第6話・「カクテルの王様・マーティニ」

 皆さんは、カクテルの王様「マーティニ」をご存知だろうか。もちろんBARに

足繁く通うお人は先刻ご承知と思うが、巷でとかく話題になるのがこのマーティニと

言う怪物カクテルなのじゃ。どこが怪物かというと、まぁ、これから話すことにちょっと

耳を傾けてもらいたい(マティニーではなく、マーティニとここでは言います)。

 このカクテル、わしらが崇拝してやまない「古川緑郎」さん、昭和4年からこの業界に

いらっしゃるのだが、その古川さんがおしゃるには、戦前・戦後を通じて、マーティニは

「カクテル十傑」のナンバーワンとおっしゃる。常に、ギムレットなどを引き離して、

ぶっちぎりのトップらしい。そこで「カクテルの王様」なんぞと呼ばれておる。

 ところがじゃ、このカクテルには「定番」のレシピが実はないと言われておる。百人

のバーテンダーがいれば、百の味わいがあるという。だから、ドライだろうがアンチドライ

だろうがかまわんらしい。

 ところで、そのマーティニの作り方なのだが、まずミキシンググラス(でかいグラスじゃ)

に氷を入れて、パースプーン(混ぜる棒じゃ)を回しながらステア(攪拌)する。これが基本

だが、ドライとは両者(このカクテルはジンとベルモット”ワインに薬草が入っているもの”)

の割合に関することで、ジンの比率が高くなるにつれ、ドライ方向へ移行する。ドライ化の

果てに、ベルモットの瓶を隣に置いただけで、その味を思い描きながらジンを飲むのが最

高のマーティニだと、漫画・レモンハートの「めがねさん」のように、まことしやかに語る

御仁もでてくる有様。もうほとんど「観念」の世界と言ってもいいだろう。想像力なくして

マーティニは飲むべからずなのだろうか・・・

 しかし、百の味わいがあるのだから、なにも「ドライ」でなくてはいけない、ということ

もないだろう。ドライ信者諸姉諸兄には気に入らないかも知れないが、それぞれが好きな

マーティニを飲めばいいのではないかと思う。

 さて、そこでジンの「保存」に関してのことじゃが、日本のマーティニの父として、今も尊敬

を集めている今井清氏によると昭和29年、銀座並木通りのバーで遭遇した「コロンブスの

卵」を聞いてみると・・・

 今井氏の話によると、今こそジンは冷やすのが常識になっておるが、その頃はまだジン

を常温でお客様に出していたそうじゃ。その銀座の店で、今井氏は初めて冷蔵庫に冷やし

ジンを発見したそうで、それはきっと、カルチャーショックと言うのだろうか、それまで

はジンを冷蔵庫に入れるなどということは、思いもよらぬことだったらしい。

 さて、その冷たいジンを口に含むと、丸みがあり、これをマーティニに生かしたらどうか

と、その時に閃いたそうである。ジンを如何においしく飲むか、ここにマーティニの「永遠

の課題」があるのではないだろうか。

 酒棚にある常温のジンは、口に入れただけで、カーッとする。ところが、冷やすと香りは

若干抑えられるが、まろやかになる。しかし、そうすると飲みやすくなるために、ベルモッ

トがじゃまになる。ここにドライ化の原点がありそうだ。本命のジンに抵抗感を感じなくな

ったら、よけいなものは少ないのに越したことはない、と言う理屈になる。ところが今井

さんは、昨今のマーティニ事情に不満があると言われる。それは、ジンを冷やすのに冷凍

庫を使用するバーテンダーが現れていることである。実はわしも冷凍庫派なので、興味

津々なのだが、そこのところをもう少し今井さんにお聞きすることにしよう。

 「冷凍庫、これは行き過ぎですね。口当たりはよくなるけれど、ジンそのものの香りが立

ち上がってこない。冷凍にするならストレートでやるべきでしょう。いったん冷凍したもの

をミキシンググラスや氷で温度をもどして、果たしておいしいものができるだろうか」と、

そのようにおっしゃっている。う〜ん、そう言われればそうなのかなーと納得しなければい

けないのだろうが、正直、そこまで深読みはしていなかったというところが本音かもしれん。

 旗色が悪いところで、冷凍派の一人である「ル・クラブ」の斉藤氏。彼は数年前までカウン

ターに入っていたバーテンダー経験者だ。

 さて、彼のマーティニのやり方は、冷凍したジンをそのままグラスに注ぎ、ベルモットを

少々加えるだけで、ステアーしないで出す「超ハード」なマーティニを作っていたという。

ついでに、もう一つ、これは斉藤氏のものではないが、「リンス」ってのもあるのじゃ。

リンスとは、ミキシンググラスに注いだベルモットを捨てることで、その後に、氷の表面

に残っているベルモットと、そこに加えたジンとをステアーし混ぜ合わせる。すると味わ

いはとても柔らかいものになる。まぁ、端から見たらたかだかカクテルごときになにもそ

こまでこだわることもないのにと、お思いだろうが、なにせ「スノップ」と言えばマーテ

ィニと言われるくらい「うるさ方ファン」が多いカクテル。さらに、一つのカクテルに百

とおりのレシピがあるとまで言われているのだ、この話題は21世紀も続きそうじゃな。

 おっととと、最後にオリーブ、レモンピール、オレンジ・ビターのこともお話せんと片

手落ちになるか。まずはオリーブだが、まるまるのグリーン・オリーブ、種を抜いた赤

ピーマンの詰めてあるスタッフド・オリーブがある。では、このどちらかがマーティニに

付いてきたとして、さて、一体これをいつ食べるのが正解なのだろうか。わしもよくお客

にたずねられる。小心な酒飲みはひたすら呻吟(うめき、くるしむ)しなければならぬ。

飲んでから食べるか、食べてから飲むか、ここが思案のしどころか・・・

 わし自体は、オリーブは先に食べるものとお客様に言っておる。どうしてもいやなら、

カクテルグラスからとっておいた方がいいだろう。なぜかというと、オリーブには塩味が

ついておるもので、そのままだとカクテルの味が塩っぽくなってしまう。ちなみに、オリ

ーブのお好きなお方は何個でも食べてもよろしいと思う(わしは、一パイにつき3個)だ。

レモンピールは、なんかお呪いに見えるらしいが、あれはレモンの香りをつけているのだ。

目には見えないだろうが、レモンの香りの霧が一瞬あふれ出ているのだ。まぁ、一種の儀

式の様にも見えないではないの。それと、オレンジビターだが、これは一種の隠し味と言

ってもいいかの。水割りを飲まれる方は、今日の水割りはどうも、と思われたら、このビ

ターを一滴たらすと、飲みやすくなると言われておる(わしゃ、ためしたことはない)。

 いやはや、たかが一つのカクテルの講釈を垂れるのに随分と紙面を使ってしまった。

ちなみに、私事じゃが、どうも同業のバーテンダーに「マーティニ」なんて、こっぱずかしく

て、注文するときは「ドキドキ」するのだが、このカクテルをやった翌日は、だいたい二日酔

の確率は高いの。幾つになっても理想の飲み方は出来ぬ。雀百まで踊り忘れずの比喩の

ごとく、青春時代に染みついた「飲み方」は、わしの人格の一つになってしまった。

だから幾つになっても渋くは飲めんの。と言うわけで、じき50だというのに反省が

つきまとう、懲りないのんべのカクテル談義(と、言えるのか)でした。じゃんじゃん(^ ^;)

参考文献→「東京のBar」枝川 公一・著(プレジデント社)

第5話・「バーテンダーの真髄とは」

 今回のテーマは「BARなるものはどのようにして生まれたか」である。以前

「酒の文化史」、ヨーロッパの酒場事情を人様のものを丸写しで書いてみ

たのだが、BARがどのような道のりを経て登場してきたかについては、

深く追求しなかった。今回はそこの所を、手元にある文献を参考にしなが

ら、皆様と共に核心に迫りたいと思う。

 では、早速始めようではないか。エヘン、えーバーといえば欧米の「イン」とか

「タヴァーン」「サルーン」「カフェ」などから、特別に酒を扱う所が独立

したセクション(部門)となり、俗に言う「洋風居酒屋」になったと思われる。

 BARの語源は、「横棒」だ。他には「バリケード」「バリアー」「走り幅跳び

のバー」とも関連がある言葉だという。これが酒場を意味するようになったのは、

多分、アメリカ西部のフロンティアから起こったと言われておる。幌馬車にウイス

キーを積んだ男が、荒野で幌を挙げ、前に横棒を差し渡して、即席酒場を開店す

る。日本で言うなら「屋台」じゃの。この横棒は馬でやってきたお客が手綱をつ

なぐためだったという説もあるし、酔っ払いが勝手にウイスキー樽に近づくのを

遮るためだったとも言われておるんじゃ。ん〜、その時代が目に浮かぶようじゃの

それに、どちらの説も十分納得できる、みんなもそう思うだろう。

 そして、このバーの内側に立って酒を扱うわしのような職業の人間を、いつし

か「バーテンダー」というようになった。「テンダー」とは決して”軽い人”で

はないぞ(ありゃ、たばこじゃ)。テンダーとは”世話人”とか”最後に相談す

る人”などの意味がある。だから昔からバーテンダーをやる人は「ひとかどの人

物」だったらしい(むむ、むかしでしょ)。アメリカの植民地初期には、バーが

しばしば裁判所もかね、酒場のおやじが弁護士役を引き受けた。又、独立革命の

際の指導者の中にはバーテンダーやバーのオーナーが数多くいたそうな。しかし

その「バーテンダー」と言う言葉が生まれたのは1836年だと言われておる。

 その後、バーという名の居酒屋(居酒屋イコール村さきなんぞ思い浮かべるな)

がアメリカに広まり、横棒は板張りの台に変化していく。1850年代には、バー

は板張りのカウンターバーを設置するのが常識になる。

 この風習は、海を越えロンドンにも伝わり、1859年、T・B・シンプソン

と言うお人がクレモーン・アメリカン・バーという店を開店している。ちなみに

その店のメニューには、現在スタンダードになっているものも少なくない。その中

には、アメリカ東部で、すでに人気のカクテルが載っていたそうだ(ブランディー

コブラ、ジンスリング、シェリーフリップ等)。

 アメリカンスタイルのバーカウンターは、やがてパリのカフェにも導入され、

カウンターはフランス語で「コントワール(売り台)」と呼ばれるようになる。

その内側で働く人は「ギャルソン・ド・コントワール」と呼ばれたのだ。さて、

日本でこのようなカウンターを伴った酒場が出現したのは、1910年(明治4

3年)のことで、銀座のカフェ・プランタンがその第1号である。

 1920年代は(大戦が終わる)、欧米や日本の有名都市が、急速に近代的大

都市に発展した時代じゃ。そして、夜の盛り場に集まる人々が増え(ネオンサイ

ンの発達なども関係してる)、新しい都市文化が育っていく。又、女性の社会へ

の進出が始まったのもこの頃で、カクテルは女性の力が大であることの証明だし、それと

ジャズが盛んになったのもこの頃だ。バーに行くと必ずジャズが流れているが、

そんな時代的な背景があるということを認識することによって、だだいたずらに

巷のバーにジャズが流れているのではないと言うことが、ご理解頂けるだろう。

 そんな世相の中で、バー業界は発展し、バーテンダーという職種も認識されて

いったと思われる(経済がいいと”バブルなららおさら”、文化面も充実するのだ)。

 さて、バーテンダーが創作カクテルの技を競い合うカクテル・コンテストが生

まれたのも、この頃だそうだ。1928年に南フランスのビアリッツで開かれた

史上初のカクテル・コンテストでの、一位入賞は、アカシアという作品(もちろ

ん、このカクテルは今でも健在ですぞ)。

 日本では、1932年(昭和7年)に寿屋(現サントリー)が、ウイスキーを

使った創作カクテルを公募し、46点の入選作品を発表している。これが日本に

おける最古のものじゃ(わしゃ、マイ・東京というウイスキー・ベースのカクテル

を東京にいるときに、先輩バーマンに教わりました)。

 バーテンダーが一堂に、観衆の前で腕を競うコンテストは、1950年(昭和

25年)5月、日本バーテンダー協会主催により、東京・芝でひらかれたオール

ジャパン・ドリンクス・コンクールが最初。一位はあの有名な「青い珊瑚礁」な

のだ(ついこの間もシェーキングしておるぞ)。


 我々は今、20世紀を見届けようとしている。先人達が培ってきた高邁なる精神

そして歴史、それらをしっかり受け継ぎ、さらなる発展に向けて、必ず来るであろう

21世紀の扉をしっかり開こうではないか(でも、7月がちょっと憂鬱(^ ^;<いまとなっては、なぜ憂鬱なのか記憶にありません>)。

「参考文献・世界名酒事典97」

☆今日のお言葉<(_ _)>

 議論に勝つというとは相手から名誉を奪い、恨みを残し、実際面で逆効果になる

現実主義者は知っている、議論で七分勝てば三分は妥協しよう(わし、理想主義者)

 武市の説では、歴史こそ教養の基礎だというのである。歴史は人間の知恵と無智の

集積であり、それを煮詰めて発酵させれば、すばらしい美酒が得られると、武市は

いうのである。司馬遼太郎著・「竜馬がいく」より。

その4話・「マティーニのカミさん」

   21世紀がスタートし、今100年のほんのちょっとだけ消化したわけだが、この 世紀のどのくらいまで、わしがしぶとく存在 し続けられるのか知れないが、まあ、その滅びるまで「あーだこうだと」がなり続け ていたいと思う。  そんなわけで、久しぶりに「天性人後」をお送りする訳だが、今回は初心に帰り、 酒について少しぶってみることにする。なぜ今回酒かというと、実はすばらしい本が 手に入ったのじゃ。それは「日本マティーニ伝説」〜トップ・バーテンダー今井清の 技〜という本じゃ。この本を上梓されたのは、以前当店にぷらっとお寄り下さった 「枝川公一氏」の書き下ろし、仕立てのものじゃ。で、今回先生にお許しを得たわけ じゃないけど、ほとんどそこからの抜粋とさせていただいた。ということで、さっそ く話をはじめようではないか。

 ちなみに、その本はバーマンならびに酒に興味のお持ちの方には必須の一冊である こと請け合いじゃよ。これは、わしが先生にお会いして思い入れが激しいからの、私 淑云々でないのだよ。とにかく手に入れたら、本棚においての宝物になるのは確実 だ。

さてエー(急に背筋を伸ばして)。皆さんはマンハッタンというカクテルをご存知 であろうか。わしが持っている昭和45年初版発行の「バーテンダー教本2」には” マンハッタンは、マティーニに次いで注文率の多いカクテルである”と記されてお る。リアルタイムでは、マンハッタンがマティーニの次とは言いかねるが、少なくと も中年バーテンダーなら、見習のころ教わったのは、マティーニとマンハッタンがカ クテルの双璧、そして、マティーニが王様で、マンハッタンが王女様。現に、今井清 著「楽しむカクテル」の130ページにはマンハッタンのことを「カクテルの女王」 と記されておる。ちなみに、マティーニもマンハッタンも「出生」の経緯には諸説が 紛々であるので、ここではそれは割愛させてもらう。

 しかし、カクテルの王様であるマティーニという稀有なカクテル誕生に関して、興 味をそそられるのが、マンハッタンとのふか〜い関わりである。

 というのは、20世紀においてそうだったように、おそらく21世紀にはいったこ れかも、カクテル王国の王様はマティーニで、女王がマンハッタンであることに飲み 手達に意義異存はないと思うが、しかし、マティーニが数多あるカクテルの頭上に君 臨してやまないのは、実は、マンハッタンあってこそのマティーニであるからして、 王様でいられるのもマンハッタンという「カミサン」のおかげなのである。  さて、それはどうしてであろうか?そこで、マンハッタンの出生について、一つだ け述べなくては話は立ち行かないだろう。では、講談風に話をはじめよう。

 時は1874年、ニューヨーク州知事選、そこでの祝勝パーティで始めて登場した とされるマンハッタン。その主成分は、ウイスキーとスイート・ヴェルモットである (ぱぱんぱんぱん)。1884年に、O・H・バイロンというバーテンダーが書いた カクテルブックに、マンハッタンの「ウイスキーをジンに替えるだけでマ−ティネス になる」という記述が残っている。ちなみに、マティーニは昔マーティネス(mat inez)と言われておる。マーティネスと何度も何度も注文しているうちに、語尾 のZが「すりきれた」と言う考え方である。そして、晴れてマティーニの名でカクテ ルブックに登場するのが、1888年のことである。活字になるくらいだから、その ころまでにはアメリカ各地のバーで、マティーニと言うカクテルがもてはやされたに 違いない。だから、この説に従って話を続けようではないか。

 さて、先ほどのO・H・バイロンのカクテルブックに従うと、キュラソー、ビター ス、ジン、それにスイート・ヴェルモットという構成になり、マティーニの登場にマ ンハッタンが一役買ったのがわかるのである。  ところで、初期のマティーニ、あるいはマーティネスに共通しているのは、その甘 さである。仮に現在のマンハッタンを基にして、その主材料のウイスキーを甘味付け したジンに取り替えたカクテルがマティーニとするならば、愛好者のほとんどが眉を ひそめるに違いない。しかし、マンハッタンのお陰をこうむったとしても、マティー ニの強みは、その出自に縛られず、変化し続けたことだろう。この点について、この 参考文献の主役である「ミスター・マティーニ」の今井清氏は、パレス・ホテルのチーフ・バーテンダーとして活躍していた昭和51年に、マティーニとマンハッタンを比較して、次のように記している。大切な部分なので読み飛ばさないでもらいたい。

 「この二つのカクテルは、その色、味、雰囲気、使用材料がまったく対照的なことか ら、常に一対のものとして扱われてきたのです。しかし、最近は、8対2ぐらいの割 合で、マティーニ党が増え、マンハッタンは人気がなくなっています。その原因とし ては、甘口から辛口への嗜好の変化があげられますが、これは洋酒全体に関して言え ることです。日々変わる嗜好を、敏感にとらえるものも、供する側の重要な仕事と言 うことがででます。ところが昔ながらの処方にとらわれ、その姿を変えようとしなか ったことも衰退の原因のひとつです。マティーニが、時代とともに変化したように、 マンハッタンも甘口一本やりでなく、その配分を変える工夫をするならば、嗜好の変 化にも対応できたのではないでしょうか」

 この今井氏の自戒の念はよくわかる。しかし、40年代頃のカクテルブックにはド ライのマンハッタンも載っているのだ。わしが思うに、マティーニをこよなく愛する 今井清氏のようなバーテンダーが、マンハッタン(の側)にはいなかったのではないだろう か。まあ、お客のほうにもマティーニに熱くなるようなファンがマンハッタン にはいなかったのかもしれない。まあ、どちらにしろ、一つのカクテルに入れ込んで くれるような熱くなるような人間がマンハッタンにはいなかったと言うことじゃ。わ しはそう思えて仕方がない。とにかく、一方で、マティーニは、客に奉仕し、客から 信頼を得ようとする努力が報われ現在にいたっている。

 そこで、現在日本のバーテンダーの中で最長老の一人であられる銀座の「クール」 の古川緑郎氏にもご登場願おう(数年前、87歳で隠退されました。そう、隠退ですぞ)。

 古川氏は昭和4年、13歳の時に銀座・公詢社ビル1階のバー「サン・スーシー」 に少年ボーイとして入って以来のキャリアであるから、すでに70年を超えて現在も 現役であられる。その長い体験から次のように述壊されたことがある・・・・・・。 「呼び名は同じでも戦前と戦後で著しくレシピが違ってしまったのが、ほかでもない マティーニです。昔は辛口の場合でもジンとベルモットの比率が7対3ぐらいだった のが、いまでは10対1なんていうのは当たり前。超ドライなものになるとベルモッ トは数滴だけ、なんてとこまできている。それほどレシピが変化したかカクテルはマ ティーニだけでしょうね」

 平成6年(1994年)に古川氏が語ったところでは、当時の「クール」のジンとヴェルモットの配合比率は15対1と、圧倒的にジンの分量が多かった。しかし、このバーには「1948」という、もう一つのマティーニがある。これは開業した年の西暦年号(昭和23年)に由来しているのだが、オープン当時のオールド・スタイルを受け継ぐ2対1のマティーニである。このように、全体の3分の1がヴェルモットという配合は、おそらく日本中でもほとんど現存しないにちがいない。二つを飲み比べると、まさに隔世の感がする。

 この21世紀、マティーニは変わらずドライし続けるのだろうか?それとも「1948」のような、ヴェルモットがいくらか領域を拡げるのだろうか?そして、マンハッタンは女王の位置を今世紀も守り続けることができるのだろうか?いつになっても目と舌が離せないカクテルの世界なのだが、そして、わしはいつまでカクテルに翻弄され、この世に存在しているのだろうか?願わくば、いつまでも、カクテルグラスを手放さず、陶然としたまま、ある日「ふっ」と、あの世に旅立てたら、それにすぐる人生はないのではないだろうか(とはいえ、わたくしは今、グラスをギターに代えようとしているので、巷間かまびすしいことであろう、なんてね)。

 参考文献・枝川公一著・「日本マティーニ伝説」小学館文庫。