのそれぞれの処し方が、大人の世界では非常に大事なことであることが理解できる。相変わらず子供時代のように唯我独尊では、人間関係においては結局のところ孤立してしまうのだろうね。とにかく、理屈が通るというのは眉唾物で、人間関係においては曲がりくねったしがらみの中で、人それぞれの感情の中を生きていくわけだから、なかなか一筋縄では行かないというのが我々の世俗世界ではないだろうか。

2000/9/17/1:30


 「大人になるために、しょの弐」

 上述したとおり、子供や少年期のはじめの頃は誰しもが唯我独尊の世界に平気で住んでいる。子供というものは自分が世界の中心だと思っている。そして、他人の世界を感じることが出来ない。自分だけで世界が満たされていて、お互い同士がガキ大将のような少年たちが一緒に遊んでいても、子供らはたちまち自分たちの世界だけが全世界だと思いこんでしまうことが出来る。

 ところが思春期になると、自分のまわりになにか大人の世界、他人の世界が急に広がってくるのを感じるようになるのだ。そうすると、その大人の世界と自分の世界との間に、非常な溝を感じるようになる。そして、その間にはほとんど断崖絶壁があって、そう言う世界は自分たちを見向きもしてくれないし、自分たちを軽蔑しているように感じられる。何とかその世界へ滑り込みたい、しかし、その世界は全部敵意に満ちて、自分を門の外に締めだしている。こう言うときは初めて孤独の感情が生まれてくる。

 かといって、大人の世界が思春期で思う本当に「大人の世界」かというとそうでなくて、たんなる子供の世界の延長線上にあるのだけれど、そのことは本当に大人になってしばらくするまで気がつかない。また、そう思うようになったときはもうすでに大人になっているのだろう。

 大人になるためにはどうしても背伸びというものがあって、それは未知であるところの、大人世界への不安なんだろうけど、むせて様にもならないタバコを吸ってみたり、ウイスキーを水で割らずにストレートでイッキしたり、はたまた似合いもしない地味なジャケットを羽織ったりと、いやはや、枚挙にいとまがないのだけれど。しかし、そうすればそうするほど大人たちには子供っぽく映るらしく、当の本人も知ってか知らずか、なにかしらの風当たりは薄々感じている。

 とにかく、大人のなりかけ頃は、形だけにとらわれて中身というものが全く感じられない。寛容でないのに鷹揚に構え、親切でないのに寛容ぶる、とにかく自分でないものにとにかく変身しようとする。世間が自分を受け入れないのも、異性に全くもてないのも、原因が大いなる錯覚である「背伸び」であることに気がつかない。本当の自分を素直に出せばいいのに、自信がない分背伸びする。とにかく「若さ」と世間でいわれるものは、素直に自分を表現できないという「背伸び」と言う麻疹(はしか)みたいなもんに罹った時期なのだろうか?2000/9/18/2:20

☆参考文献(というより、ほとんどが)・三島由紀夫氏の「恋愛講座」より。

10話・「神谷バーとスノビズム」

 ホームページをやり始めた2年前、日本の洋酒伝来のルーツを探ろうとTBS

ブリタニカ「定本洋酒伝来」(著者・藤本義一)を頼りに室町から明治まで辿り

着けたらと、一、二度アップロードはしてみたのだが、わしにはちょっと敷居が高い

書物だったのか、挫折してしまった(ちなみに、著者は作家の藤本さんではない)。

いずれまた挑戦してみるつもりだが、まぁ、とにかく番外編で明治時代の概観を

のぞいてみたい。

 さて、皆さんも覚えがあると思うのだが、よく時代劇で豪商が悪徳代官とギヤマンの

グラスで、赤い葡萄酒を酌み交わし悪事の相談をしてほくそ笑んでいる場面をテレビ

で何度か観た気がする、その酒は果たして、ワインなのかそれともシェリーなのか?

今でも疑問が残る。

 1883年(明治16年)、我が国で最初に開かれた鹿鳴館での舞踏会。招かれた

貴顕(身分の高い)の紳士淑女はどんな酒を酌み交わしたのだろう。ワインそれとも

シャンパン、ひょっとしてカクテル?でも、それは身分の高い人々の世界でしかない。

それでは、庶民が洋酒に接した場所はどのような所なのだろうか。明治・大正の文人が

郷愁をこめて回顧するところの浅草の「神谷バー」がその嚆矢(最初)とされておる。

残念ながら、わしはまだ訪ねておらんのじゃ。噂によれば「食券」を買うそうじゃな。

なんか食堂みたいじゃが、おもしろそうだし、いずれ行ってみたいものじゃ。と、言う

ことで現在も存在する酒場じゃ(21世紀に入り、訪ねてみました。本当に食券でしたね。ちなみに、年配のお客さんが多かったです。でも、やはり、わたくしには食堂としか映らなかったですね、例の電気ブランは確かにありましたよ。)。

 さて、その「神谷バー」、そのルーツを辿ればな・なんと、1880年(明治13年)

つまり、鹿鳴館が開館したより三年も前なのじゃ。これにはほんとに驚いてしまうのだが、

一体誰が、開国して間もない、ちょんまげを切ったばかりの我が国に洋酒を持ち込んだのだ・・・・。

 よくよく調べてみると、神谷傳兵衛なるお人の存在が明らかになった。このお人は浅草

広小路の吾妻橋寄りの三河屋に1880年の四月に「三河屋銘酒屋」を最初開いた。たん

なる酒の小売り屋ではなく店先で酒の一杯売りをしたのだが、これが後の「神谷バー」に

発展することになる。最も最初は洋酒ではなく日本酒を売っていたのだろう。しかし、傳兵

衛がワインの醸造を志したのは確かなようで、彼の造ったワインはその後「蜂ぶどー酒」に

なるのだが、それが壽屋(現サントリー)の「赤玉ポートワイン」のさきがけかも知れない。

特に有名になったのは、今では近くの酒屋でも手に入る「混成酒」、電気ブランデーの略し

た「電気ブラン」である。その時代の新奇な電気と、飲むとピリピリくるのをくっつけて名付け

られたのだろう。その頃の人々には電気は現在の最新の携帯やパソコンのようなもの

じゃろう。この疑似洋酒(残念ながら、わしゃまだ飲んでおらん)、東西の酒文化の橋渡しを

した過渡期の功績として、称えられて然るべきじゃろう。

 さて、「三河屋銘酒店」開店14年後の1894年(明治27年)本格洋風酒場「神谷バー」

が新装開店した。その構えは官庁か銀行の様である。写真を見る限りとても庶民的とは思

えないのだが、その店の造りとは裏腹に店内の雰囲気は身分階級によって飲み物が違う

と言うことはなかったようで、これまでの従来の風習が神谷バーでは打ち破られたよう

じゃ。わしは以前、庶民が洋酒を嗜むようになったのは戦後であると言った覚えがある。

どうも東京浅草に限り違うようじゃのう。それとじゃ、特に画期的なことは、日本人の酒文化

の核と言われる「献酬」、ようするに杯を「さしつさされつ」するやつじゃが、神谷バーでは

これを廃止したのだ(これは凄い)。

 もうひとつ、これも驚きなのだがなんと「cash on delivery」、そう一杯ごとに現金を

払うシステムだった。わーすごいすごい、なんて思っておったらつまみが湯豆腐、この

妥協的融合がなんとも素敵ではないか。これこそ日本人が遣隋使・遣唐使の時代から

培ってきたお家芸ではないだろうか。

もう一つ、大衆化が早かったと言われているのは「ビール」であろう。詳しくはまた今度

に譲るとして、ビアホールが繁盛したのは味の新鮮さもさることながら、酒場空間の雰囲気

も合わせて西洋憧憬に答えるだけの魅力があったからで、値段は相当高かったにも関わ

らず(日本酒の10倍だそうだ、ちょっと庶民には無理なのでは)「恵比寿ビアホール」

は開店早々から大盛況だったそうな。つまみは御多分に漏れず電気ブラン同様、佃煮が

メインだったそうな。さて、洋酒文化を論じるのに、もう一つ欠くことがでいないのは明治

末期から大都会の繁華街、特に東京の銀座に続々と現れたカフェの存在じゃ。このことに

ついては「バーテンダーのルーツを探せ」で少し触れているので割愛させていただく。

が、あえてもう少しつっこんだ考え方を言わせてもらえるならば、カフェの特徴は、文化的

な高踏性(俗っぽくならないということかな)ってことじゃ。これは意地悪く言えば、気取り

であり「スノビズム」に過ぎないものであるが(スノップとは気取り屋のこと)、異文化との

遭遇、接触が豊かになる過程では、多かれ少なかれそう言う現象が必然的に伴うのが

当然。最初はかたちから入るのは誰にもあること、ことさら眉をひそめることはないの

で、人間というものは好奇心があるからこそスノップになるのであって、そうするうちに、

年を重ね、いつしかそれが本物になるというのが本当のところではないだろうか。だから、

わしは、若い頃の「スノビズム」大いに賛成じゃの。若い頃は「かっこつけ」でいいのでは

ないか。それが、年齢を重ねるごとに「渋く」なるのが理想的じゃな。年とったら、かっこ

なんてどうでもいいなんて、いやですな。中年になっても人に見られていることを意識

しながら生きて行きたいもんじゃ。洋酒伝来とは少し話がそれたが、まぁ、全く関係ない

こともないだろう。とにかく、神谷バー、ビアホール、カフェこの三つが、現在の日本の

洋酒事情のルーツだということじゃ。21世紀を迎える今、洋酒を扱うバーも、西欧の文化

を吸収それを消化し日本独特の酒場が花開く日もそう遠くはないだろう。アメリカ・

ヨーロッパに憧れひたすら歩いてきた日本、特に戦後50年、団塊の世代はそれが顕著

だったのではないだろうか。21世紀はいったいどんな時代になるのだろう。現在、ボー

ダレスとか、グローバリゼージョンなどと喧しいのだが、歴史的に言えば、綿々と語り継が

れてきた物語がある我が国。こんな時代だからこそ、日本自身を見つめ直すのもいい機会

なのではないだろうか。世紀末は何かとあたふたするもので、誰もが経験できるものでは

ない。そんな特別な時期に遭遇できたことを感謝して、2000年問題などで、混乱も予想

されるのだが、兎に角、歴史の節目ってのをじっくり拝見させていただこうじゃないか。

参考文献→酒場の誕生(Takara酒生活文化研究所)

その9話・「罪深き酒」

 みなさ〜ん、さっそくですが「アペリティフ」、「ディジェステヴ」と言う言葉をご存じであろうか?

 この二つの言葉は18世紀から19世紀初頭まで「ヴァン・アペリティフ(食欲増進ワイン」、「リキュール・ディジェステヴ(食後の消化用リキュール」と銘打って、その時代の上流階級の人達にPRするための形容詞として使われていた。しかし、ほどなくて、アペリティフは、ずばり、”食前酒”、ディジェステヴの方も”食後酒”とする名詞として使われるようになった。そして、ヴァン・アペリティフのヴァン(ワイン)がとれたことにより、ワイン系統以外の食前にふさわしい酒、例えばアブサンなどのリキュールも、アペリティフとみなされるようになった。のちには、カンパリ、スーズなども、初めからアペリティフのカテゴリーで紹介された。

 さて、今回はその「アブサン」についてお話をしてみたいと思う。実は、そのアブサン、21世紀の今80年ぶりに復活したのだ。当店でもさっそく買い求めて(もちろんインターネットで)、その罪深き酒は往時の頃を彷彿させてくれるが如く、犠牲者を作りだそうと、虎視眈々とバックバーに待機しておる。あそうそう、他店からの風の噂によれば、イワンさん(仮名・誰だか言いたいけどいわんPぃょtr?)という方が、その生け贄になり、やっとこさ死の淵より生還されたばかりじゃ。そんな「おっとろしい」アブサン故に、80年間も封印されて、ずっと販売を禁止されておったのじゃ。

 フランスでは、1915年3月17日に禁止の法律が制定されたと聞く。生まれたのは、1797年。だから、その110年間の歴史を閉じ、カフェのアペリティフのメニューから姿を消したままでいたのだ。禁止された前年、ヨーロッパは第一次世界大戦の時代に入っていた。フランスのベル・エポック(古き良き時代)も、終盤を迎えていた。

 その第一次大戦は、1918年に終結し、フランスには平和が戻った。人々の中にはアブサンの復活を望む声が少なくなかった(ちなみに、アブサン製造に用いられる植物成分のうち、ニガヨモギに含まれているアブシンソールという精油が、精神系統を冒し、健康に有害であるという)。しかし、そう言う声に対して、ボルドーやブルゴーニュのぶどう栽培家、ワイン醸造家たちは強い非難を浴びせた。なにせ、1863年からフランスのぶどう畑を襲った「フィロキセラ禍」は、身の毛のよだつ恐怖の思い出だった。

 19世紀末、フィロキセラに耐性のあるアメリカ系の台木に自分たちのぶどうを接ぎ木することによって、ようやく再生の道を歩き始めたところだった。国民的飲料となったアブサンの禁止は、人々をワインの世界に連れ戻す好結果を生んでいた。彼らフランス人は「アブサンなんて、スイスという外国生まれの酒で、アルコール中毒患者をつくるだけ。ワインこそ、フランスの伝統を背負ったフランス人のための健全な飲み物」、と声を大にして主張し、アブサン復活を嫌悪した。

 フランス政府が、そう言う声にどれほど耳を傾けたかは、今になっては知る由もないが、ただ、1915年以来、アブサン製造に不可欠なニガヨモギのストックを徹底的に廃棄させ、密造を摘発し、アブサン蒸留用と見られる秘密工房の蒸留機を、発見しだい破壊していったという。

 こうした情勢に応じて、アブサン業界の主力ブランドだった「ペルノ・アブサン」の製造元ペルノ社は、アブサンに変わるものとして、ニガヨモギを使わず、アニス風味主体の新しい製品を開発し、第一次大戦終了とともに売り出した。酒名は「ペルノ」とした。

次回に続く。

参考文献・福西英三著「リキュールの世界」河出書房新社。

[その48でーす] /welcome:

 さて、この新しい酒ペルノは、水で割ると、やはり白濁した。これが、かつてアブサン党に懐旧の念を起こさせ、アブサン代替品として認知されるようになった。過去のアブサン党にとって、アブサンの魅力はその香味の特異さだけにあったのではなかった。緑色した透明なアブサンが、水を加えることによって白濁する不思議さに、儀式めいた神秘さをも感じていた。その儀式がペルノによって復活し、ふたたび楽しめるようになったのだ。

 同じ頃、南フランスで、アニスとリコリスを風味の主体とする酒「パスティス」が生まれ、南仏の人達に愛飲され始めた。この酒も、水で割ると白濁した。やはり昔のアブサンの風味をどこかに連想させる味だった。パスティスと言う名は、フランス語で”模倣する”を意味するパスティシュ(Pasticher)あるいは”模倣作品”を意味するパスティシュ(Pastiche)が語源で、”アブサンもどき”と言う感じで付けられた名前だという。

 ただ、これには異説があって、イタリア語で”できそこない”を意味するパスティッチョ(Pasticio)が語源だという人もいる。また”ごたごた””混乱”と言う意味もある。その意味でのパスティッチョと言う語は、1919年にマルセーユで隠語として使われ始めたという。そして、1920年代には混濁した飲み物を指すスラッグになっていた。そんなところから、水で割ると白濁する酒にパスティスと言う名が付いた、ということなら、パスティスにとってあまり名誉になる起源説ではないようだ。

 まあ、とにかく、こうした混乱の原因も、緑の魔酒”アブサン・シンドロームのもたらした後遺症と言っていいのかも知れない。

 さて、そんなフランス人をして、アブサンもどきまで造って緑の魔酒を思い続けた月日は、21世紀を迎えるにあたり、ついに復活という運びになった。まだ詳しくは調べてはいないが、アブサンと呼ばれて発売されたのだから「ニガヨモギ」は入っているのだろう。でないと、アブサンとは言えないだろう。ひょっとして、アブシンソールとう精油はうまいこと除去出来たのかもしれない。

 ちなみに、21世紀の罪深き酒は2本発売されており、一本が薄い緑色、もう一本が薄青色で、後者の方が60度もあり、見た目がリキュールっぽいのでつい侮ってしまうので、充分気をつけてもらいたい。この緑と青の魔酒、20世紀をジッと休憩していた分、21世紀は思う存分暴れるのではないかと思うが、少なくともペルノを水割りでやっていたように、ゆめゆめ侮って飲まないよう、肝に銘じなくてはいけない。というわけで、21世紀のアブサンの復活を祝して、( ^_^)/□☆□\(^_^ )カンパーイ!