「その10」

「その9」

「その8」

「その7」

「その6」

「13章その5・続き」

 まだまだイエスの奇蹟にちなんだ教会は存在する。神格化とはそういうことである。藤原氏が聖徳太子を神格化するためにいろんな美術品をとりそろえ、これでもかこれでもかと、太子を敬ったのはわが国の仏教をひろめるために他ならない。宗教とはそういうものなのか?ちなみに、キリストというのは、イエスの死後付けられた称号である。イエスは十字架にかけられた後キリストとして、救世主として信じられたのだ。聖徳太子は、息子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が惨殺されたゆえ、太子の血縁が滅ぼされた後、仏教をわが国の礎にしようとした藤原家(とくに光明皇后)によってイエス・キリストの如く神格化されたのだ。

 ちなみの、ちなみですが、イエスは「革命家」だったともいわれています。

 その根拠とするところは、イエスがローマ総督ピラトゥスの判決を受け、十字架にかけられたという事実。それは新約聖書に記されているイエスの生涯の中で、史実として認められている。イエスの時代のユダヤ国は、ローマの属州とはいえ、宗教的にはかなり自由が認められていた。したがって、イエスが、「狭義」の宗教活動のみにたずさわっていたならば、それは、ユダヤ教の最高機関である「サンヘンドリン」によって裁かれるはずであった。そして、その死罪の判決ならば、「石打の刑」の処刑である。事実は、ローマ人によって十字架にかけられた。その意味するところは、十字架というのは、当時は政治犯に用いられた処刑方法であった。いい例が、奴隷の反乱として有名な「スパルタクスの乱」の時、捕らえられた600人もの奴隷が、すべて十字架にかけられたのである。このように、ローマに対する反乱罪に十字架が用いられたのである。イエスが十字架を受けたと言うことは、イエスがローマに対して脅威を与えるような革命運動をおこなった、というわけである。

 しかし、ローマの史料にしろ、ユダヤの史料にしろ、イエスが革命家だったとする記録はない。

 いまから約2000年前の出来事を誰が知ることができるか。新約聖書においては、キリスト教においてのオルガナイザーであるパウロによる書簡の数々が収められていると聞きます。しかし、すべて事実を述べているとは思いません。しかし、イエスが起こしたとされる奇跡にしても、それはあくまで比喩としての表現ではないかと思います。彼が起こしたとされる奇跡は現実の出来事としては信じることはできません。しかし、イエスの偉大さを表現するにはそのような「比喩」が必要だったのではないかと思います。ですから、そのような「誇大広告」のような「比喩」をつかったからといってイエスが存在しない、はたまた、イエスが尊敬するに値しない、とは言えないのではないでしょうか。最初、イエスを弾圧したパウロがその後、イエスの教えを広めたということは、イエスが真に尊敬するに値する人物であったから、彼はユダヤ教の「パリサイ派」から非難されてもイエスの教えを広めたのだと思います。

 宗教を広めるためには「真実」だけを語るだけではダメなのです。

 そこで、聖徳太子、なのです。なぜ、『日本書紀』は、厩戸皇子を聖徳太子として神格化したか?そして、藤原家はなぜ、聖徳太子を敬ったか?なのです。

 そこで、『日本書紀』編纂に関わった人々を検証したいと思います。

06/5/12/3:35/

[その6] /welcome:

 『日本書紀』が、藤原不比等の肝いりで作られた歴史書であることを推理し、強調したのは、上山春平氏(うえやましゅんぺい)と梅原猛氏の二人の哲学者、つまり、史学界からみて門外漢にあたる人々が、さかんに述べ立てているものである。当然、これに対して、史学界の反応は冷たいものだった。

 実証主義を志す学者としては、『日本書紀』の編纂者には時の実力者不比等の思惑を推し量るところはあった、と言うところは認めていいというのが、限界のようです。

 『日本書紀』の中に、天武天皇が歴史の編纂を命じたとある。であるから、天武天皇の肝いりで『日本書紀』が完成したのは当然とされる。ではなぜ、天武が、歴史の編纂を急がせたというと、壬申の乱で、甥の大友皇子を殺して政権を獲得した天武が、その乱の正当性を証明する必要があった、ということらしい。

 そこで、天武天皇の崩年(ほうねん)が西暦686年であることに注意しよう。『日本書紀』の成立はその崩年から34年も経っている。したがって、仮に歴史編纂事業の開始が天武天皇の御代(みよ)のこととしても、最終的に完成したときに、天武天皇にとって都合のいい歴史書ができあがっていたとは限らない。

 正確に言えば、『日本書紀』は、天武天皇にとって都合のいい歴史書ではなく、天武天皇の死後、30年後の政権にとって都合のいい歴史書だったということになる。そして、その政権とは、藤原不比等の政権であり、『日本書紀』は藤原不比等にとって都合のいい歴史書ということになる。

 不比等の父、中臣鎌足は壬申の乱の直前に亡くなっているが、おそらくその子不比等も父にならって大友皇子(天智の子)側についたと思われる。不比等が歴史に登場するのは、天武天皇崩御後である。天武天皇在位中は、おそらく干(ほ)されていたのだろう。

 『日本書紀』のなかで天武天皇の前半生がまったく空白なのは、天武を美化しようとする意思が全くないことのあらわれと思われる。ちなみに、藤原氏の歴史書『藤氏家伝』は、奈良時代後期の政治家・藤原仲麻呂の手で編纂された歴史書である(760年)。

 仲麻呂は鎌足の曾孫(そうそん)に当たる。鎌足の没年が669年で仲麻呂の生年が706年だから、両者には接点がない。しかし、鎌足の息子、不比等の没年が720年であったこと、『日本書紀』編纂も同年である。

 仲麻呂は不比等から、鎌足の生い立ち、生前の活躍を聞いていた可能性が高い。『藤氏家伝』の内容は、ほぼ『日本書紀』とおなじであるとされる。わずかに異伝を差し挟むが、基本的な骨格・描写の仕方が『日本書紀』と似ているのだ。これはなぜか。おそらく『日本書紀』の中に、藤原氏にとって都合の悪いことが書かれていないからだろう。とすれば、やはり、不比等の思惑を推量したのが『日本書紀』と言うことになり、『日本書紀』は藤原不比等の思惑そのものであった可能性は高くなる。

 その証拠に、『日本書紀』は、藤原氏が独裁権力を握った後、焚書(ふんしょ)の憂き目にあわなかったことこそ、『日本書紀』の性格をよく表していると言える。

 06/5/14/12:10/

[その7] /welcome:

 『日本書紀』が、藤原不比等の肝いりで編纂された、それはほぼ間違いないだろう。おそらく大化改新というのが、わが国が大きく変わったときだと思う。それが、土着の人間が天下を取ったのか、それとも渡来系の人間が天下を取ったのか、それはわたくしには判断できない。でも、どちらかというと、渡来系の人間が主導権を持ってわが国を統一したのではないか。そうはいっても、蘇我氏も渡来系だというし、やはり聖徳太子(厩戸皇子)も渡来系かもしれない(秦氏がきになる)。物部氏ですら渡来系というから、わが国はほとんどが大陸から渡ってきたひとびとによって出来た国かも知れない。やはり、土着は縄文人だけか。その縄文人にしても、大陸と陸続きの時列島に渡ってきたのだから、やはり渡来系か。まあそんなことを言うと、きりがないです。

 そこで、今一度、聖徳太子の謎に戻りますが。素朴な疑問として、聖徳太子伝承の数々である。太子の母は厩(うまや)の戸に当たって苦もなく太子を出産したとか、太子が一度に10人の訴えを聞き分けたと言う話は『日本書紀』に記されたものだ。なぜ、聖徳太子は「超人」として歴史に登場したのだろう。

 『日本書紀』における太子の業績は、確実に証明できないし、太子礼讃(らいさん)は度を超している。しかし、だからといって聖徳太子が実在しないとするのは早計だろう。

 問題は、太子が「在俗(ざいぞく・俗人のまま)の為政者」でありながら、他に例を見ない「聖人」として描かれていることだ。

 日本の場合、菅原道真(すがわらみちざね・天神様)のように政治家で後世神格化されたのは、まず間違いなく「何かしらの恨み」をもって死んだ人だった点である。

 06/5/16/13/45/

[その8] /welcome:

 梅原猛氏の『隠された十字架』は、法隆寺の謎を中心に新たな聖徳太子像を構築されている。ここでその本文より、日本における神祀りの一般公式というものを紹介したい。

「上古の日本人にとって最大の神は、祟り神であった。祟り神こそもっとも恐ろしい、もっとも大切に祀らねばならない神であった。そして、祟り神は征服者にとって、かつて彼等あるいは彼等の祖先によって滅ぼされた前王朝の祖先神であった。(中略)太宰府天満宮は、菅原道真(すがわらみちざね)の墓の上に建てられている。道真の石棺のうえに神社が建てられている。それはなぜか。彼の霊をなぐさめるため、彼の霊をこの神社におしこめて、それ以上の祟りを防ぐためであった。それを祀るのは、明らかに藤原氏である。

 道真を讒言(ざんげん)し、道真を(九州)に流した(左遷した)藤原氏が、自身に降りかかるわざわいをまぬがれるために、道真を祀るのである。(中略)

 ではどのような者が祀られ、どのような理由で、そしてどのような事態になるのか。

 一、個人で神に祀られるのは、一般に政治的敗者が多い。

 二、しかもその時、彼等は罪なくして殺された者である。

 三、その罪なくして殺された人が、病気とか天災、飢饉(ききん)によって、時の支配者を苦しめる。

 四、時の権力者は、その祟りを鎮め自己の政権を安泰するため二、その祟りの霊を手厚く祀る。

 五、そしてそれと共に、そういう祟りの神の徳をほめたたえ、よき名をその霊に追贈するのである。

 日本における神祀りの形式が以上のように理解されるとすれば、今、個人として神となった聖徳太子も、そういう人々の系列ではないかという疑問が当然起こる」

 聖徳太子は政治的敗者であった、と言う可能性はあるのか、あるいは祟り神となって後の権力者を恐れさせたのか?謎は尽きない。

 さて、梅原氏は、救世観音(くぜかんのん・太子等身の像)の背中がくり抜かれて空洞になっていることについて、「仏像を彫刻し、中を空にする。それは技術的には一体の仏像を彫るより困難であろう。この精密な傑作を技術的未熟さなために、あるいは手間を省くために、背後を作らなかったとは考えることは出来ない。これは故意に背後を作らなかったとしか考えられないのである。(中略)なぜ、他ならぬ聖徳太子等身の像の中身を空にしたか。それは明らかに、人間としての太子ではなく、怨霊として太子を表現しようとしたからであろう」

 そして、さらに、後頭部に直接打ち込まれた光背を見て、「それは日本人の感覚から言って、最大の涜神(とくしん)行為である。それは恐るべき犯罪である。聖なる御堂(みどう)の聖なる観音に、恐るべき犯罪が行われている。ありうべからざることである。それがありうべからざることであるが、ゆえに、今まで誰一人として、この釘と光背の意味について疑おうともしなかった」

 ちなみに、救世観音は1200年にわたり秘密のヴェールにつつまれ誰も見たものはいなかった。このヴェールをはがされたのは明治17年の夏であった。一人の見知らぬ外人が、政府から公文を持って、突然、法隆寺を訪れた。この外人は、1200年もの長い間秘仏となっていた、仏の入っている厨子(ずし)を開けよというのである。この厨子を開けたら忽ちのうちに地震が起こり、この寺は崩壊するであろうと言う恐ろしい言い伝えがあった。

 しかし、その見知らぬ外人の背後には日本政府がついている。その時期、政府の命令は絶対だった。しかし法隆寺は、明治のはじめ、寺のある宝物を皇室に献上して、その代わりとして政府から金をもらったことがあった。だから、政府の命令は絶対だ。しかたなく僧達は大きな不安を持ってその外人に鍵を渡した。

 法隆寺の僧から夢殿の厨子の鍵を渡された外人はフェノロサ、彼は怯える僧達を尻目に鍵を開けたのである。天変地異は起こらず、1200年もの間、誰の目にも触れなかった仏像は、衆人の目に現れた。この時から、救世観音は、美的観賞の対象となったのである。美術史家のフェノロサは「あたかもダヴィンチのモナリザの如く」と感想を述べている。

 さて、『隠された十字架』の著者・梅原猛氏は、法隆寺が聖徳太子の怨霊を封じ込めるための寺だと推理した。では、やはり藤原氏が聖徳太子を恐れていたというのだろうか。もしそうだとしたら何故か?

 梅原氏は、8世紀の藤原氏の奇妙な動きに関心を示した。藤原氏が衰弱し、一族に危機が訪れた時必ず法隆寺に食封(じきふ・寄付?)が与えられたのだ。このことから、藤原氏が聖徳太子に対し、何かしら後ろめたい気持ちを持っていたのではないか、と考えられたのである。

 06/5/19/2:15/

[その9] /welcome:

 夢殿を中心とする一郭を、法隆寺東院という。これは、かつて、上宮王家の斑鳩宮(いかるがのみや)があったところだが、もちろん聖徳太子の息子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が(蘇我入鹿に滅ぼされて)滅亡した時に焼失し、夢殿は、その跡に建てられたものである。

 東院の再建は、荒れ果てた上宮王院(かつての斑鳩宮をそう呼んだ)を見て嘆いた行信というえらい僧が阿倍内親王(あべないしんのう・聖武天皇と光明皇后の娘)に奏聞(そうぶん・天皇に申し上げること)し、藤原房前(ふささき)に命じて、東院を造ったとされる。

 ちなみに、『東院縁起』(縁起とは社、寺の由来を記す書である)に、疫病が大流行していた天平7年頃(736)からの、光明皇后と法隆寺との関わりが記されている。

 疫病流行当時の天平7年、その年の12月20日に、光明皇后の娘阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が「聖徳尊霊及び今見(こうげん)の天朝」のために法華経を購読した。

 その時期、藤原武智麻呂(むちまろ)と光明皇后を中心とした政権が、疫病の流行により、この上もない苦境に陥っていたときである。その時、彼等が加護を頼んだのが「聖徳尊霊」だったのである。これが、聖徳太子の尊霊という意味であるのは明かで『日本書紀』以外ではじめて「聖徳」(ある説によれば書紀には聖徳太子という贈り名は<諡号>はなかったと書かれてもいるので疑問もあるが?)と呼ばれたのである。また、霊の語には神の意味があるから「尊霊」としたのは聖徳太子を、、神として扱ったことを意味する。

 光明皇后は、自身と藤原氏が危機に陥る度に、法隆寺との結びつきを強化した。それは明らかに、王権の確立のために加護を求めるものであった。

 聖徳太子は神、それも、藤原氏、とりわけ光明皇后の守護神と言って過言ではない。参考文献「聖徳太子誕生」大山誠一著・吉川弘文館。06/5/21/11/10/

[その10] /welcome:

 光明皇后は聖徳太子を敬った。それはよくわかった。それでは、彼女の母、橘三千代とはどのような女性か。

 藤原不比等の妻、橘三千代は、県犬養連東人(あがたのいぬがいのむらじあずまびと)の娘で、はじめ三努王(みぬおう)に嫁して二子を生んだうちの長子がすなわち後の左大臣橘諸兄(たちばなもろえ)となる。天武末年に三努王と離婚して宮中に入り、珂瑠(かる)皇子すなわち後の文武天皇を養育したのが宮仕(みやづかい?)のはじめで、やがて天武の妻である(天智の娘である)持統天皇の深い信任を得て朝堂の枢機を掌握し、藤原不比等に想われてその妻となり、光明子すなわち後の光明皇后となる一女を生んだ。そして、その配偶者の聖武天皇は、また不比等の娘宮子姫の腹なる文武天皇の子首皇子(おびとおうじ)に外ならない。

 天平五年(733)正月十一日に持統天皇が崩御にいたるまで、宮中ひいては当時の国家の中心をなしていたのは、女丈夫の橘三千代その人と言われている。

 さて、『東院資財帖』(時の政府に申告するための財産目録のようなものか)によれば、八角仏殿と記されているのが、現実の八角堂(夢殿を中心とする一郭を法隆寺東院と呼ばれる)のお堂である。これは、不比等のための興福寺北円堂、息子の武智麻呂(むちまろ)のための栄山寺八角堂と同様、故人をしのぶ廟堂的性格のものと考えられる。つまり、上述した東院の復興は、単純に斑鳩宮の再現ではなく、聖徳太子の廟堂(びょうどう)、すなわち御霊屋(おたまや)の建設ではなかったか。

 その夢殿の本尊が救世観音(くぜかんのん)なのである。フェノロサが再発見した仏像である。厳密には聖徳太子と同じ大きさの釈迦像である(上宮王等身観音菩薩木像壱躯)。「上宮等身」というのは、聖徳太子にそっくりという意味なんだろう。それゆえに、法隆寺は聖徳太子信仰のメッカとしての地位を確立するのである。

 光明皇后は、長屋王の変の後、疫病の流行という未曾有の混乱に続く藤原四兄弟の死という危機を乗り越え、藤原の権力を後世に伝えた。その彼女が、架空の聖徳太子の像の前で額(ぬか)づくとは、とうてい思えない。参考文献の大山誠一氏は、父である藤原不比等を思い、その父が創り上げた聖徳太子を敬ったとおっしゃっているが、もし彼女が敬うとするなら架空の聖徳太子ではなく父である不比等であろう。しかし彼女は聖徳太子を敬った。それはやはり、父である不比等から聖徳太子の偉大さ(もしくは太子の偉大であるがゆえの悲惨な滅び方を<それも祖父である鎌足の手によっての>)を教えられていたからではないだろうか。

次回からは「長屋王」を検証しましょう。06/6/5/1:15/