1988年(昭和63年)9月13日の新聞の記事で、長屋王の邸宅あとから三万点を超す木簡が発見されたという報道がなされた。
木簡の出土地は奈良県二条大路南で、記事の見出しには「奈良時代の超一級史料」とあった。
そして、写真によって浮かび上がる木簡の一片には「長屋親王宮鮑大贄十編」と書かれた文字が読みとれ、もう一片には「内親王御所進米一升」の文字が認められた。
その他にも、高級貴族の家政を示す、「犬司」「馬司」「鋳物所」などの役所や係りが邸内に存在したこと、当時は貴重な牛乳を飲んでいたこと、池には鑑賞用の鶴を飼育していたことなどが木簡から窺えるという。
すでに歴史の表舞台から忘れ去られた奈良時代初頭の最高実力者、その長屋王が1200余年の時を経て、その時よみがえったのである。
謀反の罪で邸宅を兵で囲まれ、無念の思いを抱いたまま妻や子供と共に自死した長屋王、その怨念が時を超えて大量の木簡と共に歴史によみがえったのである。
参考文献・辰巳正明著「長屋王とその時代」新典社。06/6/25/11:40/
長屋王は高市皇子の子で、不比等が右大臣に登りつめたとき、その下の地位、大納言であった。したがって、不比等の死によって自動的に朝廷のトップに躍り出てしまった。
当然、藤原氏は長屋王を警戒した。そして事件が勃発する。
藤原氏念願の首皇子が神亀(じんき)元年(724)2月4日に即位し、聖武天皇が誕生し、その二日後、次のような詔(みことのり)が発せられる。
「勅して正一位藤原夫人(ふじわらのぶじん)と称す」
ここにでてくる藤原夫人とは、聖武の生母、宮子であり、宮子に尊称を与え、これからは大夫人と呼ぶように、と言う意味である。
ところが、左大臣(今日の総理大臣か)となった長屋王とその一派が異議を唱えた。その内容は「2月4日の勅の中で、藤原夫人を大夫人と呼ぶようにとありましたが、謹んで法をみると、皇太夫人という称号があります。<ちなみに、天皇の母の称号には、皇太后、皇太妃、皇太夫人の三つがあって、左から、皇后、皇族出身の妃、豪族出身の夫人を指して呼んでいます>これに照らし合わせれば、藤原夫人と呼ぶべきもので、勅にしたがえば「皇」の字が抜け、逆に法に従えば、大夫人と称すること自体が違法になってしまう。我々は一体勅と法のどちらを守ればいいか、ご指示を仰ぎたい」と言うことである。
この宮子の称号に長屋王がこだわったのにはわけがある。「律令」と「天皇」を悪用した藤原氏(4兄弟)の政局運営に、くさびを打ち込みたかった、というわけだ。
長屋王の抗議に対して、聖武天皇は、次のような勅(みことのり)をだした。
それによると、宮子夫人を大夫人と呼ぶように命じた勅を撤回し、文書で記すときには皇太夫人とし、呼ぶときには「大御祖(おおみおや)」とするように、としたのである。
藤原氏は屈辱を味わった。長屋王をこのままにはしておけない。
長屋王にとっての不運は、この事件の三年後、聖武天皇と光明子の間に、藤原待望の男子基(もとい)皇子が誕生し、前例のない形で、産まれた直後に立太子をすましたにも関わらず、一歳の誕生日を待たずに夭逝(ようせい)してしまった。
皇太子の死の翌年、長屋王の一族は、藤原氏の陰謀によって(長屋王は左道をおこない、占いにより基皇子を死に追いやったというわけだ)、滅亡に追い込まれる。そして、藤原氏の天下が来るのである。参考文献・関裕二著「藤原氏の正体」東京書籍。06/6/27/14:20/
『続日本紀』には、「長屋王の変」勃発時の勅(みことのり)を記録している。
それによれば、「左大臣長屋王は、むごくねじまがり、暗く悪い心根を持っていた。それが今回明らかになったのだ。悪行を尽くしていたから、目の荒い肝要な(寛容なだとおもが?)法律にさえ引っかかったのだ」。
こうして長屋王と室の吉備内親王、その子等が自尽(みずからいのちをたってか?)して果てた。もっとも、長屋王の夫人だった不比等の娘とその子等は許されたのだ。
それなのに、長屋王の変が、えん罪であったとを『続日本紀』自身が認めている。
事件から9年後の天平10年7月10日、長屋王と親交のあった大伴すくね子虫が、碁を打っている最中に相手を斬り殺してしまう、と言う事件が起こった。
被害者は、中臣宮処連東人(なかとものみやこのむらじあずまびと)で、『続日本紀』は、この時、話題が長屋王におよび、子虫は憤慨したというのだ。なぜならば、東人は長屋王を「誣告(ぶこく)」した人であったから、とする。
「誣告」とは、嘘の報告であり、長屋王に罪の無かったことは、ここに明確に記していたことになる。
ちなみに、長屋王の死の直後、光明子が皇后になっている。皇族でない臣下の女性が立后するのは異例である。
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後宮職員令(ごくうしきいんりょう)は、天皇の妻達の称号や人数、資格を表したもので、これによると、妃は二人までで、資格は四品(しほん)以上と記されている。ちなみに、四品は内親王、天皇の娘でなければ得られない地位である。そして夫人は三人で、三位以上、女賓(ひん・全角二つで一つの漢字と見て下さい)は四人で五位以上の女人でなければならない。しかし、妃の上位にある皇后については、規定されていない。妃が四品以上、内親王でなくてはならないと定めているため、常識的には皇后の資格は内親王と考えざるを得ない。しかし、皇后位の資格を曖昧にしたのは、藤原の女人が皇后に登りつめるための抜け穴かも知れず、事実、長屋王の死後、光明子は皇后位についた。
ちなみに、臣下の女人を皇后に立てた例としては、仁徳天皇の時代、葛城曾豆比古(かつらぎのそつひこ)の娘を皇后にしてはいるが、結構時代が遡るし前例とするには無理が感じられるが)参考文献・関裕二著「鬼の帝・聖武天皇の謎」PHP文庫。
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06/6/28/2:20/
藤原氏は一党独裁の権力を守るために、長屋王を陰謀で葬り去ったわけであるが、その代償はあまりに大きかった。
藤原氏は不比等の4人の子の末裔がそれぞれ、南家(武智麻呂・むちまろ)、北家(ほっけ・房前・ふささき)、式家(宇合・うまかい)、京家(麻呂)にわかれ、互いにけん制し、覇を競い合った。最終的には北家が勝利し、摂関政治が始まるわけである。
その4人の不比等の息子が朝廷で活躍するとき長屋王の変が起こるのだが、長屋王の子から8年後の天平9年(737)、4人の兄弟が必死に築き上げた新体制は、あっけなく崩壊する。
この年、九州北部で流行した天然痘は、たちまち都に飛び火し、4兄弟が4ヶ月の間に全員急死するのである。
相手が目に見えぬ病気であったため、世の春を謳歌していた権力者にとってはなすすべがなかった。もしかして、彼等は長屋王の祟りと思ったかも知れない、いや、きっとそう思って亡くなったに違いない。
次回からは聖武天皇です。06/7/3/12:20/