日本史上最も有名な人物、それは「聖徳太子」であろう。
太子といえば”斑鳩(いかるが)”そのいかるがに建つ法隆寺。とりわけ聖徳太子にゆかりの深い夢殿(ゆめどの)は、実は本来の寺院の一角ではなく、太子の宮殿のあった場所にたてられている。夢殿には、生前の聖徳太子をモデルにした、1メートル80センチ近い長身にして面長の救世観音(くぜかんのん)が安置されている。この像こそ明治時代まで「秘伝」として隠されてきた、まさにその像である。
救世観音は、その光背が火炎であり、手に持つ宝珠も火炎状である。八角形の神殿の中で聖火が燃えている設定は何を意味するのか?
法隆寺金堂(こんどう)天蓋(てんがい)に見える忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう)は中近東起源と思われ、ペルシャから高句麗を通って日本へ伝わったものである。金堂、中門(ちゅうもん)の柱の中央のふくらみを持たせる様式の「エンタシス」は、ギリシャ神殿で有名であるが、やはり中近東起源であると思われる。
さて、キリスト教の伝承によれば、未婚のマリヤは天使ガブリエルによってキリストの生誕を予告された。多くの西洋絵画のモチーフになっている受胎告知(じゅたいこくち)である。
聖徳太子も、それと似た話がある。母の穴穂部皇女(あなほべのひめみこ)の夢に救世観音の化身である「金人(きんじん)」が現れて生誕を予告、それから一年後の正月一日に聖徳太子生まれたという。太子が厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも呼ばれたのは、皇后が厩戸の前に来たとき生まれたからだ。
伝説は史実ではないが、なぜ後世に伝説が創作されたか、その基盤となる思想を知る手がかりにはなる。よって伝説・伝承・神話をたんなる架空の物語として退けるのではなく、それが誕生した背景を調べなくてはならない。
太子が正月一日に生まれたというのは、年の変わり目に神の子が生まれるというローマ神話にも関連し、また太子の忌日(きにち)は太陽暦ではキリスト復活の時期に相当する。
太子の誕生と死は、西アジアの死と復活にまつわる行事と密接に関連し、太子伝説はキリスト教をはじめとする西方文化に連なる。その上、太子の母・穴穂部皇女が夢に見た救世観音も、西方から来たとされるのである。
意外に思われるかも知れないが、「聖徳太子」の名称は、はるか後代の平安時代になって創作されたものである。若い頃の太子は厩戸皇子あるいは上宮太子(かみつみやたいし)と呼ばれていて、太子没後、約100年経って舎人親王(とねりしんのう)ら天武天皇の皇子達が編纂した『日本書紀』にも、実は、「聖徳太子」と言う名は登場しない。
「聖(ひじり)にして徳の高い生き仏」として、信仰の対象にまで持ち上げられたのは、後世の僧侶たちが太子のイメージ作りに専心したことが大きい。たとえば『上宮聖徳法王帝説』は江戸時代になって世に広められたもので、著者は法隆寺の僧侶として太子が仏教の聖人であるという伝説を強調した。日本における仏教の興隆と太子信仰は、こうした比例関係に置かれるようになった。
続く。06/3/26/11:25/
聖徳太子の学識は広く、特に陰陽(おんみょう)の知識が豊富だったと言われる。太子が制定した冠位(かんい)には、陰陽五行思想の五常(ごじょう)の仁・義・礼・智・信のすべてが含まれていたことが、それを示しています。
また太子は百済から暦の本や天文地理書、遁甲方術(とんこうほうじゅつ)などの書を取り寄せ、選りすぐった学生(がくしょう)を百済僧のもとに送って、それらを学ばせている。
遁甲とは風水のような方術・占術ではなく、兵術には欠かせない隠遁術、つまり、陰陽の変化に乗じて人目をくらまして身体を隠す、いわゆる忍術のことである。この頃の僧侶は、偏狭な特定教義に凝り固まった宗教家でなく、仏教以外の分野にも広い知識を持つ学者・知識人であり、必要とあれば儒教を講義することもできたのです。
ところで、太子の追悼寺である広隆寺を建てた秦河勝(はたのかわかつ)は太子に近いブレーンで、妃(ひ)・橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)も秦氏の出である。この秦氏のルーツは中央アジアであり、本来の拠点はタリム盆地の亀茲(くちゃ)の北方にあった。
秦氏の名称の起源は、秦の始皇帝の「秦」ではなく、五胡十六国時代に匈奴(きょうど)の一派が建国した「秦(しん)」である。この秦国が滅びた後、秦一族は財宝と共に、すでに同族がいた倭国に渡ったと思われる。
秦河勝の一族・大津父(おおつち)は、突蕨(とつけつ)あるいは蒙古のチンギス・ハーン一族と同様、狼をトーテムとして崇めたが、2〜3三世紀にはすでにネストリウス派と呼ばれるキリスト教の一派が中央アジアに広まっていたことから、この後、改宗したと考えられる。ネストリウス派は三位一体を強調するのが特徴で、対馬にある秦氏ゆかりの神社の鳥居は三つ重なるように配置され、その秦氏は、今日のキリスト教徒とは異なり、新羅と対馬を経由して列島に至る過程において、各地の宗教や信仰と混交していったと思われる。
聖徳太子が仏教に着目した理由は、単に仏教が朝鮮半島で国教とされていたからではない。太子はあくまでも西アジア志向の人であり、仏教が中央アジア、西アジアの宗教だったからである。禅と仏教は本来全く別の宗教なのだが、共に発祥地が西アジアということから、共通点があっても当然なのである。しかし、インド固有の宗教と仏教の間には、共通点は一切見いだせない。
古来、中央アジアにはバクチリアなどギリシャ人の植民地があり、そうしたギリシャ人によって、紀元前3世紀頃に創造されたガンダーラ(今日のアフガニスタン東部からパキスタン北部にまたがる地域)美術にも、インド的な特徴はない。原始仏教は元来、西アジア的なものであり、決してインド的なものでないのです。参考文献は中丸薫氏の著書「古代天皇家と日本正史」です。
続く。06/4/3/1:00/
原始仏教は元来、西アジア的なものであり、決してインド的なものではない、ところが、紀元前6世紀の末、ペルシャのダリウス王が、西アジアを支配すると、ゾロアスター教を国教にするなど原始仏教を迫害した。そのため、原始仏教は東方に難を逃れ、一部はインドに定着した。つまり、仏教はインドで発生したものではなく、西方からインドに伝播したのである。
こうして原始仏教は、ギリシャ世界に重大な影響を与えたのだが、その意味は大きい。ローマ帝国は、政治・軍事でギリシャを支配したものの、ローマ神話の神々が本来ギリシャの神々であることが象徴するように、文化面ではギリシャに圧倒されていた。したがって、ギリシャ世界が受けた原始仏教の影響は、古代西洋最大の帝国に引き継がれたと言っていい。
ユダヤ教のエッセネ派は、ギリシャ化したユダヤ人が生み出したものだが、荒涼とした死海湖畔に信仰による共同生活をしていた彼らは、原始キリスト教とも呼ばれ、ギリシャ語を用いていた。俗を厭(いと)い、けがれを断って禁欲的な宗教生活に生きた彼らにも、原始仏教が与えた影響は少なくない。ちなみに、キリスト教の時代には、末法思想が非常に強く、世界の終焉がいつなのか、熾烈な予言合戦を展開していたのは、このエッセネ派の予言者達である。
ところが、阿弥陀仏(あみだぶつ)、観音(かんのん)そして弥勒菩薩(みろくぼさつ)の起源がインドではなく、西方であることは仏教の神としてなんの抵抗もなく受け入れられているが、実は「観音(かんのん)」とは「光輝を放つ者」という意味の古代ペルシャ語の音訳である。光輝を放つのは古代ペルシャのアナーヒーター女神の特徴で、観音はこの女神と共通点が多く、その姿はいかにも拝火教(ゾロアスター教)の神らしい。
その起源は古代ペルシャのミトラ信仰にある。ミトラとは、太陽神、光と心理の神であるが、ゾロアスター教においては最高神と人間の仲裁者でもある。そして、西アジアで仏教と融合した形で、中央アジア系の民族によって、日本列島にもたらされた。
東大寺の二月堂で行われる「お水取り」は、火のついた松明を振り回す拝火教の行事そのものである。そして、祭神「遠敷明神(おんゆうみょうじん)」とは、実はアナーヒーター女神の音訳で、「北方から正月の水が2本、地下を流れる」という設定は、ペルシャのカナート(地下水路)を表現している。つまり、「お水取り」はアナーヒーター女神に水供える行事なのである。
したがって、夢殿が本来は法隆寺の一部ではなく、西アジアのゾロアスター教の神殿であって、一向に不思議ではない。
どうだろう。「和をもって貴しとなす」で始まる「十七条憲法」を制定し、日本人の根幹をなすような固有文明の源流とされてきた聖徳太子とは、実にこのようにペルシャ・ゾロアスター教の影響も受けていた。なぜ、聖徳太子が、飛鳥文化がペルシャ・ゾロアスター教であったか、その必然を我々は知ることが出来るのだろうか。
参考文献・中丸薫著「古代天皇と日本正史」徳間書店。06/4/7/2:35/
ちなみに、聖徳太子に関してはまだ続きがあります。とにかく太子に関しては謎が多いのだ。
「謎の聖徳太子」と銘打ってタイトルつけましたが、正直不安がいっぱい、聖徳太子には関わらない方がいいかな、って思ったりします。いえ、決して怨霊がどうこうではなくて、数冊の参考文献を読んでの感想ですが、どうも聖徳太子に関しては、謎どころか謎だらけ、というのが聖徳太子を研究する学者・諸先生方の認識なんですから、ど素人が聖徳太子を探るなど愚の骨頂なんです。
とはいえ、聖徳太子ほど有名な歴史上の人物はいないでしょう。そりゃ、信長とか竜馬とかいますが、時代を遡ってみると、神武は神話の世界かも知れないし、天智・天武天皇だと今一つ一般的な話題に上るような人物ではないようです。それに、古代人でお札になった人はいるのでしょうか?ひょっとして、たけのうちすくね(漢字で書けませんが、確か蘇我氏の先祖と言われている人、ヒミコなんてなってないですよね、ひょっとして神功皇后はありか?)もお札になっていたような気もします。まあ、それはさておき、子供の頃から社会科の授業でおなじみの(言っておきますが、わたしは学校で勉強になったのは、九九とひらがなカタカナかけ算割り算足し算引き算しか身に付きませんでした)、小野妹子(おののいもこ)を中国の隋に派遣し、皇帝の煬帝(ようだい)を怒らせた文章<国書>(日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す 恙なきや)を持たせるほど強気な外交をした聖徳太子。そして、神様のような偉大で、10人の意見を一度に聞くほどの優れた頭脳を持つ(豊戸耳のミコト?)、そんな人物像が一般的な聖徳太子のイメージ、認識ではないだろうか。
ところが、王族の一人として厩戸王(うまやどおう・厩戸皇子)という人物が実在したことは確かであるが、その人物が果たして<聖徳太子>という聖人であったかということは疑問であるとする歴史研究家が存在する(どうも、明治時代からそのような学者はいたようである)。
とすると、古来、憲法17条や『三経義疏(さんきょうぎしょ)』などが太子のものではということになる。さらに、その事跡のすべてが事実ではないという大胆な意見をその学者は我々に投げ掛けるのである。
その太子の存在を疑問視する本人曰く「決して奇を衒ったものではないのであるが、さすがに大胆な結論であることも自覚しないわけにはいかない」と、当然なことをいっておられて、殊勝な一面もお持ちの方なのだ。
そりゃそうであろう、聖徳太子が実在の人物でなかったら、さっき言ったように、あの憲法17条も、さらには法隆寺の釈迦像や天寿国繍帖(てんじゅこくしゅうちょう)、そして、貴重な太子に関わる貴重な美術作品はニセモノ、ということになる。
あまりにも大胆な仮説と言わざるを得ない。その仮説を納得いくものとして様々な角度から研究を重ね聖徳太子虚構説を証明しようとする、今回の参考文献の著者ではあるが、まずはわかりやすい説明から紹介したい。
それは、皆さんもよくご存じのとんちで有名な<一休さん>、その一休さんの話をヒントとして、太子の虚構説を説明するのである。次回は、その説明文を引用するところから始めることにします。
06/4/18/3:40/
一休さんのお話をする前に、『記紀(古事記と日本書紀)』には、聖徳太子に関してどのような記述があるか少しだけ踏み込んでみたいと思います。
『日本書紀』によれば、聖徳太子は、生まれながらに豊かな教養と優れた政治理念を持ち、推古天皇(33代・592〜628・トヨミケカシキヤヒメノ命)から、皇太子・摂政に任命され、天皇に代わって国政を指導し、遅れていた日本(倭国)の社会に仏教を中心とする高度な文明をもたらし、さらに、その後の日本のいく末を定めた、と書かれている。
『古事記』は、推古天皇で終わっているが、しかし、最後の崇峻天皇(すしゅん)と推古天皇の巻には、和風諡号(しごう)・宮名・治世年数・陵墓(りょうぼ)の記載はあるが、系譜部分はなく、系譜を持つ最後の天皇が用明(31代・585〜587・聖徳太子の父)で、そこに厩戸王が「上宮之厩戸豊聡耳命(うえのみやのうまやどのとよとみみのみこと)」と見えるのである。
また、「命(みこと)」も重要である。『古事記』には、王族の呼称に「命」と「王」があるが、仁徳天皇(16代・313〜399)以降の下巻になると、両者は出生系譜のうえで、明確に区別され、天皇に即位する皇子は「命」と呼ばれ、逆に「王」を称する皇子の中から天皇は出ていないと言う原則がある。ところが唯一の例外が「厩戸」である。
元来実名の他に「豊聡耳」という尊称をもつのも、歴代天皇以外では厩戸だけである。とすれば、『古事記』の編者が、彼を特別な人物、天皇に準ずる人物として扱っていたのは明かであるが、『古事記』には厩戸の人物像がまったく記されていない。とにかく『古事記』編者は厩戸を特別な人物と見ていたことは確かであり、「厩戸」は存在したと見るのが妥当である。
実名が「厩戸」、それ以外の部分は後から付け加えたことになる。上述の呼称については、最初の「上宮」、奈良県に桜井市に上之宮の地名があり、宮殿跡も発掘されているようだから、一応、『日本書紀』の推古元年四月巳卯条に「父の天皇、愛みたあまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ」とある「上殿」のことと思われる。
次に「豊聡耳(とよとみみ)であるが、「豊」は神名や王族名によく使われる美称で、問題は「聡耳」である。これは「あらゆることを聞き分ける天耳に等しい聡い耳」のことと思われる。とすれば、美称の「豊」と合わせて、明らかに厩戸に特別な能力および人格を付加したと思われる。
とゆうことは、『古事記』では厩戸の事績は記されていないが「美称」を備えたということは『日本書紀』においての、聖徳太子の礼讃の布石なのか???いや、参考文献の著者がいうように、厩戸を<聖徳太子>に変身させるための権威付けを施したというのか?。(ちなみに、古事記偽書説も存在します。一応古事記ができてその8年後?に日本書紀ができたということですが、古事記は平安時代に書かれたという説もあるのですからややこしい)
06/4/19/3:20/
聖徳太子は存在しない。あまりにも大胆な説ではないか。その説を唱える先生は、一休さんの話をヒントにして聖徳太子虚構説を、我々にわかりやすく語りかけるのである。
「まず最初に説明する必要があるのは、厩戸王(うまやどおう)は実在の人物であるが<???引用者のはてな>聖徳太子は実在しない架空の人物であるという意味である。読者の皆さんは、いったいどういうことなのかと思われるに違いない<思います。引用者>。たとえ話をしよう。室町時代の高僧に一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394〜1481)という人物がいる。後小松天皇の落胤(らいいん・落とし種<胤>)とされながら、幼くして僧籍に入り、時あたかも戦乱の中で、女犯(にょぽん)肉食(にくじき)など破戒無慙(はかいむざん)の行動をあえてしつつ、既成教団の腐敗を批判したという人物である。頓知(とんち)・風狂(ふうきょう・風流を強く求めること)・飄逸(ひょういつ・世間の評判など頓着せず、明るくのんきな様)からくる数々の奇行も、真摯な生き方ゆえと思われる。ところが、江戸時代になって仮名草子(かなぞうし)をはじめとして、彼の奇行に仮託した「一休頓知噺(とんちばなし)」が作られた。そして子供向けの「頓知坊主の一休さん」が成立する。
その場合、一休宗純という高僧が室町時代に実在したことは間違いないが、江戸時代に作られた頓知坊主の<一休さん>が架空の人物であることは、誰の目にも明かであろう。確かに同じ<一休>ではあるが、事実と虚構という大きな違いがあるのである。実は、厩戸王と聖徳太子の関係も同じと言えよう。厩戸王と言う人物は実在した。しかし<聖徳太子>は後世作られた架空の人物であったというわけである。」
上述の引用文の著者は、実在の人物である厩戸王と架空の人物である<聖徳太子>を実と虚に明確に区別するべきであるという(それは理解できます)。
ところで、「架空」とはどう意味であるか?架空とは「根拠がないこと、でたらめ、想像上のこと」、と辞書には載っている。架空をその様な意味とすると、厩戸王(皇子)と聖徳太子との関係はどうしても架空という言葉に当てはまらないような気もするが、どうだろう?厩戸王の人物・事績に仮託して(ことよせて)、口実にして聖徳太子を創り上げたのなら、確実に厩戸王(皇子)の人物を根拠に<聖徳太子>像が作られたと思う。一休宗純の<一休さん>という童話にしても、一休宗純の事績が顕彰すべきものであるからそうような噺が江戸時代につくられたのだと思う。であるから、江戸時代に創られたとんちの<一休さん>が全く虚構だとは言えないのではないか。もし、一休宗純が高貴であり歴史に残る物語を残したからこそ、江戸時代の人が一休さんの話を作ったのだろう。決して「都合がいいから」作ったわけではない。
『古事記』には、聖徳太子という名は出てこない。しかし、「厩戸王」を特別な人物として「上之宮厩戸豊聡耳命(みこと)」として登場させている。さらに、鎌足の息子藤原不比等が強く編纂に関わったとされる『日本書紀』には(聖徳太子の名はまだ出てこないと言われるが?)厩戸王を聖人と扱っている。まるで、イエス・キリストの如くである。では、なぜ、不比等は厩戸王をそれほどまでに聖人として「書かねば」ならなかったか?それとも、厩戸王は本当に聖人であったのか。それとも、厩戸王を聖人として登場させねばならない、なにか「深い」わけがあったのか??
ちなみに、引用文の著者は「それではなぜ厩戸王なのかということである(聖人として祭り上げる人物が<引用者注>)。しかし、儒教・仏教などの中国思想が伝来したのは、せいぜい6世紀中葉の継体・欽明朝で、『日本書紀』編纂の百数十年まえのことだから、現実問題として、その間に実在した王族の誰かを、中国的聖天子に仕立て上げることはほとんど不可能であった。とことが、厩戸王の場合は、蘇我系のかなりの有力者であったことは確かで、法隆寺を建立したことも事実である。しかも、子孫が絶滅(蘇我入鹿により太子の息子の山背大兄王の親族はことごとく滅ぼされた)しているから、いかなる話を創作しようと、誰にも迷惑も影響も与える心配はない。」
しかしである。ただ都合がいいから、一人の人物を「聖人」として祭り上げ、わが国の仏教のカリスマとして登場させるであろうか。ましてや、藤原家が不比等以後、法隆寺、そして聖徳太子(と呼ばれる厩戸王)を敬っていくことが、どうしても解せないのである。不比等の創り上げた架空の聖徳太子、なぜにそれほどまでに「敬うの」であろうか。それには、単に都合がいいというのではなく、何か「ふかーーーい」理由(わけ)あるのではないか??
いや、けっしてわたくしは、梅原猛氏の「隠された十字架」を読んだからそういっているのではない、『日本書紀』の太子に対する叙述があまりにも「大仰」だから、そういっているのである。そんなわけで、いましばらく「謎の聖徳太子」を続けたいと思います。参考文献・大山誠一著「<聖徳太子の誕生>」吉川弘文館。
06/4/24/1:45/
以前に書いたかも知れませんが、日本で「徳」のつく天皇や皇太子は、非業の死をとげた人、ほとんど不幸な死に方をした人である。崇徳上皇(在位1123〜1141)は保元の乱に敗れて讃岐へ流され鬼となって死んだという。安徳天皇(1180〜1185)は海に入って死んでいるし、文徳天皇(850〜858)も毒殺されたという噂がある。聖徳太子も子孫25人が惨殺された。美しい名前を贈って、この怨霊を慰める必要があったのではないか???
とはいえ、すこし書きあぐねた感のある「聖徳太子」です。やはりあたくしには荷が重い課題かも知れません。引用文さえ書く気になれません。しかし、ここで筆を止めると「聖徳太子」の謎に迫れないし、やはり時間をかけて謎の解明に向かわなくてはならない。書物は一応漁ってはいるのだが、どうもうまくまとめることができない。あまりにも奥が深いのだ。
まあ、それでもパソコンの前に座ったのだから、引用文であるが少し書いておこう。
『日本書紀』は聖徳太子(厩戸皇子)の鎮魂の書であった。梅原猛著「隠された十字架」(法隆寺論)で書いておられる。さらに『書紀』は「ある事実」を隠すために別の論理、善と悪との相克の論理、善の悪に対する復讐に変えている理由は、『書記』編纂者(藤原不比等)の最大の目的がそこにあるからだと。つまり『書紀』は何よりも現実の藤原政権の合理化にあったと。そのために不比等は自己の権力を正義の味方に見せかけねばならない。聖なる法皇、聖徳太子の子供(山背大兄王)を殺した蘇我入鹿(そがのいるか)を殺した正義の味方、そういう役割を父藤原鎌足に演じさせる必要がある。
善玉悪玉のドラマ。因果応報、善の悪に対する復讐ドラマ。復讐ドラマによって、不比等は仏教政策の根本を確立したと思われる。すなわち、彼は、一方であくまで仏教を、そして、その仏教のシンボルである聖徳太子(厩戸皇子)を崇拝するのである。『書紀』において聖徳太子はイエス・キリストの如く厩戸で生まれ、釈迦の如く衆人の慟哭(どうこく)の中で死ぬ。つまり、すでに『書紀』において聖徳太子の聖人化のドラマは完成しているのである。そして、聖徳太子を聖人化に祭り上げることによって、不比等は仏教の勢力を自己の味方に取り入れようとしたのである。熱烈な太子の賛美。『日本書紀』は太子を聖徳と持ち上げることによって、この不幸な恨める太子の魂を慰めようとしている。ちょうど『古事記』がオオクニヌシの追放と共に鎮魂の書であったように、『日本書紀』は太子の鎮魂の書であった。しかし、そればかりではない。それは何よりも生き残った仏教側の、あるいは太子側の人々の心をとらえるためであった。我々はこんなに太子を崇拝している。そして、我々は太子の敵ではなく、入鹿の敵であった。太子の子孫を殺したのは入鹿一人であって我々ではない、逆に我々こそ入鹿の殺害者であり、太子の復讐者である。こうした歴史的な「偽造」において、藤原氏の宗教政策が示されているのではないか。
参考文献・梅原猛著「隠された十字架(法隆寺論)」。
06/5/10/2:50/
昨日の北日本新聞に「バチカン異説にいらだち」と言う文字が大きく出ていた。あたくしは読んでませんがどうも「ダ・ヴィンチ・コード」というベストセラー小説にバチカン側がいらつくような内容があったようだ。時代が時代なら焚書もんだろう。その内容と言えば、神の子イエスには売春婦であった「マグダラのマリヤ」との間にキリストが子供をもうけた。はたまた、キリストを裏切ったとされる「ユダ」が、実は一番キリストに信頼されていた人物であるなど、バチカンの心を逆なでする内容なのだ。
今から約2000年前の話を21世紀の人間が「嘘か誠か」と喧々囂々と喧しい。そういうことなら、今から1400年前に生きた聖徳太子(厩戸皇子)のことをあーだこうだというのも致し方ないかと思います。でも、話題になった「キリストに妻子/ユダは一番弟子」に興味を引かれ、関係ないと思われるイエス・キリストの話をしましょう。
イエス・キリストは十字架に架けられたゆえに「神」となった。イエス誕生は少なくとも前4年以前と言われているが、イエスの誕生の年については結局はっきりしていない。しかし、聖書によればペツレヘムの馬小屋で生まれたとされる(そういえば、聖徳太子の母穴穂部間人皇女<あなほべのはひひとのひめみこ>も厩<うまや>の前で産気づいたとされる)。ちなみに、イエスが生まれたとされる馬小屋のあったところには、生誕協会が建てられている。325年(イエスがなくなって300年近く経って)コンスタンティヌス帝が建てたものだ。
さて、イエスは故郷ナザレに近いガリラヤ湖周辺で宣教活動を始めた。ガリラヤ湖は死海に注ぐヨルダン川が流れ出す湖。イエスはナゼレに近いカナという町で最初の奇蹟をおこなっている。まずただの水をぶどう酒に変えた。そのカナにイエスが最初の奇蹟をおこなったとして教会が建てられている。
「山上の垂訓」で有名なガリラヤ湖のほとりには、山上の垂訓教会。容量不足(^^;。