7話・「ジン横町とロンドンジン」

 最近、酒に関する本を読んでいて(フランスにおいての19世紀のアル中について)、その冒頭のところに気になる箇所があったので抜粋してみる。

 ”産業革命の勝利を目の当たりにした19世紀は、あらゆる人々に飲む権利を付与した世紀、飲むことの民主化が行われた世紀と言える。また”蒸留器が、自家用ブランデー製造器がキャバレーで普及した19世紀には、飲む文化、すなわち「液体の美食法」が一般化し、それと同時に多様化したもので、19世紀には「食通」「酒通」をも生み出した。

 ”19世紀以前は、まれのケースとして、祭りの酒を飲み過ぎ、いつも陽気で賑やかな酔っ払いが病的な症状を示すことはあったが、「アルコール中毒」と言う病気が発見されたのは19世紀の半ばであり、それ以来戦争ーペストーコレラと言う古典的な三悪をしのぐ「社会悪」となっていった”

 上記の部分を読んでみて、酒が人々に害を及ぼしアル中が増えたのは、てっきり

産業革命で「連続蒸留器」が登場した19世紀に、大量にスピリッツを製造し始めた

のが原因だとばかり思っておった。しかし、わしの手元にあるラルース酒事典の

「ロンドンジン誕生」の説明をよくよく読むと、イギリスに限りそうではないことが

わかってきた。

(イギリスの工業生産力は18世紀末から19世紀前半の産業革命により飛躍的に

上昇し、ナポレオンの没落とともに、イギリスの商品はヨーロッパ大陸に広がり

”世界の工場”と呼ばれる。その世界に先駆けた産業革命。しかし、17世紀の市民

革命以来、国内市場は統一され工業生産の発達や植民地貿易の発達によりすでに産業

革命の下地ができていたイギリスでは、囲い込みなどで小作地を失った貧農や没落した

自営農民達の多くは、都市へでて工業労働者になっていった。そして、彼等下層階級

が都会で見たものは過酷な労働条件と故郷への郷愁ではなかったか)。

 さて、16世紀の末に、オランダ人達はイギリスにおいて杜松(ねず)の蒸留酒を

商品化した。これはオランダでジェネヴァと呼ばれているもので、「シーダム」

または「オランダ」という名称のもとに、ポーツマス、ブリストル、プライマウス

ロンドンなどの港町から市場に送り出されておった。

 当時、イギリスでは蒸留酒を製造するには、国王の許可を願い出さねばならな

かった。1688年、宗教がらみで、イギリスの国王にオランダのオレンジ公

ウイリアムが就いた(彼はジェームス二世の娘メアリーの夫だった)。ウイリアムは

妻を通してイギリスと関係があったこと以外に、カトリシズムを看板にした大陸

制覇政策を露骨に追求していたルイ14世のフランスに対して、独立したばかりの

小国オランダを率いて抵抗していたこともあって、フランスとカトリシズムの悪夢

に取り憑かれていた当時のイギリスにとって、ウイリアムはまことにふさわしい

指導者であった。さて、ウイリアムが出した最初の勅令の一つは、外国からの

蒸留酒の輸入を禁止することじゃった。これは国内の穀物の蒸留酒生産の保護

を目的とする措置だったが、その頃の議員はほとんどが土地所有者層で、自らの

穀物を保証してくれる王の勅令を支持した。そして許可を得た土地保有者達は

自分たちの作った穀物を蒸留し、酒造業に乗り出すのであった。それも国王の

国の酒ジェネヴァに似た酒を造りはじめ、これをオランダ名を縮めて「ジン」と

名付けた。穀物(グレーン)の販売を促すために蒸留製造権は自由化され、酒税

も大幅に引き下げられた。そして議会はあらゆる蒸留所を稼動させ、蒸留酒税を

著しく引き下げて、ジンを奨励した。これこそが「ジンの時代」と呼ばれるもの

なのだ(1690〜1750年)。こうして至るところで、ありとあらゆる方法で

ジンが造られるようになり、あらゆる人々が、薬種屋、床屋?タバコ屋、酒屋は

もちろんのこと、沿道の乞食に至るまで、ジンを売ることになってしまった。

そのおかげで、ジンはビールよりも安くなってしまった。ジンを飲むと直ちに酔う

ことができ、都合の悪いことに、貧しい惨めなことを忘れさせてくれるのじゃ。

 現在と違い、貴族、ブルジョワを除けば、庶民のほとんどがたいした娯楽もない

時代、一時の「憂さ晴らし」をするために酒を飲むと言うことは至極当たり前の

事ではなかっただろうか。庶民、大衆の時代は遥か20世紀まで待たねばならない。

必然的に、ジンの消費量は驚くべき速度で増加し、1690年の約200万リットル

が1729年にはおよそ10倍にもなってしまった。その結果は当然のごとく壊滅的

なものとなる。一時議会では税金によって社会秩序を保とうと奔走したのだが、その

ジンの法律は不評を買い、ほとんど守られなかった。それどころか、この法律に

よって地下蒸留所まででき、粗悪なジンを造り健康に害を及ぼすものまで造り出す

有様だったのだ。まるで、20世紀初頭のアメリカの禁酒法時代そっくりではないか。

そのいかがわしい酒は幻想的なラベルが貼られて無制限に売られたが、酒店経営者

達の尽力により、一応収束はしたのだが、人々の不評不満はいっこうに納まらなかった。

議会は遂に譲歩して、以前の低額の税金に戻した。

 この時代、ホーガスと言うお人が描いた「ジン横町」なる版画が残っている。その

版画には、つぎのように書かれている。「1ペリーで微酔、2ぺりーで泥酔、棺桶用

の藁は無料」。その比喩には政府の無為無策への強烈な風刺が込められている。

 1751年になると議会でも新しい法律が制定された。それにより業者が製品の

の質を改善するようになるのだが、、ジンの大量消費とその弊害が続く中で徐々に均衡が

が成立するようになるには、その後1世紀を待たなければならなかった。

 19世紀初頭になると、新しい現象として「ジンパレス」が現れる。つまり、ハイカラな

近代的な店になった。華美装飾が施された建物ができて、そこには新しい大衆(プロレタリ

アート)が押し掛けるようになる。これはビクトリア女王の大英帝国と符合し、「ジン

パレス」はその栄華の象徴なのだろう。そのことを示唆したのはかの有名なマルクスなの

じゃ(1849年)。

 その頃、ジンはストレートで飲まれることはなくて、水で割ったり、兵士達はソーダー

と一片のレモンを入れて飲んでおった。植民地に行った人達はキニーネ入りの水をジンに

加えて飲むことを好んだ。ジンは最初甘味や着色もされたが、19世紀末になると甘味は

余り喜ばれなくなっていく。そして次第に味の軽い辛口のものとなる。第一次大戦前から

ジンの味は今日我々が接しているようなもの、つまり「ロンドン・ドライ」の味になった

と言うわけなのじゃ。いやはや、新興ブルジョアジーの商売に賭ける意気込みが、庶民で

あるプロレタリアートのやるせなき思いを慰めるために、そのブルジョアジーが造るジン

によって慰められる。それだけならいいが、過度の飲酒によって悲惨な状況を造る。その

延長上にあるのが、20世紀初頭のアメリカでの「禁酒法」と言う壮大な実験だった

のではないだろうか。その結果は周知の通りなのだが、酒を扱うことがいかに神経を使う

ことであるか、改めて思い知らされるではないか。正しく嗜めば、すばらしい時間、空間

を与えてくれる魅惑の液体。しかし、扱い方を誤れば取り返しのつかないことも起こり得る。

その様なことも踏まえながら、酒と付き合い楽しんで頂けれるなら、我々、酒を生業にする

者にはとって、望外の喜びではないだろうか。

☆注釈

古くからウイスキーは麦芽と水のみでモロミを造り、これを発酵し、”ポットスチル”

と呼ぶ簡単な蒸留器で蒸留したもので粗野ではあるが特有の風味を持ち、個性の強い酒

であるために大衆性に乏しかった。そこで、1832年、エーニアス・コフィが新しい

タイプの蒸留器しかもポットスチルよりもっと能率的な連続式を発明した。これが今日

パテントスチルのうちのコフィスチルと呼ばれるものである。これを用いると麦芽以外

の穀物の使用が可能で収量もあがり、合理的な操作ができる。しかし、出来上がりは中性

アルコールに近いものになる。

参考文献→ラルース酒事典(柴田書店)、酒飲みの社会史(unite)、酒の事典(東京堂)

(平成)11(年)4/11

第8話・「バーテンダーとばあてんだあ」

 突然だが、わしは最近48才になった。人生の目標「50才」に近づいた。

昔の人は、50才が一応人生の終着点だと考えていた。それが今では、平均寿命

が70才から80才ぐらいまで驚異的にのびてしまった。大変喜ばしいことだ。

しかし、皆様も気付いているようにそのお年寄り達は戦前生まれ、「大正、昭和

初期」生まれの方々じゃ。わしら団塊の世代がその様に長生きできるとは限らない。

わしらの小さい頃はともかく、社会にでた頃は食生活も相当変わってきていた。

インスタントラーメンは、もっと前だが、カップヌードル、マクドナルドは確か

わしが二十歳(昭和46年)の時に登場したと記憶している。それとダイオキシン

などの環境面の問題じゃ。あれやこれやと考えると、それは「推して知るべし」

だろうな。いやはや、戦前の方々はわしらとはまた別の日本人なのかもしれん。

食い物も変わり、考え方も変わってしまった。かといって、過激な漫画家みたいに

戦争に行ったお年寄りを全面的に肯定する気はないがの。でも、わしは少なくとも

あの頃の若者達を、おっとと、話が横道にそれそうになった。そんな話しをしようと

思って「新番外編・1」を始めたわけではないのじゃ。今回は、世間の皆様方が

どのようにして、今の職業を自分の天職としたか、そして、その動機、きっかけは

如何様なものなのか。そのところを検証しようとして筆を執る気になったのじゃ。

 さて、わしは最近名刺を作った。その名刺の肩書きは「ばあてんだあ」となって

おる。なにがおかしいのじゃ、これはまじなのじゃ。ウソだと思うならメールに添付

して送ってもいいぞ。ではなぜ「ばあてんだあ」なのか。わしはいままで、「自称」

バーテンダーだと称してきた。なぜ、自称かというと、わしには「師匠」がおらん。

すべて自己流でやってきた。もちろんこの世界は30年もやっておるが、立派な

バーテンダーのように、カウンター一筋とか、カクテルの大会で何度も賞を取った

とかということがない。店を持った15.6年前から徐々によその有名なお店など

を訪問して、そのお店の「空気」を嗅ぎ、その雰囲気を記憶に入れてそれをコピー

しながら今日までやってきた。だから正直自信がない。もちろん挫折しかけたことも

ある。しかし、40才になってなぜだろう開き直れた。ただ、確たるものがない。

開き直れたと言っても、それは商売をやり続けることに関してのことで、バーテンダー

としては、先達諸氏の今まで辿ってこられた道のりを書物などのを読む毎に

正直、こりゃまだ「バーテンダー」は名乗れんなーって思うのである。店をしたとき

名刺に不遜にも「bartender」なんて刷り込んだ怖いもの知らずのあの頃が恥ずかしく

もあり、また懐かしい。そんなわけで、とりあえずは後何年間は「ばあてんだあ」で

通すつもりじゃ。もしお店にご来店の折りはぜひ、わしの名刺を土産に持っていって

ほしいものじゃ(なに、そんなものいらん、あそ、ふん)。

 さて、さて、前置きはそのぐらいで、本題に入ろう。もうみんなは知っていると思うが

わしは富山県高岡市で繁華街の中心から離れたところで小さな酒場を営んでおる。すこし

も儲かりはせんが、べつにいやな仕事ではないのでストレスもためずお客さんに言いたい

こと言ってかろうじてこの不景気の中生き延びている(ぎりぎりなんじゃ)。独立する

までは、何軒の店を渡り歩いてきただろう。協調性がないのか、直情径行が災いするのか

たいていの店は1年と持たなかった。まぁ、それでも自分で店をやるようななったら

どうにか飯ぐらいは食えるようになった。幾分この仕事が性にあっているのだろうか。

多分また生まれ変わっても夜の世界で生きているかもしれん(あえて、バーだとは

いいませんよ)。

 さて、皆さんはどのようにして現在の職業を自分の天職にしたのでしょうか。ある人は

懸命に努力して、自分の夢だった職業に就いたでしょう。またある人は、努力したにも

かかわらず、夢破れ、紆余曲折を重ねながらどうにか現在の仕事を見つけ今に至る人。

またある人は、今、その夢が見つからず途方に暮れ藁をも掴む人生を歩んでいるかも。

とにかく、人は生きていくためには職を見つけなくてはならないのだ。そのために

人は苦しみ悩むのだろう。その苦しみ悩むはるか彼方に、微かな光を見いだせるのなら

それは苦しみ抜いた甲斐があったというものなのだが・・・。

今からお話しするのはその甲斐があった方の人生なのだが、わしも含めて、バーテンダー

をめざす人の中に中・高生の時分からバーテンダーをめざしていた人はいるだろうか?

たとえ老舗のバーで育った人でも、まだその頃はバーテンダーになるなどと言うことは

思わないのではないだろうか。それがじゃ、その希有な方がわしらの尊敬するバーテン

ダーの中においでになるのじゃ。一応物語のストーリー上、名前を伏せて置く?生まれた

土地もここでは内緒じゃ。ちなみに、人口は千人程度の小さな町に住んでおられた。

 その人のお話によると、昭和30年代の初期、その人が中学1年か2年生の頃、

なんと、自分の兄上がつくる「フィズ」を家で見ていたと言われる(味見もしたかも)。

それもそのはず昭和30年代というのは日本中が「カクテル・ブーム」の真っ直中だった

そうで、その兄上も家に「ホーム・バー」を作られたそうじゃ。高校の頃になると、もう

それでは満足できなくなり、学校の目を盗んで町のバー・カウンターでシェーカーを振る

様になっていたそうだ(あのお顔から見て、想像できんな)。いずれは東京に出て

バーテンダースクールに行こうと思っていたが、母親の反対にあい、あえなく断念。

しかし、その後高校の先生の紹介で東京の鉄鋼会社に就職。そして、昭和38年に

青山大学の二部に入学。だが、会社の方は性に合わず挫折。その後、どの仕事について

も長続きせず、結局大学もやめてしまう。しかし、バーテンダーの夢は捨てきれず、つい

にその道にはいる。それからもまた紆余曲折の連続だ。最初は、あの有名な(知ってるぜ)

福富太郎さんのキャバレー「ハリウッド」に入店(昭和41年)。ちなみに、その頃は

バーテンダーが修行を受けた親方に「どこそこへいけ」と指令を受けたら絶対だった。

たとえキャバレーであろうが、北海道の札幌であろうが行かねばならなかった。有名な

札幌の「山崎」のマスターも親方の命令で札幌に行かれ、現在に至っておられる。

 カクテルブームの最中、キャバレーでもカクテルは相当出たようだが、その人は

見習いのためなかなかシェーカーを持たせてもらえなかったそうだ。その後女性のいる

バーにも行かれたのだが、満足できず、悶々とした日々を過ごされる。どうしてもホテルの

バーに行きたかったそうじゃ。しかし、知り合いも少ないその頃、どうすればホテルのバー

に行けるのか見当も付かない。そこで、バーテンダースクールの昼の部に通うことになる。

そのことがその人の運の付き始めかも知れない。そのスクールで、丸の内の「東京会館」

を紹介される。その人のお話によると、日本における初期の洋酒の普及経路は、外国航

路の客船とホテルとに分かれると言う。洋食の普及経路と同じである。当然の事ながら

バーテンダーもその二系統に分かれ、東京会館のバーは大正11年の創業当時から随分

長い間、ホテル系バーテンダーの草分け的存在だった。その当時は「本多春吉」という

有名な人物がチーフ・バーテンダーを勤めていた。ちなみに、伝説のバーテンダーとは

まず、浜田昌吾。彼は銀座の「キャバレー・ライオン」にいたときに「ミリオンダラー」

と言うカクテルを作って一世を風靡した。もともとは横浜のグランドホテルでアメリカ人

のチーフ・バーテンダーに日本で初めてカクテルを教わったという伝説の人。グランド

ホテルでその浜田さんの下にいたのが本多さん。もう一人、朝倉信次郎。彼は生粋の

帝国ホテルのバーテンダーで、17才の時から帝国ホテルにいた人(帝国ホテルの系列に

東京会館がある)朝倉、浜田、本多、その三人が日本のバーテンダーの神様と言われる。

 東京会館に勤めたその人は、勤めた当時は知らなかったらしいのじゃが、東京会館

は東洋一のレストランと言われ、戦後進駐軍に接収されてGHQの将校クラブになって

いたときは、酒がふんだんに使われると言うことで、当時の名だたるバーテンダー達が

何人も集まってシェーカーを振っていたこともあったそうな。その人は昭和41年の秋

から48年まで、ほぼ7年間仕事をこなされた。そろそろ名前を出さなくてはなりません

昭和49年の初めに資生堂パーラーの「バー・ロオジェ」に請われて、めでたく入社。

そう、そのお方とは、現在銀座で「テンダー」を経営なさっている上田和夫氏です。

上田氏は言わずと知れた全国にその名を知られる名バーテンダーであられる。若い

バーテンダーの中には尊敬する先輩に上田氏をあげるものが多い。それを裏打ちする様

な精緻な理論、人柄などを考えるとうなずけるのである。しかし、上田氏の前でゆめゆめ

言ってはならない言葉がある。それは「バーテン」という名称である。中学生の頃から

憧れていたバーテンダーという名称。それゆえ、蔑称を含んだ「バーテン」という呼び名

を、上田氏はなによりも嫌うのだ。その名称を消滅させるのも氏の使命なのかもしれない。

 バーテンダーとは、バー(酒場)とテンダー(見張り番)が合成されたアメリカ生まれ

の言葉。テンダーには、優しくという意味もある。アメリカでは自殺志願者の最後の話し

相手はバーテンダーという話しもあるくらいだ。つまり、本来は剛毅と繊細さを兼ね備えた

大人の人間でなければできない職業なのだ(だからわしは”ばーてんだあ”なのじゃよ)。

それが、バーテンと略したとたん、本来の意味は失われて、どこか見下したイメージに

なってしまう(昭和3.40年代に下積み経験した人は、その呼称の氾濫を経験している)。

 そんなわけで、上田さんは中学生から憧れてきた職業を追い求め、まわりくねった長い道

を数々の困難に出会いながらも、くぐり抜けてこられた。人間、信じたことをやり通せば必

ず道は開けてくるという、見本のような人生ではないか。諸君、何事も諦めず「夢」は布団

で観るものだなんて、寝ぼけたことをいってないで、ほんとの「夢」を実現しようじゃないか。

 わしも、中年「天命を知る」年頃になったのだが、心は「起つ」の30代にもどり、はやく

「バーテンダー」と言う肩書きの名刺を作れるように更に成長するつもりじゃ。みんなも

中年のおじんに負けぬように、どうかさらなる発展をめざして欲しい(長文失礼)。

 それでは、この辺でお開きとしよう。ー参考文献は成星出版「tothebar」その他ー

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